(課題)
花見について
言語リハビリの先生から「花見について」という題の作文の宿題がだされた。小学校以来の出来事であるが、いかにも、小学生にも劣る言語能力になってしまっている。
実際、事物を表現しようとしてもそれを表す適当な言葉が思い浮かばない。あるいは思いついても今度は口が言うことをきかない。そうこうしている内に自分が何を考え言おうとしているのかが分からなくなってしまう。
ワープロを打つのもどこにどのキーがあるのか忘れており、肝心のローマ字と仮名との関係、就中、母音と子音との境界が混乱してしまって考え込み、何度も転換表を首っ引き見なければならない始末である。
それでも退院の後の2ヶ月、(リハビリの効果が現れたか)、実用にはほど遠いとはいえ、ワープロも、つっかえ、つっかえ、打てるようになった。
さて、わが家の道路を隔てた向こう側には小学校のグランドがある。その道路は、多摩丘陵の造成地によく見るように、造成地より1段低くなっている。そしてグランド側の法面には道路にそって桜が植えられている。わが家の書斎からこの桜が正面に向き合って見える。しかも車や通行人はわが家の生け垣に隠れて見えない。つまりわが家の書斎は、世間にわづらわされない、おあつらえ向きの花見の場所となっている。今、五分咲きの桜を前にして「花見とは何ぞや」と花見の意味を考えている。
夜半に嵐の吹かぬものかは、という歌が浮かぶ。こちらは夜半に嵐が吹かぬどころか、昨夜の嵐にあって辛うじて生き延びているところだ。それに歌の持つ無常観とちょっと違うーーー
かねて思っているところだが、わが身は、役に立とうと立たなかろうと、ポジティブには既にご用済だが、この世に存在した証に、自分のメッセージをどこかに(たぶん友人、家族に)残しておきたいーーーという欲望に駆られている。これこそ、言語を生み出した人間の(最終的・究極的?)欲求に違いないーーー
急がねばならないーーー
どうやら、望みはリハビリテイションの成否に掛かっているらしいーーー
ひまどっているうちに(つまり、ワープロと頭脳の回転が鈍くなっているゆえに)、桜は今や八分咲き、盛りを迎えようとするところだ。柳は緑、花は紅。
1995、4、8稿