小桜島から春島を望む(中央左側の頂が高角砲台):著者のトラック島再訪(1993)

序 章 

         

  1993年2月、私は2度目のトラック島行きを果たした。
そして、この旅行を契機に、「私のトラック島戦記」を書く気になった。というのは、同行する妻と息子に、あらかじめ島の様子を語っておきたかったのだが、この島を語ると、私のばあい、どうしてもそれが「わが戦記」に結びつかないわけにはいかなくなったからである。

  そもそも、トラック島旅行を思い立ったのは、戦時中、トラック諸島・春島(MOEN)の山の上の高角砲台陣地に立って、美しくも雄大なラグーン(礁湖)を眺めながら、この景色を内地にいる誰かれに見せたいものと思ったことにはじまる。

  もはや内地へ帰ることもあるまいとあきらめていたものが、思いがけない敗戦帰還ということになった。
帰って見れば、日本の都市という都市は焦土、わが町(静岡市)もわが家も焼け、住むところもない。
全てがご破算である。それから戦後の生活が始まった。

  以来、このいまいましい戦争と関わりあるものとは、戦争の思い出を含めて、一切縁を断ち切ったと思うことにした。 

  しかし、私はあのラグーンの風景だけは忘れられない。そのことを知っている妻は、「足腰の立つうちに、行かないと行けなくなりますよ」という。最近、頭と脚の具合が芳しくなく、桟橋を渡るさまなど思うと身がすくみ、しりごみしていると、息子が孝行心を出し、休暇を取って同行してくれるという。

「明日ありと思う心のなにやら」が真実味をおびてき、飛行機旅行なら桟橋を渡ることもあるまいと、急に行く気になってきた。

  かくして、冒頭に述べた「わがトラック島戦記」の草稿にとりかかった。だが、戦記を書くには、50年の間合いはすこし長すぎた。私が海軍に入った年(1943)と、日露戦争の日本海海戦(1905)との間でさえ40年にすぎない。50年前は、日清戦争の黄海海戦(1894)だ。 -----日清日露戦争と言えば、青少年の私たちにとっては物語の時代の出来事であった。

  わが戦争の記憶は断片的になっている。だが、小説ではないから創作で埋めるわけにもいかない。せいぜい私の海軍の履歴書で分かるかぎりの年月日を確かめ、記憶をつなぎ合わせる程度である。 

 

 「わがトラック島戦記」のおかれた背景を知るために、つぎのものをみた。私の実体験以外はすべてこれら戦記による(以下『諸戦記』とよぶ)。

『諸戦記』

 ・児島 襄「太平洋戦争」 、同 「戦艦大和」

 提督や将軍の行動には気を使った書き方をしているが、それでも昭和職業軍人の実像を伺わせるにたる読み物でもある。

 ・池田 清 「海軍と日本」           

 太平洋戦記ではないが、明治以降の日本海軍(軍人)の弱点の終結が太平洋戦争の海軍の敗戦であるとする論に共感をおぼえる。そして、その弱点はかっての海軍だけのものではなかろうと思う。
著者は青山学院大国際政治経済学部教授、1944年海軍兵学校卒、45年海軍中尉の軍歴の持ち主。

 ・林 茂 「太平洋戦争」(日本の歴史25)

 ・阿川弘之 「井上成美」

 ・阿川弘之 「山本五十六」 

 ・阿川弘之 「暗い波涛」

 海軍予備士官群を主体にした小説体。著者が2期予備学生出身のため当時の予備学生出身者の姿がよく分かる。ただし、主人公達が立派すぎる。
私は3期予備学生だったので、1年の間のさまざまな差がみられるのにも興味があった。同著者には、他にも沢山の海軍関係の作品があるが略す。

 ・澤地久枝 「滄海(うみ)よ眠れ(ミッドウェー海戦の生死)」

 ・実松 譲 「海軍大学教育」

 ・その他 本文中に記載

               

 ・私の海軍履歴書

  私がトラックへ赴任するとき携帯して行った士官用履歴書は、グアム沖での乗船沈没の際に、なくしてしまったので、トラックの赴任先部隊で作りなおしてもらった。それを持って帰ったのが、いま手元にある履歴書である。部隊には下士官、兵用の用紙しかなかったので、それを使っている。

  中には、大学の学部学科名、卒業年月日から、横浜出港の日、サイパン寄港の日、グアム沖で乗船が撃沈された日など、本人がはじめから承知していない日付まで詳細に記入されている。本人はそんな申告をした覚えはないし、日記をつける習慣もなかったから、隊長が4艦隊司令部(在トラック、夏島)から聞きたださせて作成したものと思う。

  当時、あちこちで無数の船や飛行機が沈められたり、落とされたりしているなかで、司令部には私のような下級士官の個々にわたる行動が追跡できるような記録があったか、または調査機能があったわけだ。

いま、回想者としてはありがたいことだが、当時の海軍の実戦の重なる不首尾に比べて、人事記帳能力だけが、バランスを失して健在であったようにおもえるのだが。

   * *

  シーズンはずれの2月のトラック島旅行は、旅行代理店で楽に予約できるだろうと思っていたが、グアム、トラック間の便に都合の良いのが週1便しかなく、かつトラックのホテルは1つしかない。建国記念日を挟んだ飛び石連休になるので、案外立て込んでいるとかで、ようやく空きのある旅行社を探してもらえた。

 実際は、現地では日本人客は少なく、この時期日本の旅行社の確保している部屋数が少ないためのようだった。

  旅行は、朝、成田を発って、その日の夜には春島のホテルに到着しているといった具合で、はなはだ順調に進んだ。ただ、始め第一の目的としたトラック島・春島山頂からのラグーンの眺望は、そこへいくまでの途中がジャングル化してしまって行けないというので、果たせなかったのは残念だった。

  けれども、美しい自然の中で、いまだに観光地化せず、かつ適度の文明の利を享受している島で、ゆったりした楽しい数日を過ごすことができたのは予想外の収穫であった。
「わがトラック島戦記」の結末として満足している。 

 海軍予備学生へ進む

目次へ戻る