1 海軍予備学生 

 

(1) 予備学生志願 

  同時代のものにとっては説明の要もなかったことがらも、今となっては状況説明をして置いた方がよさそうなものもある。たとえば---

  海軍予備学生の制度は、海軍が昭和16(1941)年から始めたもので(正確には飛行科予備学生の制度は昭和9から始まる)、旧制の大学・高等学校・専門学校卒業生から志願により採用し、1年程の訓練期間を経て少尉に任官させる制度である。
  当時、大学卒業生は学部、学科により、陸海軍とも主計・技術・軍医など専門を生かして1足飛びに中尉にすすむ道があったが、そうでない者は徴兵検査で陸軍に採られてしまう。最近ある人のご注意により、飛行科予備学生制度の始まり昭和6年を訂正。

  その頃は中等学校以上には必須科目として週1回位の軍事教練があり、そのため各校に佐官級の陸軍将校が配属されており、また武道教師(旧制中等学校では柔道剣道が正科目にあった)などが軍事教練教師を兼務していた。この軍事教練に合格しておれば見習士官教育を経て陸軍少尉に任官できるのだが、その頃の学生には旧弊な学校教練で陸軍嫌いになった者がすくなくない。
私もその例に洩れず、海軍予備学生を志願した。

  予備学生は1年位の訓練を経た後、予備少尉となる。予備というのは後述するような違いがあり、海軍兵学校出と区別するものだが、その頃は「予備」という呼称は階級名からはずされ、予備学生だけに付けていたようだ。
 予備学生は、少尉と兵曹長の間の階級として扱われたが、正規の兵役として認められていたかどうか。なぜならば、予備学生時代に問題を起こして途中でお払い箱になった者がいたが、陸軍の兵役をはじめからやり直さなければならぬと聞いたからだ。
    兵曹長以上の階級を士官、上等兵曹以下から二等兵までを下士官・兵と呼んだ。 

 海軍には、戦闘中の指揮権を受け継ぐ順位を定めた「軍令承行令」というのがあり、その第一条に「軍令は兵科将校官階の上下、任官の先後により順次これを承行す。ただし召集中の予備役および後備役兵科将校は同官階の現役兵科将校に次いでこれを承行するものとす」とある。
 予備学生がなるのは予備役兵科将校であり、任官すると形式的に即日召集されることになる。

 なお、軍医・主計・技術などの各科士官は将校相当官であるに留まり、指揮権は与えられていない。兵科以外の各科士官の階級章は、金筋の縁に赤その他科を現す色地が配せられ、兵科と識別されるようになっていた。

 トラック島で、同僚の特務士官から「軍医や主計士官はサーベルを抜くことはできないのだ」と教えられたのはこのことだ。また、特務士官とは、兵からたたき上げの士官で、特務少佐が最高であった。特務士官は、「特務少佐を頂点として、下士官兵は学校出の将校団とは異次元の世界を構成していた」 (池田 清、「海軍と日本」)

  予備学生出身士官は、かくして兵科将校といいながら、兵学校出と特務士官というプロの中に、素人士官としておずおずと入り込んでいくことになる。 

(2) 土浦海軍航空隊 

  大学の方はこの年、半年繰り上げ卒業となり、私の場合は昭和18(1943)年9月早々、卒業式も済まさぬ内に、土浦航空隊に呼び出された。これは予備学生採用予定者のうち、近視眼者を除いた全員を集めたという噂であったが、約1月かかって体操訓練をまじえながら飛行乗りとしての適性検査をし、「飛行」と「対空(および陸戦)」に専科を分けるものであった。

  このほか横須賀などでは艦砲、暗号解読、電探(レーダー)などあったようだが、土浦に集められたのは上記の2種類で、人数も最大だったのではないか。
       注 対空ーー高角砲(陸軍のいう高射砲)

  適性検査の詳細は覚えていないが、昨今の初歩のTVゲームにあるような、状況変化にすばやく対応する能力をみる類のものが多く、自分でもあまりできはよくなかったようにおもう。

  ただ、床屋にあるような回転椅子に座わらされ、いきおいよく3、4回、回転されてから立ち上がって静止するという検査だけはうまくいった。なかには倒れて起きあがれないものいた。
 検査官は、心理学を専攻した予備学生出身者だと聞いた。

  驚いたのは、検査の中に人相鑑定師の鑑定があったことだ。
  土浦航空隊の受験組には大学の同じ学部からきた顔見知りが何人かいて、休憩時間になると集まって、お互いに検査の様子などを話し合ったりしていたが、この「人相検査」は格好な話題であった。先に受けた男が、さっそく皆に詳細を報告に及んだ。

  「人相見の前に座って顔を見せていると、向こうが黙って手を挙げて横に振るから、俺も手をこうして横に振ったら、『横を向くのだ!』と叱られた」

  私は、自分が受けたときの様子はほとんど記憶していないが、四角や丸い顔がいくつも並べて描いてある紙が机においてあったような気もする。とにかく、人相見の試験があるのには、皆びっくりした。海軍の偉い人の中に、この観相師の信奉者がいるらしく、検査がなんとなくユーモラスなものにおもえた。 

海軍首脳のどこかに、なんとなく常識を越えた奇跡を待つような気配が潜んでいたような話である。.

 阿川弘之著「山本五十六(いそろく)」に、開戦時の連合艦隊司令長官山本提督が、まだ航空本部長の頃、大学出の水野という観相師に出会い、いろいろあったのち、この人を海軍の嘱託にして、観相を霞ヶ浦航空隊での、練習生、予備学生の採用試験に加えたとある。

 観相の件は、われわれ素人にも、飛行機乗りにはそれにふさわしい精悍な面があるように思えることだが、同書に、もう1つ似たような挿話---水を石油に変えるといって海軍に売り込もうとした男の話が載っている。
 インチキこのうえない話で、簡単にばれてしまうのだが、ともあれ山本海軍次官(当時)らが、その実験に一応の(あるいは可なりの)関心を示したことになっている。

 別な本だが、知性派といわれた井上成美大将も、手相学は信じないと言いながら、手相学に多大の関心があったという。(阿川弘之、「井上成美」)

 当時の海軍 首脳のどこかに、なんとなく常識を超えた奇跡を待つような気配が潜んでいたようなはなしである。 

  土浦最後の夜に面接試験があった。面接の前に、「飛行」と「対空」について、志望順位を提出しなければならない。私は、地面の上なら人並にやれるが、鉄棒は苦手で、さか上がりしかできないから戦闘機は無理だ、大きい双発の攻撃機の航法掛りくらいならできるだろう、だが、飛行機は死ぬ確率は高かろうと迷う。

  不思議なもので、土浦に1月もいて、毎日、頭の上を飛行機がとんでいるのを見ていると、飛行機乗りになるのが当然のような気になる。みんな憑かれたように「第1志望飛行」と書くようになる。私も意地になって「第1志望飛行、第2志望対空」と書いてだした。

 いよいよ面接の場で、試験官に「第2志望でもいいのだな」といわれ、「はい」と答えて、ひと安心した。私が1人息子のため試験官がああいったのだろうとも思った.。

  しかし、どうしても「飛行」に行きたいと教官に陳情したりするものが大勢いて、その夜は遅くまで構内が騒然としていた。


  大学の最終年、(当時、高等学校や大学では、年に1度、陸軍の演習場へ泊まり掛けでいってやる軍事教練があった)習志野の演習場の廠舎の1夜、
  「わが国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある。むかし、神武天皇、大友・物部のつわものどもを率いたまい---」
にはじまる長い「軍人勅諭」の暗記を強いられ、けっして陸軍なんぞに行くものかと、いいかわした同級生4人がいた。

  その中の1人、は予備学生採用試験のとき病歴を問われ、「神経衰弱」と答えたために跳ねられ、腹いせに、海軍予備学生と同じように作られた陸軍の飛行見習士官を志願して、陸軍の飛行士となった。

 この男は少々ニヒルだが、高等学校時代サッカーなどやっていて、敏捷そうで、もっとも飛行機乗りに向いていたようにおもう。
 は物静かな男だったが、故郷の弘前の連隊に入り、戦死したという。

 残りの2人、と私は土浦まで一緒であった。は、軍隊なぞ軽蔑していると思っていたが、思いがけず熱烈飛行機乗り志望で、ついに土浦組となった。

  この2人の飛行機乗りは、ともに武運強く、私は戦後ふたたび元気な彼らに相まみえることができた。

  

(3) 館山海軍砲術学校  

  私は土浦航空隊での1カ月の検査期間ののち、10月1日いよいよ正式に海軍予備学生に任命され、房総半島突端近くにある館山海軍砲術学校に入学することになった。  

  館山海軍砲術学校は、館山といっても市街地からバスで何10分もかかる房総半島の突端に近い、里見八犬伝で有名な安房(あわ)神社に近い平砂(へいさ)浜というところにあり、学校の周辺には人家もなく、前は広漠とした砂原がひろがっていた。ここは海軍砲術学校といっても陸上の高角砲と陸戦を専門に教えるところであった。

 数年前、「房総めぐり」の家族旅行をした。学校の旧跡を訪ねたい気もあってのことである。
 館山から白浜行きのバスを途中おりて、それとおぼしき地点に立ち寄ってみたが、折りから冬空の下、人気のないリクリエーション施設の他は、寒々とした田圃が高角砲台のあった丘陵までつづくだけで、往時を偲ぶものはなに1つ見あたらなかった。 
(本文をE・メールで読まれた方から「碑」のあることで教えられた。感謝。) 

(分隊士)

  予備学生隊は、総数1200人、6個分隊(分隊は陸軍の中隊に相当)からなり、分隊は、4つの小隊(小隊は陸軍の編成で50人位の最小部隊単位。館山砲術学校は、陸上部隊の訓練学校であるから、陸軍式の編成を採用していたように思うが、これは確かではない)に分かれていた。兵学校出の中尉が分隊長、1期の予備学生出の少尉が分隊士(ぶんたいし)で、これらの人々が担任教官として訓練から行住坐臥の指導に当たっていた。

  私は、第6分隊、分隊士の担当する小隊に入れられた。入隊のはじめ、校庭に2列横隊に整列させられ、少尉から初対面の訓示を受けることになった。その訓示のなかで「今日から海軍はお前たちを採用してやることになったが----」という件りがあった。私は予備学生を志願してきたのは確かだが、海軍に入ってやるというぐらいの気持ちでいたから、「入れてやるのだ」というのに引っかかって、ついニヤリとしてしまった。

  ところがT少尉はこれをめざとく見とがめて、「おい、そこの学生、お前笑ったな。何がおかしい」ときた。

  しまった、余計なことをした、と思ったがもう遅い。本当のことを言うわけにもいかないから、「砂が目に入ったものですから」と、言いつくろった。

  実際、ここは砂浜つづき、風の吹きさらしで砂ほこりがとぶ。その後も、毎日の課業はじめの整列の時、6分隊は最後部にならぶため、朝礼台上が砂埃で見えなかったり、声が聞こえなくて困ることがつねであった。おかげで、毎回そこでやられた旗旒(きりゅう)信号の説明はほとんど分からずじまいだった。

  ともあれ、この件で入校そうそう少尉に睨まれることになった。すこし後になって分かったことだが、少尉は、むかし軍縮会議の全権を務めたことのある海軍大将の息子で、K大ではラグビー選手だったとか。がっちりしていたが、色白く、うつむきかげんに上目使いでポツンポツンとしゃべるしゃべり口は、早口で少しどもり気味であった。
 数カ月前にアリューシャンのキスカ島からあやふく撤退してきた組の1人で、雪で目をやられて目の縁を赤くはらしていた。 

 連合艦隊は、前の年(1942)の6月7日、ミッドウエー作戦と平行して、アリューシャンのアッツ島とキスカ島を奇襲して無血占領した。しかし戦略的に意味をもたぬまま、1年たたぬこの年の5月29日アッツ島は米軍に奪回され、守備隊は玉砕する、 キスカ島の守備軍陸海合わせて5200人は、7月29日、北方方面艦隊の救出作戦が成功して奇跡的な生還をはたした。

  私は、館山砲術学校の訓練生活をそれほど毛嫌いしたわけではなく、人並みにやっていたのだが、なにかというと少尉の目についたらしい。

  ある陸戦訓練(陸軍歩兵式戦闘訓練)の時のことである。場所は学校前の砂原の訓練場、少尉が教官で歩兵の散兵戦の散開の訓練をやっていた。

 散開の方式は、数年前までは、兵隊が横1列に散って匍匐(ほふく)つまりはらばいの姿勢で小銃をぱちぱち打ち、適当な間をおいて、各人バラバラに適当な距離を前に駆け出し、そこでまた伏せって小銃をパチパチやる。こうやってだんだん前進し、いよいよ敵に近づいたところで最後に「突撃に前へ」の号令で剣付き鉄砲(銃剣を付けた銃)で、いっせいに敵陣におどり込む。日露戦争のころのやりかたである。

  さすがの陸軍も、これでは旧式すぎると気付いたのだろう、「傘型散開(かさがたさんかい)方式に改まった。私の中学5年生の頃がそのかわり目で、学校教練で新旧両方を習ったものだ。

 新方式」では、10名位の班(これを陸軍式に分隊と呼ぶのだが、海軍の分隊と紛らわしい)ごとに班長と軽機関銃を担いだもの1名、その弾薬持ち2名がおり、その他は小銃組である。
 傘型散開では、軽機組が前に出てパチパチやり、小銃組はずっと後方に1列縦隊で腹這いになってひかえている。射撃は機銃にまかせ、突撃用の兵員を温存しておこうと言うわけである。

  小銃は38式といって明治38年、日露戦争の時できたもの。重いばかりで、弾5発並べたカートリッジを弾倉に詰めると1発打つ毎に槓桿(こうかん)というハンドルを引っ張って空になった薬莢(やくきょう)をはじきだし、次の引き金をかけるのだから時間がかかる。パチパチといっても大勢がそろって打つ場合のこと。軽機関銃が現在の自動小銃に相当するか。 

  この日も、各班はバラバラに分かれて、この傘型散開の訓練をやっていた。私は、たまたま後ろの小銃組の先頭にいたので、匍匐(ほふく)の半身をおこして前方の軽機組の動きを見逃さないようにうかがっていた。軽機が前進すれば、こちらの小銃組も後をつけなければならない。砂丘の起伏がある上、あちこちに草むらがあるので、体を起こしていなければ前が見えない。

  ところが、訓練が終わって整列したとき、教官は私を指して、「お前は散開の最中、教官がいなければサボるつもりで、どこにいるか探してキョロキョロあたりを見回していた」と説教する。
 こちらは真面目にやっているのに、どうもうまくいかない。初日の件が祟ってこんな調子のことがつづいた。 

  それが、その年の終わり頃になるとどういう訳か少尉の風向きが変わってきた。しまいには彼は数学かなにかの筆記試験の監督で見回りしていたとき、わざわざ私の席に立ち寄り、「どうだ、お前にはやさしいだろう」などと声をかけて、和解と親愛の印を示してくれるようになった。かくして、氏は、妙なことから私の記憶に残る1人となった。

  分隊士のことから、話を先に進めすぎたので入隊の初めにもどす。

  学生隊の兵舎は予備学生のために建てられたらしい。外観は昔の小学校のような木造2階建が3棟で、各棟とも舎中は、間仕切りがない倉庫のような造りの真ん中をモルタル塗りの土間の通路が走り、両側の板張り床には班ごとにテーブルとベンチが並べてある。これを艦内にならって居住区(きょじゅうく)と呼んだ。

 壁側に小銃を立てかけた銃架と銭湯の着物入れのような碁盤目に区切った奥の深い棚があり、各人の衣服持ち物一切を入れた四角に長い黒の麻袋が納まっている。突き当たりの棚の上段の空間がハンモックの格納場所であり、肉屋の店先にかざられたソーセーヂの如く縛り上げられたハンモックがぎっしり立て掛けられている。

  就寝時は、ここから引き下ろされたハンモックを、各人テーブルのある辺の梁のフックに吊るすことになる。吊るすのは容易であるが、ロープでハンモックを巻き締めて、かたづけるのには、ちょっとしたコツと力がいる。初めの頃は「釣り床(つりどこ)訓練」と称して、これをなんべんもやらされるのだが、いつも巻いたハンモックがぐずぐずに崩れてしまう不器用者もいる。
 こういう手合いは、しまいには罰としてハンモックを担いで運動場を1周駆けなければならないはめになる。

  釣り床を卸すための正規の号令があったかどうか記憶にない。

  海軍は、何んでも、本令の5分前に「予告の号令」が掛かる。課業始めの前の整列でも、5分前にはきちんと整列していなければならない。やかましい教官にかかると、5分前の5分前に整列していなければならないことになる。

  就寝時には当直将校が隊内を廻って歩く、「巡検(じゅんけん)」がある。その「巡検5分前」号令が拡声器から流れるのを合図に、釣り床を卸したとおもう。「巡検」の号令と共に当直将校が現れると、学生はハンモックの中で静まり返っていなければならない。
 全隊の巡検がおわるとまた拡声器から号令が流れるが、これが振るっている。

  「巡検終わり、煙草盆出せ。明日の日課予定表通り

  そこでまたゴソゴソ、ハンモックを下りて、兵舎の裏に出してある煙草の吸殻入れのところで1服吸ってもよいことになる。
 海軍はイギリス海軍を真似ているから、煙草盆だせもイギリス船乗りの習慣か。それとも勝海舟の咸臨丸以来の日本海軍の伝統か。

  

  日常の服装は、兵用の、セーラー服式に頭からかぶる、草色のごわごわ木綿の上着とズボンの作業衣。ところが帽子だけは厳(いか)つい濃紺色の士官の正式の軍帽で、若い予備学生としてはあまり人に見せたくない、ちぐはぐな格好である。構内には予備学生隊区域外に下士官兵訓練区域があったから、ここの訓練生と識別するためであったのだろう。

  学生舎各棟の中央階段の踊り場の壁には大鏡が掛けてあり、日曜の外出時には士官姿に盛装して、この前で必ず紳士の身だしなみをたしかめなければならない。(服ブラシが与えられていて、服はおろか帽子の鍔の隅の埃まで念を入れて払うのだ。)
ただし、この階段を上るときは、いかなるときも2段ずつ駆け上らなければならない。若い士官は、ゆっくりと上ったりしていてはいけないというわけである。

  身だしなみのついでに、風呂の話をしよう。夕飯後に風呂の時間があった。頻繁にはなく、おそらく分隊ごとに日が決まっていたのだろう。

  風呂場に行ってみると、小型の銭湯ほどの湯船に、すし詰めに人が入っていて、後からくるものの入る余地がない。裸だから入らなければ寒い。やっと入っても、人の隙間に湯がある始末で、ぬるい。ほうほうのていで出てきた。

 こんな記憶が1度あるきりで、後にも先にも風呂の記憶はない。仲間の学生も同様なはずだが、奇妙なことに誰も垢にまみれていたという記憶はない。
 ただ、暖房が1冬通じて、なかったことだけは確かだ。

 * * *

  学科は、屋外訓練(体操、陸戦、信号、高角砲操作など)と、座学と称する屋内での講義(航海、運用、水雷、砲術、三角など)があり、夜は自習にあてられた。 

(座学)

  座学は、科目数だけは盛り沢山であったが、内容は兵学校(正規の海軍士官養成学校)の教科の目次を、通り1ぺん聞かされた程度のものだった。船が行き交うときは相手を右舷前方に見る(航海術)とか、魚雷戦の極意は「肉薄必中」にあり(水雷術)とか、断片がわずかに記憶に残っている。

 それでも1つ終わるごとに試験があり、なかなか忙しかった。

  座学について、忘れられない記憶がある。それは、中尉少尉級の若い教官でも、自分で書いた黒板の字を自分では消さない。「消せ」というと、傍らで黒板拭きを持っている教員の下士官が消す。イギリス仕込みの階級主義の1端だろうか。

 大学の講義で、有名教授が、迷惑そうにチョークの粉を払いながら自分の書いた黒板の字を消していた姿を思い浮かべて、苦笑した。

(屋外訓練)

  陸戦訓練は陸軍の歩兵訓練である。教官は始めの整列で1こと2こと当日の訓示を述べた後、「教員掛かれ」と助手の下士官に命じて消え去り、あとはだいたいが教員の仕事となる。

 ところが、陸式のものはその下士官もあやしげで、「右向け右では右のかかと、左向け左のときは左のかかとを軸にして回る」(本当はどちらも左足のかかとが軸だ)などといっていたりして、学校教練で何年もやっている学生の方がよく知っている。教員もそれを承知だからいい加減のところでお茶を濁し、あとは砂丘の陰で腰を下ろし円陣を組ませて、雑談で油を売ったりする。

  だが、手旗信号のようなものは、海軍得意の信号兵曹がやるから、学生の方はとうてい歯が立たない。教員が向こうに立っていて何か信号を送ってこちらの学生に読みとらせ、「はい、分かった人は手を挙げ」と、訊くことになる。

  学生は、とうてい全文は読みとれないから、皆黙っている。黙っているのがいらいらしてきて、こちらは、ちょっと分かったところをもとに頭の中に適当な文をでっち上げて、えいっと手を挙げる。すると同じような奴がいるとみえて、つられたようにバラバラと何人かが手を挙げる。

 ここで教員は、1番先に手を挙た者を決して指さない。2番目か3番目に挙げた者を指す。指されたものは答えるが、たいてい間違っている。2、3人答えているうちにテレビのクイズのように正解に達するか、出題者の方が正解をいってしまう。こちらの用意した答も当然間違っているのだが、すましていればよい。
 なんべんもやればこの手は使えなくなるのだが、教育期間は短い。急ぐから、こういった訓練は1回限りで卒業となる。

  * *

  訓練というにはいささか疑問だが、「軍歌演習」というのがある。軍歌集を右手に高々と捧げ、左手を大きく振り、隊伍を組んで校庭をぐるぐる回りながら唄わなければならない。大学出たての若者にとっては、歌詞も格好も恥ずかしい限りと思われるのだが、「娑婆気(しゃばっけ)を抜けっ」と教官連に叱咤されるうちに、初めはやけくそ、しまいには結構気が乗ってきて、

「四面海(しめんうみ)なる帝国を、護る海軍軍人は、戦時平時の分かちなく--- 」

などと大声で唄うようになる。 

  これも兵学校の真似だろうが、「棒倒し」がある。上半身裸で、両軍に分かれて、それぞれの陣で守り手になった者が立てた丸太棒に群がってそれを支えている。攻め手は敵の守り手の肩や頭に駆け上り、棒に飛びつき、早く棒を倒した方が勝ちとなる。
このゲームで、W大のピッチャーをやっていたという体格のいい男が、棒の元を抱えて頑張っていたために、大勢の下敷きになって首の骨かどこかを痛めてしまったということがあった。

  ある夜、なにか些細な事件があって、夜の校庭に分隊全員が並ばされて、分隊士連中からビンタ教育を受けたことがあった。「脚(あし)を開け」、「奥歯を噛みしめろ」などといわれながら、1人1人横面にビンタを見舞われる。殴られる方は1回きりだが殴る方は大勢が相手だから、拳(こぶし)が痛かっただろう。

  ビンタ教育なるものを先輩から後輩に伝える意図だったと思うが、私らは、これを次の後輩に伝える機会に巡りあえぬままにしまった。

(夜の自習時間)

  夕食がすむと、発光信号読みとりの練習があるときもあったが、たいていの日は釣り床を下ろすまで自習時間となる。自習は、めいめい好きなものをやればよい。その日の座学のノートをみたり、海軍法規集のようなものの回し読みをさせられる。どこを読めといった指示もないから、肩の凝らない海軍礼装の図を眺めたりしている。

  私は、「三角術」(今はなんと呼んでいるか知らないが、サイン、コサインをあつかった数学)の問題集を解くことにした。
  「三角術」は、旧制高等学校の理科1年の1学期に済ますものだったが、私の場合、学校の授業が終われば、剣道の稽古、晩飯が済めば町へふらふら出掛けるといったぐあいで、数学の問題などを、自ら解くようなことは絶えてなかった。試験はいいかげんにすり抜けてきたが、「三角」はややこしいものだと思っていた。それが、もてあます時間つぶしのための問題解きのおかげで、1年の1学期で済ます程度のものであることが分かった。海軍に入ってからの予期せざる収穫であった。

(演芸会)

  ある夜の自習時間に、しきたりらしく、分隊ごとに演芸会がおこなわれることになった。演芸会といっても、別に何の準備をするわけではない。いつもの自習の時と同じで、班ごとにテーブルを挟んで向き合ってベンチに腰掛けている。殺風景なものだが、それでも各班は競争するように、代表が立ち上がって歌を唄う。うまいのも下手なのもあるが、たいていはありきたりのOO節といったようなものだ。

  ところが、通路を隔てた向こう側の班から、「ツアラーレァンダーの『南の誘惑』を唄います」といって、色白の優形の男が立ち上がった。K大出身とだけで名前は知らない。『南の誘惑』とはその頃あった映画の題名で、そのヒロインが唄う歌でもあったとおもう。私も高校時代その映画を見たことがあったが、もちろん歌なんぞ初めから聞き流していて覚えているわけがない。

  ところが、いささか場違いと思われたその歌が、唄い始まると、どうして巧いもの、妖艶な女主人公が唄っている場面が再現しているような雰囲気になってきた。数カ月前に別れた娑婆(しゃば)のまぼろしが現れたのだ。歌声はしずまりかえった場内を嫋々(じょうじょう)と流れる。

 囚人を思わせる作業服の若いいがぐり頭の200人が、がらんとした天井から寒々と下がっている裸電球の列の下で、押し黙って聞きいっている光景は、はなはだ異様なものであった。 

 戦後のことであるが、もう亡くなったという映画俳優がいた。この人は歌も得意で、片方の掌(てのひら)を耳に当てた独特のポーズで、任侠ものを唄っていた。K大出で予備学生出身だというので、はじめ、とっさに、あの男ではないかと思った。しかし、彼は「飛行科」であったというから、これは人違いであった。  

(体操)

  体操は、毎朝、上半身、裸になってやる、海軍体操(デンマーク体操)というのがあった。この体操は、専門の教官がいて指揮する。当節のエアロビックス流に、始まれば終わりまで静止することなく跳躍と腕を振る動作が続けられる。房総半島といっても、冬の西風は寒い。体は運動のおかげで寒くはないのだが、手はしょっちゅう風を切っているので、こぶしの小指の脇腹に霜焼けができてしまって往生した。

  駆け足は、隊伍を組んで校外を走り回るもので、頻繁に行われた。安房(あわ)神社があるのも、この時知った。若いから、いくら走らされても平気で、かえって大学時代の運動不足を取り返すことができて気持ち良かった。

(クラブ)
  
  ただ、腹の減るのは情けなかった。房総南端の白浜町根本にクラブと称する学校が契約した半農半漁家が何軒かあり、日曜日には短剣姿の盛装で、海岸でこぼこ道を千里も遠しとせず出かけるのであるが、クラブで出されるものは薩摩芋ばかり。それでも腹いっぱい詰め込み、月曜日は急性胃腸カタル続出というありさまであった。
 教員の下士官連中に、「芋学生」と陰口されるのも無理からぬことといえた。

  実のところ 私は、1年前、大学の先輩で、ここで2期予備学生として訓練中の人があり、面会に尋ねていって、館山市街のクラブで、その頃は市井では口にできないようなご馳走をしてもらった経験があった。それが予備学生を志願する1要因にもなったのだが、この1年間に海軍といえども予備学生の食事情はこのように貧しいものになっていた。 

  その腸カタルか何かで、休業、医務室入室中のこと、学生隊長の大佐(名前は覚えていないがとしておく)が見回りにきた。そのとき誰かが、看護兵曹に「体温計を貸してください」といったのを聞きとがめて、「下士官にたいしてそういう言い方はいかん。『貸せ』というのだ」とたしなめられた。
  新兵教育を受けている身では、士官らしさはそう簡単には身につかない。

(大発訓練)

  年の終わり頃、大発(だいはつ)訓練という操艇訓練があった。大発の正式名は知らないが、上陸用舟艇で、車台をはずしたダンプカーを拡大して前後を逆にしたような形をしている。荷台の方に人や車を乗せ、水際で荷台の前面が前に倒れ、兵隊が躍りでられるようになっている。ダンプカーの運転席に相当するのが操舵室で、艇長と舵手がいる。機関室はその下にある。

  操艇訓練といっても、艇を岸壁へ着けたり離れたりする達着訓練である。砲術学校付近は砂浜で、岸壁がないから、離れた州崎(館山港だったか)まででかけていった。
 学生は順に1人づつ艇長になり、あとのものは前の荷台の底に立っている。操舵と機関は教員が担当する。艇長は、「面舵(おもーかじ)」「取舵(とーりかじ)」「ヨーソロー(宜しく候)」などと号令して、斜めに岸壁の接岸地点めざして艇を進める。

  岸壁に近づくと、教官は「大発の1つや2つ壊してもかまわない。心配しないでやれっ」と勇ましいことをいう。

  艇長は「前進微速」「後進」と号令する。ちんちんと機関室に合図が送られる。(のんびりした光景だが、あるいはどこか民間の発動機船のものと記憶が混同しているかもしれない)

 下の機関室では、機関兵がエンジンを操作する。後進にするとスクリューが逆回転して艇の前進運動が止まるとともに、船尾が左による。右舷達着と左舷達着では違うが、この辺をうまくやると、艇が岸壁に横付けになる。いったん止まると、上陸せず、艇長は交代して艇は再び沖側にでる。

  荷台に乗った全員が1通り艇長を務めると、その日の訓練が終わる。海軍に入って初めての海上の訓練である。さて、学校に戻って、2、3日すると、帽子の記章に波しぶきがかかっていたとみえて、青錆が浮いているのが見える。海軍の飯を2、3年も食ったような気がして、皆満悦のていである。

(特別分隊)  

  年が変わり、事態に変化が起きた。当初、訓練期間1年と思っていたのが、成績の良いものを集めて特別分隊をつくり、卒業を3月に繰り上げ、任官させるということになった。私も試験成績がすこしは良かったらしく、この分隊に編入された。戦闘人員がいよいよ逼迫してきたのだが、当人達は早く任官できると内心わくわくしている。

  教科も高角砲の操作や射撃理論など実践的なものばかりとなった。陸戦の講義では、腕を伸ばして指をいっぱい拡げると親指の先と中指の先の間でできる視野の角度が15度になるとか、太陽が地平線からその角度になれば日没は1時間後であるとか、潮の満干は1日たてば1時間遅れるなどと聞かされた。上陸作戦用の知恵らしく、ある種の緊張感を覚えた。ただ、実際の戦局は後で述べるようにもはや違ったものになっていたのだが。

  その頃、学生隊長が大佐に替わった。それまでの大佐は謹厳潔癖型で、毎朝の校庭の集合態勢から、それぞれ日課の場所に移るのに、隊伍を組み歩調揃えて行進し、曲がるにもいちいち号令掛けて曲がるような方針であった。ところが、大佐はポケットハンドで、上着のフックが外れたりしていたが、「何をぐずぐずしてるか。走っていけ」といった調子でいかにも実戦的であった。

  文学部出身の中尉(このころは1期予備学生も中尉に進級していたと思う)も、若いが大佐に似ているところがあった。大発の1つや2つ壊してもかまわないといったのもこの人である。彼の射撃理論講義は、伝法だが、中身は教科書的でなく、いきいきしていて館山訓練中ただ1つおもしろかった。アメリカの爆撃機はレーダーで夜でも地上の目標が見えるなどとも話していた。高角砲の射撃理論については別に触れることにする。 

(模型飛行機射撃演習)

  高角砲射撃の教官には、K中尉のほか、特務少佐がいた。あまり風采は上がらなかったが、少佐という私の記憶に誤りなければこの道のよほどの実力派であったのであろう。この人の演習の時に私はしょうしょうへまをやらかした。

  その頃の射撃原則は、水平飛行を前提に、飛んでくる敵機について、まづ高さを決める。ある時点における飛行位置と飛行方向を想定しておき(想定点)、そこまでの距離を弾丸が飛ぶに要する時間と、その時間中に敵機が到達する将来点を、距離、仰角、水平角に分解して計算する。

 はじめの想定点の距離、仰角、水平角との差が要修正値となる。(高角砲弾は時限(タイマー)信管で爆発するから、距離は信管時間に置き換えられる)。幾つかの想定計算が準備されるとして、ある想定コースに敵機が来ればまづ修正値を砲側に設定させる。砲員が目標を狙っていれば砲身は将来点を向いていることになる。

   理論的には想定点までの距離と将来距離は差があるから、弾丸(目標機も同じ)の飛行時間も修正されなければならない。そうすれば修正角もさらに修正しなければならない。飛行時間もまた修正を要する。こう云うのを追尾計算と云うらしいが、ここではそれはやらない。

 本番では、敵機が予想したコースを来れば、実際の敵機が想定点に達する前から、いわば待ち伏せの形で打ち始める。高角砲射撃は連続射撃が原則である。どこかの時点で弾丸の破裂点と敵機が一致することを期待するわけである。敵機が想定点を越して近づいた時点で、もっと近い第2の想定点に射撃諸元を移し射撃を続ける。

 さて、少佐の演習だが、あらかじめ教室で敵機の高度、速度とか飛行方向も想定した射撃修正諸元を計算しておき、いよいよ戸外での射撃命令の演習にかかる。

 といってもこの演習は仮想の射撃であって、飛行機はもちろん大砲も測距儀もない。ただ竹竿を2本立て針金を渡し、玩具の模型飛行機がつるしてあり、教員の下士官が下から紐を引っ張って動かすようになっている。かたわらで,もう1人の教員が架空の測距の数値を読み上げる。学生は、順にこちらの台に乗って模型飛行機をみながら、射撃諸元と撃ち方はじめの号令をかける。

  私には、この模型飛行機の奇妙な道具立てが、何のためのものか飲み込めずに迷っているいるうちに、番が回ってきて台に立った。しようがないから模型飛行機をみながら、まず第1の想定点での諸元(距離、仰角と水平角の修正角)と撃ち方始めの号令をかけ、いいかげんな間(ま)で、諸元を第2の想定点に変える号令をだした。とたんに、

「まだ目標はそこまで来ていない。なぜ距離をさげる!」

と教官の叱声が飛んできた。教員の唱えている目標機までの距離は、まだ私がはじめに号令した距離まで近づいていなかった--つまり飛行機は最初に待ち伏せした地点までまだ来ていないのに、射撃距離を縮めて命令したことになるのである。

  私は、玩具の飛行機の位置や動きになにか意味があるのかと、そればかり気にしていたが、あれは飛行機が飛んでいるというしるしにすぎないことがようやく分かった。 

高(角砲訓練)

  高角砲の操作の訓練は、8センチ(口径)砲と10センチ(?)砲と12.7センチ砲があった。10センチ砲は、「神武天皇がこれは古いといった」という教員常用のジョーク付きの旧式砲で、例の事前に射撃目標の修正値を机上で計算をしておくというものであったが、馬鹿にしていたためか、神武天皇のジョークだけが記憶にあって、砲そのものについての記憶がない。

  8センチ高角砲は陸軍が野戦に使うもので(陸軍では高射砲という)、海軍の大砲は、砲架はすべて艦艇なら船体、陸上ならば地盤に固着されているが、この8センチ砲は地表に土台となる十文字の梁をのばして砲架を固定させる移動可能式のものであった。

  砲身部を乗せた円筒状の砲架の表面に曲線グラフが刻まれており、射手(砲身の仰角を上下に動かし、引き金を引く係り)と旋回手(せんかいて)(砲身の向きを水平方向に回転させる係り)が砲身を動かすに応じて、円筒にへばりついている者がそこに刻んであるグラフに従って何かを操作すると、砲身はねらうべき目標の将来位置を向くといった仕掛けのものだった。

  第1次大戦時代(?)のドイツ軍のもののコピーだと聞いたが、残念ながらこの戦争に現れた敵の大型機の高度までは弾が届かなくなっていた。 

  対空機銃は、25ミリ2連装で、操縦は高角砲と同じように射手と旋回手が要る。歩兵の軽機は口径8ミリだから撃つとパンパンいう音だが、25ミリとなるとドーン、ドーンと腹に響き、頼もしく思えた。

  12.7センチ2連装高角砲は、砲側の砲員は直接目標をねらわず、射手と旋回手は少し離れたところにある「射撃装置」という1種の大型計算機にのついた照準器で目標を追い、それに連動して射撃データが追尾的に計算され、データはリアルタイムで連続的に砲側に電送される。砲側では、それに従って大砲を動かし、弾を撃つ仕掛けになっていた。

 「射撃装置」には、いずれもこの戦争の初期での戦利品のコピーでイギリス式とアメリカ式があったが、イギリス式の計算機構の重要部品である鋳造カムのコピーが難しいため、計算の方法として円筒に貼った曲線図形を使っているアメリカ式がひろく使われたと教えられた。このあたりの講義や演習になると、ようやく近代兵器らしくなって興味がわいた。 

(卒業)

  最後に裏山の12.7センチ高角砲台で、練習生が「射撃装置」と「高角砲」の操作をし、学生はその指揮をする合同の実弾射撃の演習があった。練習生はわれわれよりずっと若い少年兵であった。

  指揮所は櫓を組んで、高角砲が見おろせる位置にある。これは艦艇の指揮所の発想である。しかし、陸上ではまづ防御を考えるべきことを覚るのは、後のことである。

  標的機は高度800米、標的の吹き流しを付けている。速力100ノット、1射撃ごとに指揮官交代が行われる。標的機はその都度旋回してくる。いよいよ自分の番になった。玩具の飛行機とはちがって臨場感がある。

  それに測距手の言う高度を命令しておけは、あとは自分の思ったところで「撃ち方始め」の号令を掛けてよい。

 双眼鏡をもって撃ち方始めの号令を掛ける。12.7センチ砲は、2連砲であるから、並んだ2カ所の弾丸破裂点が現れるはずだが、1カ所しか見えない。どうしたことかと思うとたん、

「不発弾が見えたか」と教官がいう。

「はい、見えました」

 不発弾が見える訳がない。

  * * *

 実弾射撃指揮の演習を終え、昭和19年3月31日、あわただしくも館山海軍砲術学校(対空高射砲)課程修了ということになった。

 修了の際、全員、講堂に集められそれぞれの任地が申し渡された。北は千島列島から西南太平洋、インド洋におよび、最も近いので硫黄島。私の配属先はトラック島の「第46防空隊というものであった。

 赴任の方法は、新設された部隊と一緒に行くものは別として、めいめいが横須賀の運輸部(?)へ出向いて便乗方法をきめるのであるが、館山では教官から、「任地には必ず飛行機か、船ならば戦艦・空母のような大きいのに便乗して行け」と注意された。                   

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