(補 章)

 「わがトラック島戦記」の背景となったことがらを、戦後現われた書物よって見てみよう。当時私らが、知らなかったり、内容を知らなかったり、無関心であったりした事ばかりである。

(1)太平洋戦争の起源 

   遡って大正、昭和を挟んで行われた、日本海軍にとって、決定的役割を果たすことなった二つの国際会議について、中村隆英教授の『昭和史1』(1993版)は、次のように述べている。

 ワシントン会議

 「1921(大正10)年7月、アメリカのハーディング大統領は、ワシントン会議の召集を提案した。太平洋に関係ある諸国を招き、平和回復にともなう軍備の縮小を取り決め、同時に中国問題の根本的な解決を図ろうとするためであた。原(首相)はこの提議を受けて、海軍大臣加藤友三郎を首席全権とする代表団を選任した」
 しかし、このあと、原は、ある青年の凶弾により倒された。

 「ワシントン会議の焦点は、海軍軍縮、日英同盟の解消、中国問題の三項目であった。
 そして海軍軍縮では、主力艦(戦艦)保有量の比率を、イギリス5、アメリカ 、日本 、フランス、イタリア 1・75とする軍縮が成立した。
 その規模は総トン数によって抑えられたから、事実上、イギリス、アメリカは戦艦15艘、日本は9艘の保有となることになった。

 この提案が、会議の劈頭、アメリカの国務長官ヒェーズによってなされたとき、全権加藤友三郎は激しい衝撃をうけたけれども、これに反対すれば、日本は『酷い目に遭う』から、『主義は賛成せざるべからず』と考えた。
 さらに軍備の拡張のためにも『民間工業力発展せしめ貿易を奨励し真に国力を充実するに非らずんば如何に軍備の充実あるも信用する能はず。平たく言えば金がなければ戦争が出来ぬと言うことなり』 しかも、将来戦戦費を外債でまかなうとして、外債に応じる国はアメリカ以外に見当たらない。『自力で軍資を作り出』す覚悟かない限り戦争はできない。
 そこで『結論として日米戦争は不可能』である。

 ここまで考えたうえで、、加藤は5・5・3の比率をのんだのである。これまで対米7割を基準としてきた日本の建艦計画は、そのために大きな変更を余儀なくされることになった。

 たんなる軍人である以上に良識あるステーツマンであった加藤友三郎とは異なり、次席全権であった加藤寛治以下海軍の随員たちは大変不満であった。
 この不満はやがて10年後のロンドン軍縮会議の際に爆発することになる。しかし、この決断によって、日本の財政は果てしない建艦費の支出から解放されたのである。」

 「ヴェルサイユ会議の結果つくられた国際連盟と、ワシントン条約とは、第一次大戦後の世界の状況を固定させることによって、戦後の平和を維持しようとするイギリスやアメリカの発想の実現であった。
 とくに太平洋諸国の現状維持を定めたワシントン条約は、西園寺ら親英米派にとってはきわめて歓迎すべものであって、これによって、日本は英米に協力して世界政治の采配の柄を握ることができるようになったと考えられた。

 ただし、中国における権益の拡大を望む軍人や、政友会の一部の大陸進出論者(森格など)は、ワシントン会議の結果、日本は全面的にイギリスおよびアメリカに屈伏させられた、という意識をもつようになった。客観的には当時の日本の国力にふさわしい決定がなされたにもかかわらず、帝国主義な膨張論者には耐えがたい不満が残る結果になったのである。」

 

ロンドン会議

「浜口内閣は、1929(昭和4)年の年頭に民政党が発表した10大政綱をその政策としてとりあげた。もっとも緊急なものは、翌30年に迫ったロンドンにおける軍縮会議への対処であった」「ワシントン会議においては海軍主力艦の軍縮が決定され、英米5に対し日本は3、6割の保有が認められていた。しかし、当時の海軍部内にあっては、『太平洋を侵攻してくるアメリカ艦隊に対抗するためには、最低7割の兵力がなければ勝算はない」とする意見が定説になっていた。

 ワシントン会議当時は加藤友三郎海相の声望によってこの批判は抑えられていたけれども、加藤が首相となり、死亡した後、海軍部内においては、ワシントン条約は英米への屈伏である、1930年における補助艦に関する協定においてはぜひ対米7割を確保すべきである、との主張がつよまっていった。

 その一方で、海軍部内においても、加藤友三郎の考えを受けつでいる者も少なくなかったし、浜口(首相)以下の民政党幹部も、西園寺を中心とする宮廷グループーー牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長らも、対英米協調の立場から、比率にこだわることなく、協定の成立を望んでいた」

 「海軍ににおける7割の主張の中心となったのは、軍令部長加藤寛治、軍令部次長末次信正らであった。軍令部は御前会議を開いて補助艦合計で対英米7割の比率を確保すること、大型巡洋艦の保有量7割とすること、潜水艦の現保有量(7万8000トン)確保のいわゆる三原則を決定するように要求したが、西園寺は外交交渉のに譲れない一線をあらかじめ定めることはよくないとして、御前会議の開催を認めなかった。
訓令は対英米7割となっていたが、事実においては譲歩の余地を意識していたのである」 

 「ロンドン会議の全権は、さきの首相若槻礼次郎、海軍大臣と財部彪、駐英大使松平恒雄であった。.軍縮交渉は1月がら開催されたが、果たせるかな、日本の7割要求にたいしは英米からの強い批判があった。しかし、アメリカのリード上院議員と松平大使の辛抱強い交渉の末に、(1930年)3月12日、若槻は米代表スティムソンを宿舎に訪ね、6割9分7厘5毛というきわどい水準で、7割の目標がほぼ達成される数字がまとまった。

この案のミソは、大型巡洋艦の対米比率をほぼ6割に抑えるが、アメリカ側は保有可能な18艘のうち3艘の起工を1933年以降とし、条約の期限である1935年までは、日本が対米7割以上を確保するという苦心の妥協案であった。」「ただし、海軍側には、容易ならぬ不満があった。日本の要求する潜水艦の保有量は大幅に削減されており、大型巡洋艦の保有量も長期においては対米7割から6割に下がることになっていたからである」

しかし、浜口首相は「条約成立を希望する天皇の意向をよく知っていたから、『用兵作戦上軍令部長として責任は取れません』という加藤軍令部長の反対意見をも聴取したうえで、政府の責任で妥協案を承認し、調印するよう訓令を発した」
 (強硬な随員団の中には山本五十六も含まれていた)

 「しかし、この結果政治的混乱が起こった。野党政友会と海軍の強硬派とは結束して、政府が軍令部の意に反して条約に調印したとこは、明治憲法第12条に含まれいる統帥権を政府が侵害したことになるという、激しい批判を展開したのである」 

 「この条約が軍事参議院に付議されたとき、議長をつとめた東郷元帥は、加藤や末次の説に吹き込まれて批准反対であった」「加藤軍令部長も財部海軍大臣も辞職することによって、東郷元帥以下の了承をとりつけるという非常手段がとられたのである」

 「西園寺は政府に対し、あくまで枢密院が反抗するようなら、枢密院の議長、副議長を罷免してでも、この条約を成立させるようにと強く働ききかけ、浜口首相もその決意を固めたため枢密院が折れて、批准しかるへしという結論が導かれたのは、同年9月であった。
 浜口内閣はその政策の第一をこのようにして貫徹したけれども、『統帥権干犯』というキャンペーンのために、軍部、在郷軍人、右翼などの内閣批判は激しくなり、同年一二月、浜口首相は、右翼の佐郷屋留雄に東京において狙撃されて重傷を負い、------」

 「海軍部内も、この波乱のために」「条約を推進するいわゆる条約派と、反対の艦隊派」に分かれ、「条約派とみなされた海軍次官山梨勝之進、首席随員左近司政三、軍務局長堀悌吉は間もなく現役を退かされ、海軍の主流は以降、加藤、末次らの人脈である艦隊派の握るところとなった。このため、以降の軍縮はもはや望めないことになったのである」

        中村隆英著「昭和史T」より抜粋

 

(2) 三国同盟と日本海軍

 ここで、10年後の日米開戦前の内外の軍事状況を、戦後に市販された図書により、見てみよう。

 鳥巣建之助著「日本海軍失敗の研究」(1993刊)によると、“三国同盟締結(p201〜205)”のなかで、つぎのように書かれている。

日独伊三国同盟は、1940年(昭和15年)9月27日ベルリンで調印されが、ヒトラーがどうしてこの同盟を強引かつせっかちに推し進めたか、その裏を読む必要があろう」

 第2次世界大戦において
 1940年7月2日、ヒトラーはつぎの方針を決定した。
『制空権の獲得実現次第、イギリスへの上陸作戦を敢行する』
 次いて7月16日、次の命令を下しだ。
『イギリスは軍事的に絶望的な状態にありながら講和を求めようとしない。私はイギリス上陸作戦を準備し、必要あればそれを実行することを決めた。----全作戦の準備を8月半ばまでに完了せよ』‐ーーー

さて欧州全線で活動いたドイツ空軍の戦いも一段落し、1940年6月と7月中旬中、ドイツ空軍は活力を回復し、部隊の再編成を行い、フランスとベルギーの全飛行場に基地を構築し、そこから英本土への攻撃を開始することになった。0.
 最初の激しい攻撃が始されたのは7月10日であり、この日が英独航空決戦かいしとされている。
 8月までにドイツ空軍は、爆撃機1、015機、急降下爆撃機346機、戦闘機933機、重戦闘機375機からなる2、669機の作戦機を集結させた。ーーーー」 注 フランス、ベルギーともドイツの占領下にあった。

----7月、8月9月中間での約2か月以上にわたって、まさに血みどろの英独航空決戦が続けられた。
 そして、英空軍は次第に勢力をもりかえし、9月15日にはついに英空軍爆撃部隊がブローニュからアントワープにいたる諸港で英本土上陸作戦のため待機中の(独軍)船舶に対し大爆撃を敢行するまでにいたった。 こうして9月17日ヒトラーは『シーライオン作戦』の延期を決定し 英本土上陸作戦を、翌年春までに延期した。

事実上、英本土への上陸作戦は不可能であることをヒトラーは認めざるを得なかったのである。したがって彼は、このことが日本にわからぬうちに、遮二無二、日独伊軍事同盟を締結し、そのあと対そ戦を断行しようとたくらんでいたのである。
 ところが、参謀本部や陸軍省、それに海軍の一部(石川信吾、神重徳、柴勝男----)などは、16年の初夏まで、ドイツの英本土上陸を盲信していた。-----
これら陸海軍の盲信者のとドイツの謀略によって、日独伊三国軍事同盟が締結されることになったのである。

  もし参謀本部が、欧州へ派遣していた駐在武官らの報告を謙虚に検討していたら、あのような大錯誤は防げたであろう----
     
(鳥巣建之助「日本海軍の失敗の研究」(刊93)、著者は昭和5年、海軍兵学校卒、第6艦隊参謀、回転特洪作戦担当参謀)

三国同盟締結の前後における山本司令長官の行動を、川弘之著「山本五十六」昭48刊)に寄れば
  

 この会議で上京したこの時のこと、請われて、山本は時の総理大臣近衛の自邸を訪問し、近衛から、日米戦が起こった場合海この軍の見通しについて、質問を受けた。

山本司令長官は、

「是非私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れてご覧に入れます。 しかし2年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟が出来たは致しかがないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」

と答えたという。 (阿川弘之「山本五十六] )

  しかし、当時われわれ学生や市民は、この段階では、海軍の行動は伝わらない。老いも若きも、ドイツ贔屓であったのであったとおもう。感覚的に、新聞論調に乗せられて。持てる国と、持たざる国との争いで、持たざるがわに付くつごとく。 


(3) トラック島をめぐる太平洋戦争概況 (米軍サイパン攻略直前まで)



 「わがトラック島戦記」の背景となっていた、その時期(館山砲術学校卒業:昭和19年3月)までに繰りひろげられていた戦争一般概況を、『 諸戦記』などによってながめてみよう。

  1941年(昭和16年)

 日本海軍は開戦劈頭の12月8日、南雲忠一中将率いる機動部隊のハワイ真珠湾奇襲攻撃によって、米太平洋艦隊主力に大打撃を与えることに成功したただし、この時の戦果は戦艦、航空機が主で、空母群はハワイにはいなかった。 

1942年(昭和17年)

 5月下旬、連合艦隊は、ミッドウェー海戦で米空母群に打撃を加えるつもりで総力を挙げて出撃したが、作戦計画の暗号無電が米側に解読されていて、6月1日、迎撃され、さらに指揮ミスも加わって大敗し、空母4その他を失った

 それに先立ち、1月、西南太平洋方面では、日本軍はニューブリテン島ラバウルを殆ど無血で占領し、トラックの前進基地としていた。6月にはその南東600マイルのソロモン諸島ガダルカナル島に海軍施設部隊が上陸、飛行場建設を始めたが、同8月、米軍に完了直前の飛行場を奪取された。日本軍はこれを奪回しょうとして消耗戦を繰り返し、壊滅的打撃を受けたすえ、翌年2月撤退を終えた。

 この戦いで、ミッドウエー出撃を除き、開戦以降ずっと広島湾柱島錨地に旗艦を置いていた山本連合艦隊司令長官は、8月、トラックに進出、以後トラックは19年2月まで連合艦隊主力の泊地となった。 

 一方、開戦來、戦備が充分でなかった米国は、ガダルカナル島戦の中期ごろから、次第に動員、生産が軌道にのり、攻勢の条件が熟してきた。 

1943年(昭和18年)

 米軍は本格的反攻態勢に入る。米統合参謀本部は、3月、ニューギニア、ソロモンの双方から、ラバウルを包囲する作戦計画を採用、さらに、5月にはギルバート、マーシャル攻略作戦を承認した。

 これに対し、わが海軍はソロモン方面の航空撃滅戦を企図し、4月、山本長官はトラックから飛行艇でラバウルに移り、ソロモン航空作戦を陣頭指揮した。作戦終了後、ソロモン各基地激励のため飛行機で移動中、米機に迎撃され戦死した。

 8月、米統合参謀本部は、消耗の多いことが予想されるラバウル攻略計画を取りやめ、中部太平洋コース(ギルバート、マーシャル攻略)による反攻ルートを確認した。

 だが、山本の後任の古賀司令部はソロモンに固執し、11月初めソロモン方面の米軍の反攻に対して母艦機と水上部隊をラバウルに集結させたが米機動部隊に破れ、戦力を著しく損耗した。

 9月、ギルバート諸島方面での米機動部隊の活動が始まり、11月下旬、タラワ島に上陸、トラックの主力からの応援えられず、守備日本軍は力戦の末玉砕した。 

1944年(昭和19年)

 1月末、米軍はマーシャル諸島クエゼリン島、ルオット島に来襲、守備軍は壊滅した。クエンゼリン島占領により、トラック島は米軍陸軍機B24の飛行圏内となった。

 米偵察機の出現により米機動部隊のトラック来襲の近いことが明かとなったため、古賀長官は、2月初め連合艦隊主力の待機泊地をパラオ諸島と定め、連合艦隊主力(ただし空母はすべて内地で整備中)のパラオへの退避を命じるとともに、自身は2月10日旗艦「武蔵」他を引き連れてトラックを立ち、15日に横須賀に到着、直ちに軍司令部を訪れ、中部太平洋とくにトラックの防備強化を進言した。

 しかし、2日後の2月17日、米機動部隊はトラックを空襲する。島嶼守備の任にある第四艦隊は、警備怠慢により、応戦間に合わず、延べ450機の来襲で、トラック守備の278機の大半を地上で破壊する大打撃を受けた。翌日、逃げまわる輸送船32隻その他が米機の餌食となり、陸上施設が破壊された。 米軍のおもな損害は航空機25機にすぎなかった。 

 トラックが艦船泊地として役を果たせなくなった後、護る最後の1線、小笠原、マリアナ、カロリン諸島の列島線を古賀長官は『死守決戦線』と名付けて、決戦体制の促進を強調した。

 軍令部(海軍)はサイパンを根拠地とする中部太平洋艦隊(南雲忠一中将)を新設(3月4日発足)した。

 これに先立ち参謀本部(陸軍)は、2月25日中部太平洋方面防備に責任を持つ第31軍を編成し、内地からの守備兵力を急いだ。

 中部太平洋方面艦隊司令部は、サイパン島に置かれた。トラックにある第四艦隊、したがってその指揮下のわが第46防空隊も中部太平洋方面艦隊の支配下であった。 

 連合艦隊は、2月25日、爾後根拠地として、旗艦「武蔵」をパラオに移した。しかし3月末米機動部隊がパラオを空襲、この時も古賀長官は事前に主力部隊を出港退避させた。彼自身は陸上にいたが、空襲後飛行艇でフィリッピンダバオに向かう途中墜落、殉職した。 

 一方、アメリカにおいては、米統合参謀本部は、3月11日、マリアナ諸島攻略を6月に早める太平洋作戦計画の実施をニミッツ太平洋方面総司令官に命令した。
         
(児島襄「太平洋戦争」その他による)

* * * 

 以上が私が館山海軍砲術学校を出るころまでのトラックをめぐる戦況のあらすじである。

  私らは、まさに古賀峯一長官が名付けた『死守決戦線』の島嶼(とうしょ)基地防衛要員としての即席訓練を受けていたことになる。
しかし教育は、島嶼防衛のあり方とかその他基地防衛戦のノウハウについては、まるで触れてはいない。私らは、当面する戦況について何も知らされていない。型通りの大砲の撃ち方だけで送り出された。
 われわれには、手痛い、負け戦だと自覚はなっかたが----。

 


  (4) 島嶼基地防衛戦ノウハウの行方

 山本長官の、一年か一年半は暴れるがそれから先は保証できないという見通しは、当然ながら山本個人というよりも「海軍」のものであったであろう。

 そして彼の真珠湾強襲作戦は、その間に勝機を見つけようとしたものであった。        
 当時の海軍首脳部が漠然と抱いていた期待感を、戦後こう回想する。

 「この戦争は、敵に大損害を与えて、勢力の均衡をかちとり、そこで妥協点を見い出し、日本が再び起ちうる余力を残したところで講和する、というのが、私たちのはじめからの考えであった。ーーー] (富岡定俊『開戦と終戦』)(池田清「海軍と日本」)                         

 彼らは、昭和16年12月、緒戦のハワイ真珠湾奇襲で米太平洋艦隊の主力を撃沈させたが、つづくミッドウェー攻略で、ハワイで打ちもらした空母群を葬むろうとした開戦後半年の作戦では、逆に味方の空母4隻等を失う大敗を喫し、賭は無惨にも破れ去った。

 以降、ガダルカナルを始めとする島嶼の争奪戦に突入していくのだが、島嶼防衛戦の如きは考慮の余地もないーーーつまり島嶼基地防衛戦を必要とするような前提の戦争開始は、あり得なかったのである。それは戦力(経済力、技術力を含めて)明らかに限度を越えるものであった。そして破綻を来したのである。

 それから以降のことは用意していない、いや、できない相談であった。  山本長官がミッドウェー海戦以降、瀬戸内海の柱島泊地を離れて前線に出たのは、心の内に死ぬ場所を求めていたのではなかろうか。    

 そもそも日本海軍の対米基本戦略は、太平洋上で艦隊の主力同士が戦いあって決着を着ける、艦隊決戦主義にあったという。山本の戦略には巨砲に替わって航空機が加わるのであるが、基本的には艦隊決戦主義の線上にあったのである。
 日露戦争の日本海海戦以来の短期決戦である。国力を離れた戦略は考えられない。 したがって、島嶼は艦船の停泊地、航空機の駐留・発進地であっても、基地自体の戦闘能力・防衛能力は無視された。

 戦時中、軍令部の参謀だった人がこう述べている。

 「海軍は、体質として攻撃は極度に重視するが、防御は関心が薄い。
---中部太平洋諸島の防備は、したがって、開戦にあたっても、ハダカどうぜんだった。

----島基地に滑走路を造ろう、そこで艦艇の小修理はできるようにしよう、などと計画するのは、軍令部の作戦課だが、それについての防備をどのように手配するかは、軍令部の2課、つまり防備担当課だ。作戦課の影響力は飛ぶ鳥も落とす勢いだが、防備担当課は、まるでいけない。
---課長と、御付武官兼務部員が1人いて、そのほかにもう1人いたりいなかったり。滑走路はできたが、防備施設は何もできていないということになった」 
(吉田俊雄「海軍参謀」)  

 連合艦隊が常駐していたトラック基地さえ、米機動部隊の襲撃を始めて受けた昭和19年2月17日の段階で、ほとんど無防備であった。トラックの春島の見張り用レーダーもそのときあったか疑問だ。 私が行こうとしている高角砲陣地も、それ以降つくられたものであった。        

 もともと、トラックは第四艦隊の所在地であり、管轄下にあったサイパンもグアムも、トラック以上の防衛能力があったとは考えられない。慌てて人員のみつぎ込んでも、防衛力にはなり得ない。玉砕させ、終わりを待つことになる。    

 私の学んだ館山砲術学校では、島嶼防衛のノウハウどころか、マニュアルにない展開で戸惑うばかりであったであろう。

    

 「1940年(昭和15)から45年に至る間に、アメリカは日本と戦いながら、英国とソ連をも援助する「民主主義の兵器廠」になった。航空機30万機、8万6千台の戦車、7万隻の船舶、5千隻をこえる大型軍艦を生産し、世界中の国々の艦隊を合わせたよりも大きな艦隊を保有するにいたった」                              (熊田 亨「1945年春」東京新聞1995,3,25)

 (「補章」関係の著書は、いずれも戦後の執筆ものである。)                          

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