2 トラック島へ赴任 

(1) 出発まで  

 館山砲術学校をでて、トラックへ赴任する前に、両親にわかれを告げるため1度郷里の静岡に帰った。母は、私の館山訓練中に2度目の癌手術をして、その時は退院して家にもどっていた。しかし私がトラックにいる間に、わが家は戦災にあい、その避難中に亡くなったから、これが最後の別れとなってしまった。父が、寝ている母をリヤカーにのせて清水の叔母の家まで運んでいって、そこで亡くなったらしい。その叔母の家もまた戦災で焼かれたので、母は2度火葬にされたのだと、戦後父は語った。

 戦時中は、同年輩の者は誰も同じであったと思うが、私は戦地にゆくことはあたり前の義務と思っていたから、家を出るときも、故郷をはなれて上級の学校に入学するときの気持ちとそう変わらなかった。しかし、1人息子を送りだす親の方は辛かったであろう。まして、米軍の焼夷弾で、燃える街中をリヤカーに乗せられて逃げまどったのが最後となった母は気の毒でならない。

 しかし、これらのことを知ったのは戦後になってからである。  

 ***

 横須賀へ行って、トラック島までの便乗方法をきめるわけであるが、この間の自分の足どりには、はっきりした記憶がない。
 履歴書によると、

(昭和19年・1944)

3月31日、館山海軍砲術学校(対空高角砲)教程修了

4月 4日、任海軍少尉、同日充員召集に応じ同校に入校

   同日、補第46防空隊附、(第四艦隊附)(中部太平洋方面艦隊)

4月 5日、退校赴任(4月9日第二長安丸便乗)

4月12日、横浜発  

とある。

 これでみると、5日から9日の間に静岡に行き両親に会い、横須賀に行き便乗方法をきめ、それから横浜にいったことになる。 

 第四艦隊は、トラック島に根拠を置き、担当地域の防備と治安維持に当たる部隊で、艦艇を持って打って出て敵と戦う外戦部隊ではない。その上にある中部太平洋方面艦隊は、前章で触れたとおり、サイパン島の陸上に司令部を置く、編成されたばかりのもの(3月4日)であるが、命令された当人達はまるでしらない。

これらの知識は、今になって『諸戦記』から得た知識である。嘘のような話だが、中部太平洋方面艦隊の名前も、46防空隊へついてから履歴書をもらって始めて知ったと覚えている。

 

(横須賀にて)  

 横須賀では、何という部局であったか忘れてしまったが、便乗方法をきめるために言われた建物の言われた部屋のドアを、受付がいると思って開けたところ、中に金ぴかの襟章や参謀懸章を附けた高級士官がいる。これは入口を間違ったかと入るのをやめ、隣のドアからはいったところ、受付風の机があるが誰もいない。壁のドアを開けたら、結局始めに開けた部屋で、少々きまりが悪い思いをした。

 そこでトラックまでの便乗をきめたのか、あるいはそこで何か指示され、具体的な細かいことを決めたのは別の所であったのか記憶にない。なにしろ乗り物をきめるのは、駅の窓口か、旅行代理店のカウンターのようなところと思っていたから、初めて金ぴかの高級士官に会って、どぎまぎしてしまった。

 便乗方法を交渉した相手が誰だったかは、このように曖昧だが、内容はおよそ次のようなものであった。

 トラック島への飛行機は、便乗待機者が多く、われわれのような新米少尉は永いこと待たされそうである。輸送船ならすぐ乗れるというので、館山での教官の(輸送船には乗るなという)忠告を無視して、それにした。トラック島行きの仲間数名も同じ選択をした。航空機はいつ乗れるか分からぬし、偉い人が大勢いる軍艦は窮屈だ。輸送船なら気楽だろうというわけだった。

 もう1つ横須賀で記憶にあるのは、水交社(海軍士官の宿泊、集会所)の食堂での食事である。昨日までの予備学生生活とは大違いで、安くて豊富で酒まで出す。
 しかしこの水交社の恩恵はただの1回で終わった。なぜならば、横須賀はこの1日限りで、その後ふたたびここに來ることはなかったからである。

 

2) 横浜港  

 便乗する輸送船の名は第二長安丸といい、横浜港大桟橋から間もなく出港する予定になっていた。この船は、2千トン位の、もと揚子江通いの客船であったという。

 通常の船員の他に、商船学校出の大尉を指揮官とする海軍の兵隊が乗組んでおり、前甲板に10センチ位の大砲、ブリッジの上の指揮所に13ミリ対空機銃、船尾に対潜水艦用の爆雷を積んでいた。また潜水艦のスクリュー音を聞く探知機をもっていた。
      第二長安丸が第四艦隊所属の船であること知ったのは、今になって『諸戦記』を読んでからのことである。

 トラック行き輸送船便乗組は揃って、出港まで「横浜ニューグランドホテル」に宿をとった。これも舘山をでるとき教官から「海軍軍人は体面を重んずる。宿は必ず1流ホテルに泊まれ」といわれていたからである。

 しかし、ホテルのバーでウイスキーを1杯飲んだら10円取られ、昨日までの芋学生は肝をつぶすばかりである。(当時少尉の月給は6、70円位か。それも留守宅送りだから、ついに自分の手にしたことはなかった)

 第二長安丸にいってみると、指揮官大尉が、「船に移れば宿賃は要らぬ」と勧めるので、一同、早速、船に移った。

 私は、少尉という、館山からの同僚と同室することになった。出港まで何もすることがないので、二人で街をぶらぶらするのだが、横浜は横須賀と違って、ろくな食べ物を出す店もない。中華街(南京街と云ったか)に行っても開店休業状態だ。
 船に戻ってから、指揮官に教えられて、夜日本大通りの料理屋へいった。ここは海軍相手の店らしく、なかなか派手にやっている。ところが帰りに店のものから、今度くるときは酒を持参してもらいたいといわれた。

 当時、酒は配給制であるから容易に手に入るものではない。翌日、少尉と謀って税務署に酒の配給券をもらいに行くことにした。われわれの服装は、陸戦服といって、戦闘帽にヒットラー風の草色の上着とズボン、肩から斜めに背負い皮をつけたベルトをしめ、黒革の脚絆(げーとる)と編上靴、腰に軍刀提げたものものしいものである。この格好で税務署を訪れたのだから係りも部隊用の酒でも調達にきたかと驚いたらしい。「なに、1升で結構」と聞いて、早速配給券をだしてくれた。

 いいかげんの話だが、もらう方もだす方も、陸戦服の効能らしい。

 4月12日横浜港を出港した。船が出るとき、指揮官が「見送がきているぞ」 というので桟橋を見下ろすと、数人の若い女性が手を振っている。昨夜の料理屋の女達である。これも指揮官の差し金らしい。 

 第二長安丸は10数隻の輸送船と船団を組み、これに海防艦、駆潜艇が護衛していた。船団は円陣を作って7、8ノットの速度でジグザク航法で進んだ。第二長安丸は軽武装しており、護衛艦並に外側の位置をとっていた。また初めのうちは、護衛の爆撃機が毎日飛んでくれた。

 第二長安丸の士官室の便乗者は、館山砲術学校同期のH、W、私(以上トラック島行き)、N、O(ポナペ島行き)と陸軍軍医少尉(どこかの島の鼠の調査とか)の6名で、指揮官、船長、1等航海士らと食事を共にした。士官室の食事は、給仕係りがいて、いくらでもお代わりしてくれる。砲術学校以来飢えているわれわれにとては何よりありがたいことである。指揮官や船長が1杯目を食べ終わらない内に3杯目に掛かるよう早喰いに精をだしたものである。

 航海中、便乗組は、昼間は食事の他は何もすることがなく、青い波をながめ、たまには飛魚の飛ぶのを見たりしていたが、夜は2時間交替で乗組の兵曹長の代わりに哨戒長をやらされた。見張り当直者を指揮する役目だが、真っ暗の中で当直兵の顔を見ることもできず、どこで何人の見張りがいるのかも知らないまま、ただ「異常なし」の報告を聞き次の当直に引き継ぐのが仕事であった。

 実際に乗組員が全てを取り運び、われわれは、儀礼的役目をやっていたに過ぎないのだが、この哨戒直が私との運命に関わりがあったことは後に触れよう。

 われわれの航海は、館山での訓練生活からの解放感と、初めての船旅に、なんとなくうきうきしたものがあった。

 護衛の飛行機は数日後から現れなくなった。だんだん護衛が必要な海域になってきたと思うのだが、何処か緊急事態が起きてそっちへ廻ったということであった。

   

(3) サイパン島寄港  

サイパン島  南洋群島のマリアナ諸島の南部の島。面積120平方キロメートル。原住民はチャモロ族。第一次大戦後、日本委任統治領。太平洋戦争中、日米の激戦地。戦後、アメリカの信託統治領。  

 4月23日サイパン島に着く。横浜から11日目である。便乗者は直ちに上陸、出港日まで宿舎で過ごすことになった。この時のサイパン島の印象は、まぶしい日差し、埃のひどい広い道路とバラックじみた家並み、街をはずれれば道沿いにあちこち野積みにされた物資の山、海岸には形ばかりに土嚢を積んだ掩体(えんたい)の中に置かれた野砲などである。

 どこかのコートでテニスに興じていた人影が妙に記憶に残っているが、他には人影についての記憶が残っていないのはどういうわけだろう。私が、人の休憩している暑い日中しか外を出歩かなかったのかもしれない。

 1度、街にでていたとき空襲警報があり、高高度の上空を敵機が1、2機飛んでいくのを見たが、爆弾を落とすわけでもないし、こちらが迎撃する様子も見えない。戦線は遠くにありという感じだけで、間もなくこの島に惨劇が訪れようとは夢にも思い及ばなかった。

 サイパンには、われわれの乗った輸送船が撃沈されたため、1月足らずの後、再び舞い戻る羽目となった。記憶では時期の区別はつかないが、敵機の偵察があったのは後者、つまり5月18日か19日のことであろう。

  
 5月2日、宮中で開かれた「当面の作戦指導方針に関する陸海軍統帥部御前研究」では、(米軍の早急のマリアナ来寇はあるまいと期待しながらも)、「陸海統帥部間の質疑応答で、後宮参謀次長は海軍側の質問に対して、トラック、西部ニューギニアの防御は自信がないと述べたが、マリアナに関しては明快に答えた。

「小笠原、マリアナ地区においては、すでに相当の守備兵力を配備しあり。とくに5月中旬以降輸送予定の第43師団を上陸せしめたる場合においては、敵の攻略意図に対し自信を有す」。東条参謀総長も、「サイパンは難攻不落です」と言明した。

・・・・しかし、この参謀本部の確信に裏づけはなかった。たしかに、参謀本部はすでに2月25日、中部太平洋方面を担当する第31軍を発足させ、4月4日編成された中部太平洋方面艦隊(南雲忠一中將)を指揮下にいれ・・・・・・
・・・・3月からは、ニューギニアの第2方面軍にたいする輸送の大部分をとりやめ、中部太平洋にたいして重点的に兵員、資材を運んだ。

・・・・次第にマリアナ方面の兵力は充実していったが、それでも、サイパン守備の主力第34師団は5月中旬から送る実状である。資材輸送はおくれ、とくにセメント不足のため築城が進まなかった。参謀本部からは、高級責任者は中部太平洋にはトラック空襲(引用者注、2月17日大被害を受ける)以来出張せず、防備状況はたしかめていなかった。(児島 襄@「太平洋戦争」) 

 この中部太平洋方面司令長官南雲忠一中將は、開戦時の真珠湾攻撃で成功した機動部隊の司令長官であり、ミッドウエー攻撃で大敗を喫した機動部隊の司令長官でもあった。       

 前にもふれたように、私の赴任先のトラック島第46防空隊(第四艦隊)は、3月4日この新設の中部太平洋方面艦隊の配下にはいったのであろう。われわれ赴任仲間は、そんなことも一向知らないでいる。あの時、高高度を飛んだ米機は、サイパン攻略のための偵察であったに違いない。

  

(4) 輸送船撃沈 

 4月29日サイパン島を出港、翌30日グアム島着。この頃トラック島は、米機動部隊の第2回目の襲撃を受けていたのだが、便乗組のわれわれには何の情報も伝わってこないから、のんびりしている。

 私の海軍の履歴書には、4月30日大宮島着、5月9日大宮島発とある。大宮島とは、占領後のグアム島の名前である。ここで10日間も寄港しておれば当然上陸していそうなものだが、この時上陸した記憶がない。ただ、夜間ライトをつけて荷揚げをしていたのを舷窓から見ていた記憶が、夢幻のように残っている。

 後に、トラック島で聞かされたことであるが、この間トラックは米機動部隊の2度目の襲撃を受けているから、船団はぐずぐずしていたのかもしれない。はっきりしない期間である。
 グアムには再び舞い戻ることになるのだが、グアム島の印象については、そこで述べよう。

  * * *

 船団が米潜水艦の攻撃を受けたのは、グアム島を出た翌10日の早朝である。わが船室では哨戒直(しょうかいちょく)の順番は、少尉が先で私が後であった。その朝は、が2時から4時まで、私は4時から6時までで、から当直を引き継いだ頃は、もちろん真っ暗な夜中である。真っ暗の中を指揮所で当直に立っていると間もなく第1警戒配備の命令がでた。

 そのまえから、潜水艦のスクリュー音をキャッチしていると聞いていたが、この時の警戒配備命令がどのような経路で出たのか記憶がない。護衛艦から命令が指揮官に直接伝えられるようになっていたのであろう。第1警戒配備で指揮官以下乗組兵員は配置に着くほか、便乗者も全部甲板にでることになっていた。便乗者は、われわれ士官便乗者の他に、船倉には朝鮮人労務者が数百人乗っていた。

 指揮所には、指揮官ほか機銃要員らが上ってきた。ここで便乗組の哨戒長のお役は御免だが、私はそのまま指揮所に残り、皆と一緒に薄暗い海面を見つめていた。

 すこし遅れて信号兵曹が上ってきた。ズボンの筋目にミシンを掛けた、小粋な格好好みの下士官だったが、伸び上がってあくびしたとたん、

あっつ、魚雷ツ」と叫んだ。

 瞬間、左舷かなた前方に魚雷の航跡が見えた。

 誰にも見えたようだ。100米、もっとあろうか。薄暗い海面を、紫がかった煙とともに、2条の白い雷跡がどんどん近づいてくる。薄明で海面の反射がないため、かえってよく見えたのだろう。まっすぐこちらを向いてくる。秒速20米(40ノット)とすれば、10秒の距離は200米だが、もっと長い時間だったような気がする。

 (船長は、あとで、面舵1杯を取ったといっていたが、)外れろ、外れてくれと願っている間もなく、魚雷は吸い込まれるように指揮所の真下に入った。

 一瞬、爆発でこっぱみじんに吹き飛ばされる自分を心に描いて身構えた。ずしんときた。だが異常はない。船腹に穴があいただけですむかと思ったが、前甲板を見おろすと、甲板はすでに海面に飲まれ、砲側にいた兵員達は、みるみる首まで浸かって泳ぎはじめている。指揮所はいちばん高いところだから沈むまでに少しは間がある。しかしどうしたらよいか分からない。

 気がつくと指揮所には誰もいなくなっている。下へおりようと階段までいくと、船長が登ってきて、指揮所に置いてある筏を下に投げはじめた。下には大勢が泳ぎ廻っているから危ないではと思う間もなく指揮所も波間に飲まれはじめた。とっさに編上靴(へんじょうか)の紐を解いて泳ぐ用意をした。水はすぐに首まできた。

 具合よく目の前に機銃用の大きな用具箱が、取っ手をこちらにして浮かんでいる。手をのばして取っ手をつかむと、1掻きも労せずして海面に浮かぶことができた。靴は穿いたままである。

 すでに、周囲はかなり明るんでいた。振り返るとマストと煙突がこちらに傾しいで盛り上がったと見る間にその向こうに、船尾が高々と上がりはじめた。英戦艦レパルスの撃沈の絵(戦艦レパルスは開戦当初マレー沖でわが海軍航空機により撃沈され、当時その繪が広く喧伝されていた)とそくりではないか。後甲板に逃げたものが、ハンドレールに鈴なりにぶらさがり、いろんなものが甲板を滑り落ちる。次の瞬間、第二長安丸は波間に姿を消した。

 近くを機銃の曳光弾が飛んだ。ひっくり返ったボートの腹を見て潜水艦と思って僚船から打ち掛けたものだった。
 波間を漂いながら、わが船のほかに、2隻の僚船がやられているのをみた。1隻は油を積んでいて火達磨になっていた。もう1隻は火薬に火が付いたらしく、大花火を打ち上げたような大爆発を起こして一瞬に沈んだ。どちらも未明の海上に映えるすさまじい光景であった。

 やがて、海上は明るくなってきた。周囲の海面には筏や木片が漂い、それに人々がしがみついている。護衛艦も、無事だった僚船も、姿は見えなくなっている。

 この時、潜水艦のアメリカ兵の顔が頭に浮かんできて、はじめて、俺はアメリカと戦っているのだと実感した。しかしその時はすでにグアム島沖の大洋のただ中にほっぽりだされていた。こうやって泳いでいるが、この先どういうことになるのだろう。

 * * *

 幸いにして、波は高からず水も冷たくはなかった。相変わらず靴を穿いたまま箱とともに漂っていると、ボートに乗った連中に見つけられた。ボートの上には10人ばかり、顔見知りの乗組みの兵員がいる。ボートの縁には大勢がかじりついている。私は箱につかまっているのだからくたびれたわけではないけれど、大勢でいる方が心強い。勧められるまま、お世話になった用具箱と離れて、ボートに引き上げられた。

 第二長安丸には、大型ボートが2艘積んであったが、大勢の人間を乗せるにはほど遠いもので、万一のばあいは筏が頼り、ボート卸はないものとおもっていたが、同僚の少尉が、水泳がにがてで、たまたま近くにあったボートに上り込み、うまく着水したという。ボートの顔ぶれからみて、兵員連中とうまくだしたらしい。

 

(5) 駆潜艇 

 陽はすっかり高くなった頃、護衛の駆潜艇が戻ってきた。それまで潜水艦を追っていたということであった。漂流者は次々と拾われはじめた。先に拾われたものは甲板に並んで、まだ漂流中のものの救出作業を見物している。

 救助も終わりに近づいたころ、木片につかまって泳いでいる男の肩に鼠が一匹しがみついているのが見えた。見物人が「おーい、鼠が肩にいるぞー」と、はやし立てると、水中の男は気が付いて片手で肩の鼠を払い落とそうとする。鼠は左肩を追えば右肩へ、右肩を追えば左肩へと必死である。見物の方は、つい先の惨劇を忘れて大喜びで見ている。

 男はようやく舷側まで泳ぎ着き、甲板から降ろされた縄梯子に片手を掛けた、とたん、鼠は目にも留まらぬ速さで梯子を駆け上り艇内に消えた。

 

 履歴書には、5月10日第二長安丸遭難により第30駆潜艇に移乗、5月11日、大宮島着と記載されているが、遭難の日のうちにグアム島に戻ったと思う。遭難者は、グアム島の警備隊に収容された。

 第二長安丸の士官室関係では、指揮官や船長ら乗組側の幹部は全員無事であったが、便乗組の6名のうち少尉、少尉と陸軍の軍医の3名がもどらなっかた。朝鮮人労務者の半数も亡くなったらしい。他の船の犠牲者については知りえなかったが、火災を起こした船ではやけどを負った人々が悲惨であったらしい。火薬が爆発した船はほとんど全員が助からなかったのではないか。

 死んだ同室の少尉は、哨戒当直を私が替わった後、魚雷を食らったときは船室でぐっすり寝込んでいたに違いない。そして気が付いたときは傾く真っ暗な船内でどうすることもできず海底に飲まれていったのだ。無念であったろう。当直一番の違いが運命を分けたのだ。

 彼はKY大出身の法学士で、額が少し禿あっがった赤ら顔の年輩者風の容貌をしていて、私達よりも貫禄があった。ときに京都の芸子さんの話をしては私を煙に巻いた。郷里は群馬か埼玉辺りであった。

  

(6) グアム島にて 

グアム島は、マリアナ諸島のうち最大、最南端の島。面積約540平方キロ。もとスペイン領、1898年以来アメリカ領。太平洋戦争初期の段階に、日本軍に占領される。 

 マリアナ諸島(サイパン島、テニアン島など)、カロリン諸島(トラック島)などは、第1次大戦後ドイツから日本領に割譲されたものであった。だが、これら諸島の中央に位置するグアム島だけはアメリカ領であった。戦前の地図をみるとここだけ領域線が食い込み、海底電線が集中するなど、いかにも太平洋のアメリカの重要地点であることがうかがえた。

 したがって、私がはじめて見た元アメリカの土地である。            

 そのグアム島に上陸してまず驚いたことは、港から海軍第54警備隊まで、かなりの距離の野原地帯を走る道が舗装道路であることであった。いや、島内の全ての自動車路がそうであったらしい。

 今でこそ、山村の道路舗装など驚くにも値しないことだが、当時の日本では、第1番の幹線である東海道のような幹線道すら砂利道が普通であった。まして、太平洋上の島の自動車路が舗装道路であるとは思いもよらぬことである。

 この道を警備隊のトラックに乗せられて警備隊に向かうのであるが、行く先はかなり平闊な地帯がつづく。ところどころに椰子が立っている。道ばたで島の少年が椰子のみに穴を開けて中の水を飲ましてくれた。始めて南洋に来たなあと思った。

 警備隊の在る街に着いた。警備隊はアメリカ時代の政庁であり、門に至るまでの道の両側には美しいびんろう樹らしい椰子の並木があった。赤坂離宮にあるようなアーチ型鉄製の門をはいれば、広々とした前庭の奥にコロニアル邸宅風の本部建物があった。正面にベランダのある高床式木造建築で、グリーンのペンキ塗りであった。
 その玄関までいく途の傍らに木製の碑が立っていた。書かれた文面によれば、---開戦とともに日本軍がグアム島を占領した。そのときここで日本兵が1人戦死した云々--- と、戦死者1人の犠牲で占領できたと言うような文面であったと記憶している。

 だが、間もなく日本はこの島の陸海軍全滅という犠牲を払うことになるのだ。 

 グアム島は、開戦時(1941年)の12月10日朝、歩兵部隊と海軍陸戦隊が上陸、殆ど抵抗を受けることなしに同日午後には米軍330名を捕虜にして攻略を終えた(児島 襄、「太平洋戦争」)、とある。だから私はアメリカ時代そのままのグアムを見られたことになる。 

 われわれは、構内の1隅にある床の高い、壁が明け放たれたような風通しの良い建物があてがわれた。一同の服装は、靴のないものはもちろん、船の中は暑かったので、シャツだけでいたものがおおかった。私は靴ははいていたし、哨戒長用の双眼鏡もちゃんと胸に下げていたが、上着は船室に掛けたままだった。ほかの船の便乗者だった機関兵曹長は軍刀を後生大事にもっていたが中身は見事赤錆になっていた。指揮官は、ゴム製品に紙幣を突っ込んでいて、こういうときの用心だと自慢げにみせびらかしていた。

 警備隊から、遭難者全員に衣服が支給された。当時の物資事情ではやむをえなかったが、これが麻袋か蚊帳地で作ったような代物であった。

 指揮官、船長ら、第二長安丸の乗り組は、内地に帰ることになったが、われわれ便乗組は任地トラックへ向かわねばならぬ。それにしても無一物ではどうにもならぬ。警備隊の主計長に掛け合って金を借りようと、この麻袋戦闘服を着て本部にそろってでかけた。本部の入口のベランダには、兵曹長の当直将校が、椅子に腰掛けていた。
 来意を告げると、それには答えずに、まじまじとわれわれの戦闘帽の帽章をのぞき込みながら、

「なんだ近ごろ内地では、お前らのも士官のような帽章になったのか」

といぶかしげにいう 。 戦闘帽の帽章の図案は、下士官兵用は楕円内に錨だけだが、士官用は、錨の下に花房模様がついている。われわれは帽子だけは、無事、士官帽をかぶっていたのだ。

 「われわれは士官です」

というと、彼は1瞬気が付いて、きまりわるげに通してくれた。主計長からいくらかの金を借りることはできたが、そのさき使い道はなかった。その夕、警備隊からわれわれに、「海軍少尉」と墨で書き込んだ腕章がとどけられた。

 

 トラック島へ渡るのに、船はこりこりだから、飛行機の便によることにした。トラックへは1度サイパンまでもどって、そこからトラックへ渡る便しかない。サイパン行きの便があるまで2、3日警備隊にやっかいになることになった。

 警備隊の前には、多分ワンブロックほどの小さな街があった。夜になると青い月光のもと、街のあちらこちらからピアノの音が流れてくる。誰が弾くのか、趣味のいい兵隊もいるものだと思ったが、あれはやはり島民だったろう。なんともえぬ異国的な雰囲気である。明るいけれども人通りのない街へでて、ある店をのぞいてみると、ダンスホールであったか、客の姿はなくがらんとしたフロアで島民のダンサーが2人で踊っていた。 

 次の日、われわれ3人は砲術学校の同期生のいる近くの対空部隊に案内された。彼は新設の部隊と一緒にグアム島に来たもので、高角砲だったか機銃だったかの据え付けが終わったばかりだった。兵舎はテント住まいだったろうか、椰子林の中の応対であった。地面に穴を掘って、上に腰掛け型の箱をかぶせた便座は具合がいいなど話していた。彼から、少尉の肩章と、館山のテキストの少々を分けてもらった。

 沈没で1番気にしていたのは、館山砲術学校で習ったテキスト類を全部なくしたことで、もう1度内地へ帰って出直さなければならぬと思うほど自信がなかった。

 その晩、警備隊の上官から明石屋という日本料理屋に招かれた。名前を覚えているのも変な話であるが、階段を2階に上がった。ベニヤ板の壁だったが、畳敷きの座敷であった。われわれはトラック島へ行くというのでたいへん同情された。その頃、トラックは2度目の機動部隊に見舞われたうえ、その後も連日空襲されていたのだ。

 その夜は飛び魚の料理で、サザンクロスという名の砂糖黍から造ったという蒸留酒を痛飲した。帰りに同僚と肩を組みながら警備隊の門を通るとき、吐いたへどが、月光を浴びて白い噴水のように眼前を飛んでいくのが見えた。

 

(7) 再びサイパン島 

 5月17日グアム島発、同日サイパン島着(航空機便乗)。

 飛行機は双発のダグラス旅客機であった。座席の座り心地もいい快適な飛行機で、われわれのほか佐官が1人のわずか4人の乗客。生まれて初めて飛行機に乗ったのであるが、便乗は飛行機に限ると思った。飛行機は途中、ロタ島にちょっと降りたが、何もない野原のような飛行場であった。

 サイパン島では、トラック行きの便を待って2泊した。今度の飛行機は、2式大艇という4発の飛行艇である。出発は20日の未明。飛行艇に乗るまえ、パイロット達が上官から訓辞を受けていた。それは「トラックは敵機の来襲があり危険であるから、用事が済み次第直ちに帰ること」といったものであった。

 便乗者はわれわれ3人だけであるが、入れられた飛行艇の内部は貨物車の中のようなもので、座るのは壁に沿って据え付けられた固いベンチ、前に乗ったダグラスとは比べようもない。その上3000米の上空を飛ぶのだから南洋の空といっても寒い寒い。今の旅客機のような気密になっていないから、耳は痛い痛い。
 目の粗い、例の麻袋軍服でがたがたふるえながら、ただ早くトラックへ着くことを祈るのみであった。

           つぎへ進む

目次へ戻る