4 トラック島(二) サイパン陥落以降

  

(1) 撃てぬ高角砲 

 私がトラックに着任した当時の、米軍の日夜の烈しい空襲は、あとから思えば、サイパン攻略の準備作戦であった。
 そして、サイパン陥落後のトラック島は、彼らにとっては攻略価値のないものになった。いつの頃からか、島内で、「トラックは弁当持ちの捕虜」などという自嘲的な言葉が吐かれるようになった。しかし、軍隊が残っている以上、米軍にとっては、まだ要監視地区ではあり、監視のための爆撃は続けられた。

 やがて、日本にとっては、太平洋上の唯一の情報拠点となった。

    *  *

 サイパン陥落後は、輸送船による物資補給の望みは、まったくなくなった。結局、私らが乗った輸送船団が、グアム沖で沈んだものを除き、トラック島に到達した最後の輸送船となった。わが隊がもっている食糧は1カ月分、高角砲の弾は6門にたいして100発に過ぎない。食糧対策については別に触れることとし、まづ弾薬対策についてのべよう。

 弾薬は、敵が上陸を仕掛けてきたときに使うこととし、それまでは射撃は中止すべきである。しかし人員をつけずにいて、万一大砲が爆撃で飛ばされたときに、人員になんの故障もないというのもおかしい。だが、撃たぬ大砲に人間をつけておくのもおかしい。というわけで、空襲の際は、6門のうち、交替で1門だけ砲員を配置につけることにした。  

 

 7月に第46防空隊は、第41警備隊の1部隊となった。ただし、隊の中身は何も変わらない。警備隊から、砲術長がやってきた。彼がいうのには、「飛行機の態勢を見ていれば、爆弾が自分のところへくるかどうか分かるだろう。自分のところへきそうなときだけ撃て」、であった。

 とにかく、敵機が来たとき地上に姿をさらしていなければならぬのは高角砲の隊員だけである。高角砲の所在を示すためにも、たまに「自分のところに落ちそうなとき」1発撃つことにしたが、敵の爆撃は、ほとんどが夏島基地に限られてきたため、稀にしか弾を射つことはなかった。他の砲台も同様沈黙をまもっていた。

 私は、その後夏島へ渡ったことはなかったけれど、夏島でも爆撃されて困るような物は、地上にはでていなかったであろう。したがって、爆撃のバランスシートは、米軍の爆弾、燃料、飛行機の損料だけ米軍の損失であると、自らを慰めていた。とはいうものの、警報を聞いて砲台陣地に駆け上るのは気が重かった。

 

(2) 水平砲と洞窟掘り  

 トラックでは、環礁の上に点在するいくつかの小島に、旧式の軍艦からはづした大砲を据え付けてあったそうである。「アームストロング」とか「ビッカース」といった古い外国製である。いつごろ据えつけたかしらぬが、まるで江戸幕府がお台場に大砲を据えつけたのの現代版だ。

 が、さすがに具合がわるいとみて、春島、夏島その他、礁湖の中の主要島々に回収し、洞窟を掘って据え直し、要塞砲台とすることになった。なにしろ、環礁にある島は、礁湖内の本島群とは10キロ、20キロと離れた小島で、連絡きわめてわるく、いざというときはすぐに孤立してしまい、しかも外洋に接しているから敵が手にするには最も容易な位置にあったからである。

 これが、私の着任当時、つまり昭和19年5月末のトラック島(第四艦隊)の島嶼防衛対策の現状であり、第46防空隊にも、この水平砲(水上の目標を撃つ普通の大砲)を据えつけるための洞窟堀削が割り当てられていた。場所は、環礁の北東水道を正面に東海域をのぞむ、台地の東崖の中段で、当時掘削作業はかなり進んでいた。
 隊長は掘削のガレが遠くから見えるのを気にして、毎日椰子の枝をその上にかぶさせていた。のちに、この洞窟はできあがったときは水平砲隊に引き渡すことになった。わが隊は、割の合わない穴掘り作業だけやらされたわけである。

 

 (3) ライター 

 煙草は、私が赴任したとき持っていたのが山上の最後の煙草となったが、士官室のテーブルの上には、手製のライターがあって、それまでマッチ代わりに便利していた。後に煙草が自給生産されるようになり、再び煙草用としてせわになった。

 このライターは、飛行機エンジンの発電機にハンドルと火口をつけて木の小箱に納めたもので、着火具合はすこぶる良かった。この式のライターは隊内外でなかなか普及していたらしいが、発電機は、赴任の途中飛行場付近でみた1式陸攻の残骸の山から失敬してきたものだった。

 1式陸攻以外もあったかもしれないが、機首が葉巻型に突き出ている1式陸攻の特徴が目立ったから1式陸攻の山としておく。この残骸の山は、空中戦でやられたのではなくて、地上に置いたまま2月の機動部隊の大来襲でやられたのであろう。

 山本連合艦隊司令長官がブーゲンビルで米機の待ち伏せを喰い、墜落戦死したのも、この1式陸攻である。

 陸攻とは正式には、陸上攻撃機といい、陸上とは、艦載機に対して大型で、陸上を基地とするもの、攻撃機とは水平飛行状態で爆弾を落とす飛行機で、戦闘用では最も大型である。1式とは、皇紀2601年(昭和15年)海軍機として公式に制定されたことを意味する(零戦はその前年の制定の戦闘機)。

 1式陸攻は双発機であるが、双発機以上の飛行性能を持たせるため防御性を犠牲にし、翼に燃料を入れていたという。それで、攻撃を受けると、すぐに火を噴くので、アメリカ軍はこれを「ライター」と呼んでいた。春島では、1式ライターは、死んで煙草用のライターを残したわけである。

 

(4) サツマイモ畑開墾

 内地からの物資補給の見込みがなくなると、弾薬に並んで食糧の対策を立てなければならなくなった。主計兵曹の報告によると保有食糧は1ケ月しかない(私の記憶違いで、もうすこし多かったかもしれない)。畑作りは、それまでも班ごとに適宜やってはいたが、これからは隊の仕事として進めなければならない。

しかし山の上の高角砲部隊にとって、サツマイモ作りはまったく条件が悪い。台地上は、緩い波状傾斜だが露岩地帯であり、土があっても痩せた赤土で、とても作物などできる土ではない。

 (戦後、書物で調べてみたが、土壌学でいうラテライトという土であろう。熱帯や亜熱帯に見られる紅色土壌。高温・多雨の作用で鉄やアルミニウムなどの酸化物に富む。生産力は低い。)

 そこで畑を作るには、崖を1段おりて森林帯に入らなければならないが、山頂に近いところでは傾斜がきつく作業が困難な上、畑にすれば土壌が流れやすい。海岸近くまで下れば良さそうなところがあるのだが、隊から遠く離れるばかりでなく、もはや、畑になりそうなところは何処も「OO隊予定地」などと、立て札をたてて先客がいる。

 海岸地帯には、陸軍があちこちにたむろしているが、彼らは空襲があれば防空壕にはいるだけで、あとはイモ作り開墾に専念できる。かくして、あちこちで開墾地の争奪が始まり、ついに、艦隊と師団が相談して(あるいは春島だけなら、警備隊と連隊であったか)、人員1人につき60坪という計算で、陸海双方から委員を出して、未墾地の配分調整をするということになった。トラック諸島には、海軍1万、陸軍1万、計2万人がひしめいていた。

 トラックの気候では、サツマイモ栽培に苗床を作る必要なく、栽培中の畑から蔓を切って隣の畑へ苗として植えることができる。差した苗は生長して3ヶ月でイモが取れるから、年4作で食糧自給できるという計算である。

 そこで、わが隊も畑の図面を作らなければならないのだが、傾斜面の表面積をそのまま計れば過大計量となってしまう。いろいろ考えた末、中学時代、ボートレースの決勝地点で判定員が覗いていた器具を思いだし、隊員の大工に、これをまねた平面測量器具(四角の木枠の前板と後板に、中央に黒糸を張ったスリットを設けたもの)をつくらせ、従兵長の兵長に幾何(きか)の知識の測量法を伝授して測量を実施した。

 は、理解力のある少年兵で、うまい図面ができ、どうやら基準面積は確保できたけれども、山の上のハンデはどうすることもできなかった。

 私は、復員後間もなく、農地開発営団という農林省関係の機関の、富士山麓にある事業所に雇われ、開拓の現場仕事やることになったが、そのとき、本物の測量士の平板測量法や、それに使うアリダードという器具が、わがトラック方式と同じようなものであることを知って、驚き、かつ得意であった。
 しかしもっと驚いたのは、開墾可能地探し、入植者への未墾地の配分や地元農家との調整が、日本本土でも必要になっていたということである。

 

(5) 鰹漁とハッパ漁

 トラック島海域には鰹(かつを)が多く、1919年、日本の委任統治領になってから水産会社ができ鰹漁が盛んであったという。漁労従事者は沖縄県人で、それが、この戦争になって船ともども海軍に徴用されたのであろう。空襲が烈しかった頃も漁がつづけられ、夏島の軍需部からときどき各隊に鰹の配給があった。

 これは大変なご馳走で、とくに、士官室では従兵の中に魚屋の息子がいて腕をふるい、刺身が出るし、こういうことの好きな兵曹長の主導で、酒盗を作ったり、腹身を焼いたりして食卓をにぎわした。この焼き魚は、不思議と蕁麻疹(じんましん)が出ること多く、鰹の配給のあった日は、士官室一同、赤い顔して、ふうふうしたものだ。

 しかし、サイパン陥落後、陸上基地から飛び立つ長距離のきく双胴型ロッキードP38戦闘機(陸軍機)がときどき來るようになってから、鰹の配給がなくなってしまった。こちらには対抗する飛行機がいないので、ロッキードは海面上を低空で飛び回り、小型船が出ていると機銃で狙うようになったため、鰹漁ができなくなったのだ。

 鰹による蛋白源の補給は、サツマイモの生産と並んで重要であり、このことは後の栄養失調発生に深く関わりがあった。

 鰹の供給がなくなるとともに、海岸の珊瑚礁の海面でおこなうハッパ漁法が盛んになった。硝子瓶にダイナマイトを詰め、短い導火線に火をつけ海に投げ入れ、水中で爆発させ、珊瑚礁に棲むリーフ魚を浮かして捕る漁法である。

 ダイナマイトは、洞窟の掘削に使うものだから、こういう使い方は禁じられるようになったが、背に腹は代えられず、密漁がおこなわれる。密漁といっても、ダイナマイトの爆発だから、ドカーンと大きな音を立てる。われわれの山の上の陣地からは海岸がよく見下ろせる。ドカーンと聞こえるので、そちらの方を見ると、青白い珊瑚礁の海面に、白い泡の円が広がっているのが見える。それが島をとり巻く珊瑚礁のあちこちでドカーン、ドカーンとやるのである。

 リーフ魚と呼んでいた魚は、現在デパートなどで鑑賞用として売られている色彩豊かな熱帯海水魚で、ハッパ漁で体長4、50センチ位のものがとれた。珊瑚礁をつつくようにおちょぼ口で、鋭い歯があるのが特徴である。わが隊でも、初めの頃は、漁労班を編成して、ハッパ漁に取り組んだ。 (注 デパート売られて---のは淡水魚であって、リーフ魚とは違うと最近気づいた)

 リーフ魚は白身で痛みが早いため、燻製などを試みたが、山の上の大勢の隊員を賄うには到底足りなかった。小人数で海岸べりにいる部隊の連中には、ハッパ漁は格好な魚法であったに違いない。

 あるとき、隊員から、通信所付近に落ちた爆弾の中に不発弾があるからハッパ漁用に掘り出してきましょうという申し出があり、数人がトラックで出かけていって、火薬を抜き出してきた。

 私は館山砲術学校の教科の中で、不発弾処理法として、難しい爆破処理の方法を習った覚えはあるが、老練な下士官連は、アメリカさんの置き土産だといって、こともなげに中の火薬を頂いてきた。

 不発弾ならよいが、疎開して野積みにしてあった航空隊の爆弾から火薬を抜き出して使って、陸軍の士官が軍法会議に廻されたという情報が伝わってきた。

 実はそのとき、わが隊の本部前広場のはずれの窪地には、火薬を抜いた饅頭機雷の殻が2つ3つ捨ててあった。饅頭機雷というのは鉄の大鍋を伏せた位の大きさのもので、上陸防御用に海岸に敷設してあったらしい。
 通信隊桟橋の付近にそれが置いてあって、大発の達着に危なくってしょうがないといって、隊員が取り除いて運んできて、中の火薬は抜いて使ってしまって、殻をそこらに放っておいたものだ。隊長はあわててこの饅頭の鉄皮を見えないところに処分させた。

 もう1つ、爆弾に関連した漁法がある。

 例によって、夏島基地に敵編隊から爆弾が落とされるのを、こちらの指揮所からみていると、爆弾のバラバラ落ちる始めから海面に水柱が林立するまでが、大スペクタクルの展開である。ところがこれを観測用の大型双眼鏡でみていると、水柱の納まった水面に、すかさず飛び込んでいる何人もの人影がある。しかも、それから毎度注意していると、この1回きりではなく、常習である。

 水中の爆薬の破裂で浮き上がった魚は、暫くすると沈んでしまうから、はやく捕らなければならないそうだが、漁労隊の潜りの達人らが、この勇ましい爆弾漁法をやっているのである。

 

(6) イモ苗採り航行 

 サツマイモ栽培が進んだ頃、思いがけない大変事が起こった。夜盗虫(よとうむし)が大発生し、春島全島のイモ畑が丸坊主になり、山の上からみるとあちこちの畑に黄褐色の地肌がみえる。イモの葉が全部喰われてしまったのである。生育中のイモの収穫が皆無となったばかりか、植え替えるための苗がなくなってしまった。

 こういうときは、兵曹長の活躍の場面となる。夏島の司令部やあちこちにいる顔のきく仲間から情報を集め、離れた七曜島では夜盗虫の発生がないことが分かり、苗のもらい先のOKから、船の手配まで手際よくつけてくれた。
 隊では苗取り班を編成して、兵曹長と私が、元気のいい連中何人かを引き連れて行くことになった。七曜島は、おなじ環礁内だが3、40キロ西方になる。船は軍需部の漁船を船長ごとチャーターしたのだが、ロッキード戦闘機が來るようになってからは昼間の航行は危険であるため夜間航行となった。

 どういうわけだったか、船は航空隊桟橋に着くことになった。砲台から桟橋まではトラックを使うなら通信隊桟橋が近いのだが、徒歩なら砲台の裏側、つまり夏島側の海岸に下りれば航空隊桟橋の方が近い。夜はトラックが使用できなかったためだろうか。

 夜のラグーンは波がなかった。月光の船上で、沖縄人の船長が蛇味線を弾いて聞かせてくれた。蛇味線のか細い音色が、単調なエンジンの響きに混じって航跡とともに暗い波間に消えて行く。こんなところにいる自分が何とも不思議に思えてならなかった。

 水曜島の部隊は、われわれを快く迎えてくれ、翌日は苗とりの応援も出してくれ、苗とりは無事におわった。再び夜間航行で春島に戻って、航空隊桟橋に降りた。月明かりの中を、マングローブのある海岸路を砲台のある山の裏の上り口までゆく。そこから急な山道を登る。芋苗を背負って黙々と登る隊員達の後ろ姿が今でも幻のように脳裏に浮かんでくる。

 

(7) 栄養失調 

 トラック島は、四季の変化がないため、記憶にある出来事と出来事の後先が分からなくなっていることが多い。栄養失調者がでるのは、理屈では後期になるほど多いはずだが、記憶では比較的早い時期で、しかも期間は何ヵ月も続いたものではなく、集中していたような気がする。

 後述する青隊(あおたい)との畑交換は、わが隊に栄養失調者が多く出たことと関連あるのだが、畑交換は間違いなく終戦近い後期である。栄養失調者発生の時期については特に記憶につじつまの合わぬことが多い。

 夜盗虫(よとうむし)が大発生したことも影響あったはずだが、米の貯蔵がつきてイモばかり食っていたわけではない。食糧の不足によるのは間違いないが、鰹漁ができなくなって、蛋白質の補給がなくなったのがもっとも響いたのではなかろうか。

 犠牲者は、補充兵に限られていた。もともと補充兵は体力の弱いものが多かったのは事実だが、彼ら下級者に労働は皺寄せられ、かつ自由がきかないことがその原因であったことに間違いない。下痢をしてむくみがでて寝込むようになると、数日で死んでしまう。

 私が赴任して間もないころだが、士官なら兵曹長のように入院して内地へ帰還したものもあるし、それよりずっと後になるが、隊長はアメーバー赤痢と診断されて夏島の病院に長い間入院して、無事戻ったという例もあるのだが、下級者には、とうてい手はまわらない。

 最初のうちは死亡者が出たときは、何人かの運搬人で夏島まで運んで海軍墓地に埋葬したが、そのうち、昨日戦友を運んだ者が、明日は運ばれれる身になるようなありさまになった。死者はわが隊だけではないから、ついに夏島墓地は満杯になって、埋葬者の上に埋葬者を重ねて埋めるようなぐあいになってしまい、春島に墓地を設けることになった。

 わが隊の戦闘による死亡者は、私の赴任前に1名あったきりだが、栄養失調による死亡は10名を越えるにおよんだ。

 トラック島全体、あるいは春島全体で栄養失調による死亡がどのようであったか分からないが、対空戦闘、水平砲の洞窟掘り、生産力の低い上、労働条件の厳しい山地開墾と悪条件がかさなったわが隊に多かったことは間違いない。だが、これも、山の上の対空部隊の悪運だ、戦争だからやむおえない、残っているものも先のことは分からないのだと考えていた。

 

(8) B29

 サイパン陥落後は大編隊爆撃はなくなったと思う。ある日、いつもと違う高高度を見慣れない大型機編隊がやってきた。サイパンから本土爆撃ができるB29(ボーイング長距離爆撃機)であった。それからはB29がトラックくにくると、おっかけ内地空襲のニュースがあるので、トラックには足慣らしにくるのではないかとおもった。

 『諸戦記』によると、東京初空襲は11月には入ってからだから、B29のトラック出現も、サイパン陥落からはだいぶ間があったわけだ。
 B29出現の情報はその以前からあり(サイパン攻略のころ大陸経由で、北九州へあらわれている)、大きさだけが分かっていたとみえて、司令部からB24(コンソリデーテッド爆撃機)の形をそのまま拡大した図が、まわってきていた。

 実物はもっと細身の長身であったが、B29だとすぐにわかた。高高度を飛び、ジュラルミンの機体が青空に溶け込むように澄んでみえた。B24の編隊では機体を彩色したものとジュラルミンのものが入り混っていた。

 このころは、大型機編隊に対しては、砲台は全く沈黙することにしていた。だいたいB29の高度では、とどいたかどうか。とどいたにしても、とどくだけがやっとではなかったか。

 ともかくも残り少ない弾丸は上陸攻撃を受けたときまでとっておくということになっている。いまや、トラックの日本軍は皆洞窟に入っていて被害を受けるものがないが、米軍は飛行機の燃料と爆弾を大量に消費している。爆撃のバランスシートは、わが方が勝さっていると慰めていた。

 戦艦大和だか長門級が、主砲で対空用の信管を着けた砲弾を、突っ込んでくる飛行機群に向かって打ち上げて、効果を上げたと言うような話が伝わってきた。

わが高角砲で、上陸部隊にどんな射撃ができるか、あの照準器で水平に近い角度で射撃するのは心許ない--- 1度、低空を飛ぶ目標をねらって撃って砲弾が、とんでもない見当外れの方向で炸裂した経験がある。

遠い目標では具合が悪いから、信管零秒にしておいて、目の前にきた敵機を撃ったらどうであろう。信管は弾丸が砲身内を通るときの回転が加わって初めて安全装置が解け時計が動き出すと砲術学校の講義で習ったから、零秒でも砲身内で炸裂してしまうことはあるまい。いや、安全のため1秒位にしておいたほうがよかろう。いずれにしても頭のおおいがないから、狙われたらおしまいだ。砲を洞窟に入れるしかない ---などと考えたのもこのころである。

 マリアナ諸島攻略はもともと米軍の中部太平洋コース進攻作戦の1道程として既定のものではあったが、4トンの爆弾を積み3500マイルを飛べるB29長距離爆撃機の登場により、決定的意味を持つことになった。サイパン占領により、日本本土の攻撃が可能となるからである。(児島 襄「太平洋戦争」)

 

(9) 機動部隊来襲 

 私がトラックへ行ってから一度だけ、機動部隊(空母主体として編成された航空戦目的の艦隊)の来襲があった。トラック島にとっては、第3回目ということになる。記録がないので、はっきりした月日はわからないが、戦局は中部太平洋を去って、フィリッピン、台湾沖に進んでいる頃であったと思う。

 第1回(昭和19,2,1)、第2回(昭和19,4,29)と異なり、迎えるわが方の航空戦力は皆無であり、ラグーン(湾)内の舟も、船舶といえるようなものはいない。陸上施設も繰り返しの洗礼で、残ったものはことごとく洞窟にしまっていた。

 わが高角砲も、上陸でも始まったらと、砲口をさげ砲員もつけずに沈黙を守っている。夏島の高角砲台も同じようだった。水平砲台は飛行機に対して沈黙しているのは当然である。

 機銃員だけ配置につかせ、私も機銃指揮所に移った。初めの来襲では、こちらの陣地近くには敵機の攻撃がなかった。爆撃があっても、のれんに腕押しのようなもので、トラック側の被害はない。

 問題は上陸攻撃だ。第1波が去った後、外海に面していない西側崖にある発電機を入れた洞窟をひとりで見廻わってみた。ここは、兵曹長の専任の場所で、砲台のはずれにあることもあって、できあがってから1度も来たことがなかったのだ。
 しかし、台地のどん詰まりだから、敵が上陸してきたら、最後は結局ここに立てこもるしかなさそうだ。いよいよこれで最後の時が近づいたと覚悟した。

 

 戦闘機がやってきた。
 陸上基地からやってくる大型機の編隊のばあいは、1度爆弾を落としてしまえば、それでその日の来襲は終わりで、同じ日に2度來ることはない。しかし、機動部隊では、そうはいかない。しかも戦闘機が群れをなしてくるのを迎えるのは、私には初めての経験である。

 大型機と違って、戦闘機のばあい、山の上から見ると、ごく近くをほとんど目の高さを飛んでいる。あちらに1群、こちらに1群と飛び回っていて、どれがどこをねらっているのか見当がつかない。
白銀色のラグーンと青い島々を舞台にした、360度の立体スペクタクルだ。

 夏島側の眼の前近くを1機右から左へ飛んで行くのを見ていると、急に機首をこちらにめぐらし、下降して突っ込んできた。「撃ち方始め」の号令を掛けると同時に向こうから曳光弾が飛んでくる。

 思わず掩体の陰に引っ込めた頭上を轟音とともにかすめて敵機は後ろに過ぎ去った。やれやれと思って、振り返ってみると、なんと、後方の海面、櫻島の手前の海面に墜落した飛行機が沈みかかっているではないか。

 その日の夕刻警備隊本部に報告させたが、飛行場近くの対空機銃隊からも1機撃墜の報告があり、こちらの報告のものと同じらしい。しかも、わが隊の25ミリ対空機銃は、発射弾ナシ。

 25ミリ機銃は射手、旋回手、2人掛かり銃座に腰掛けてハンドルを回して旋回しながら敵機を狙うのだから、用意している方向が違えば、とても間に合わぬだろう。

 それに比べ、13ミリ機銃は、小銃(ライフル銃)のようなのがぐるぐる廻る台座にのっていて、立ち撃ちの姿勢で1人で軽妙に射撃できる。ここでは、兵曹が1弾倉を撃っていた。これが、わが隊のこの日の戦闘で撃った弾(たま)のすべてであった。

 戦果はどこのものか、おそらくは、終始を通して目撃していたものは、死んだパイロット以外いなかったのではないか。 

 1993年のトラック旅行の際、モーターボートで桜島付近の海面から、わが砲台のあった山の遠望の機会を得た。往時の米機落下点とおぼしき海面から眺めてみると、飛行場周辺から落下点を結ぶ線は考えられない。わが砲台に突っ込んできた飛行機である確率はきわめて高い。兵曹の撃った弾に違いないと思った。 

 この日、春島燈台の近くの対空機銃隊の隊長は、燈台に登って指揮をとっている時、弾にあったって戦死した。弾がコンクリートの壁に当たってはねまわたということだ。そのほかは、春島の被害は、ほとんどなかったようだ。

 翌日は、艦砲の攻撃を受けた。東方、環礁の向こうの水平線上を、数隻の戦艦らしい艦影が縦隊で右から左へゆっくりと移動しながら、つぎつぎと大砲を撃つのが見える。爆弾と違って弾のくるのが見えないし、飛行機編隊爆撃のように1回で終わってくれないのが、不気味である。

 着弾地点が夏島から春島に移ってきた。燈台の近くに隊の20センチ水平砲があるが、この砲はむき出しのはずだ。こちらが打ち出せば、たちまち見つかってやられてしまうだろうと、心配してみていたが、まもなく砲撃をやめて、艦影は消え去り、機動部隊の攻撃はすべて終わった。上陸攻撃は杞憂であった。
この機動部隊の攻撃は、彼らの単なる小手調べであったのだろうか。

 この機動部隊来襲の時、われわれのもっとも気にしたことは、敵艦隊に攻略部隊(上陸部隊)がいるかどうかであった。これについては艦隊司令部からある程度の情報が流れてきたように思うが、上陸戦闘が始まったら如何に対応するかは、事前にも当面した時にも、司令部から何の命令もでていない。打ち合わせもおこなわれていない。あれでは、トラックとしての組織だった戦闘は望むべくもない。

 陸軍はどうであったろう。これは全くの推測であるが、軽機、小銃以上の武器はほとんど持っていなかったのではなかろうか。とすればおよそどんなものであったか想像できよう。

最近(2002年)になって、ホームページで「マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ諸島軍事関係年表」に「1945|6|15 英機動部隊トク」[http//home.interlink.orjp/yd]の記載を見つけた。長いこと米軍だと思いこんでいたが、英軍とは。

(10) 軍神偵察機 

 米機の来襲の頻度が少なくなり、「弁当持ちの捕虜」にもいささか沈滞ムードが出たとき、春島に活気が出る事態が起きた。それは、本土とトラックとの間の海域(ウルシーであったか)にある米艦隊を偵察するために、本土から春島に新鋭偵察機「彩雲(さいうん)」が來ることになったのである。

 偵察の名人がいて、敵艦隊の高高度上空をいっきに駆け抜ける、その一瞬の間の目撃で艦隊の全容を見とどけ、そのまま本土へ帰るというような話である。 

 滑走路は、現状では、穴だらけになったままであるから、各隊から飛行場補修の要員が駆り出された。偵察者は軍神になる、司令部には軍神用の酒が用意されている、というような話も伝わってくる。

 ところが、補修作業が始まったとたん、翌朝の未明、米機が来襲して飛行場に爆弾を落としていく。夜が明けるとこちらは出来た穴を埋める。翌朝未明また米機が爆弾を落としていく。この鼬ごっこが連日繰り返された。わが砲台からは、滑走路は山陰で見えないけれど、山越しに爆弾が破裂する明かりがよく見える。

彼らの傍受電報の解読能力と夜間爆撃能力には驚かざるを得なかった。

  これにひきかえ、それよりずっと前のことであるが、本土(?)からわが軍の飛行機(陸軍機?)が来る予定であったときのこと。当日たまたま曇天で雲が低く、上空からは島が見えなかったらしい。司令部から上空に向かって探照灯をガイド用に照射しているよう命令がきた。

 白昼のことである。それで、以上の事情を知ったのであるが、急遽探照灯を雲間に向かって照射して待った。やがて爆音が聞こえてきて、上空を旋回しているが分かるのだが、姿が見えない。こちらからみる限り、雲間を下りれば視界は悪くないのだが、とうとう下りずに帰ってしまった。はたして無事に帰ることができたかどうか。 

 これも、『諸戦記』(阿川弘之 「暗い波涛」)から得た話であるが、追記して置く。

 サイパン戦の直前の昭和19年6月14日、百司偵(ひゃくしてい)という陸軍機が、ラバウルから貴重な戦利品・・・米撃墜機から捕った機上レーダー・・・を内地に運ぶ途中トラックに中継に立ち寄った。これによると百司偵は無事春島22航戦基地に着陸した。

 翌朝は空襲の来ないうちにと急いでサイパンに向けて飛び立った。ところが間もなくサイパンから春島基地に敵機動部隊護衛のもとで上陸作戦が開始されたという暗号電報が入り、あわてて陸軍機に無電連絡したが、そのときはすでに応答がなかったと。

 この戦記は物語仕立であるけれども、事柄はフィクションではなかろう。陸軍機がトラックへきた話はほかに聞いた覚えがないから、あるいは、その時の陸軍機であったかもしれない。とすれば、私の認識を一部訂正して、陸軍機の搭乗員の霊に謝らなければならない。 

 さて、「彩雲(さいうん)」の話に戻ろう。今回のは名偵察機であるから、春島につき、無事任務をはたし、即日殊勲甲をもらったという話まで伝わってきた。これにも『諸戦記』による追記があるのだが、次項にゆずる。

   * *

 戦後、といってもまだ初めの頃、何かの雑誌で、次のような記事を読んだことがある。

 戦争末期、米艦隊が西太平洋のどこか、ウルシーあたりか、に集結しているのを、どこかの内地の特攻基地から特攻隊が突っ込むことになり、そのための偵察情報がトラックから送られた。しかし、その暗号電報の、本文をカムフラージュするための前文があまり長すぎて、タイミングを失してしまったというものだ。どういうタイミングか忘れてしっまったが、この時の偵察に違いないと思った。

 

(11) 潜水艦

(日本)

 夏島の潜水艦基地は、わが砲台からよく見えた。それで潜水艦の動静がわかるのであるが、トラックに輸送船が来なくなってからも、内地との連絡手段として潜水艦が、たまに来ていたが、われわれとの関係は、まれに手紙が届く程度のものであった。

 終戦の時も、たまたま、そういう潜水艦が1隻いて、ニューギニアへ逃げるものを募集しているという噂が伝わってきたが、いつかみえなくなった。

 これまた、いまになって『諸戦記』より得たものであるが、サイパン戦以降、偵察機「彩雲」を潜水艦でトラックに運び、米艦隊の偵察をした話がある。とすれば、先に「軍神偵察機」で述べた彩雲は内地から飛んできたのではなかったのだから訂正しなければならない。
 しかし、彩雲偵察のための飛行場修理と、それに対応した米軍の爆撃の話は間違いではない。わが隊は、労力を提供させられただけで、離れた飛行場のことは兵員からうわさを伝え聞く以外情報はえられなかった。

  潜水艦が何をしているのか分からないようなことを書いたのは、もちろん陳謝訂正しておかねばならない。
(『諸戦記』によると第四艦隊所属の潜水艦があったようだ)

(アメリカ) 

 まだ空襲の盛んな頃のこと、夏島上空を飛ぶ敵機編隊を双眼鏡で見ていると、エンジンから火を噴いている機がいる。夏島高角砲の弾を受けたらしい。いま落ちるか、いま落ちるかと見ていたが、火は見えなくなって、とうとう落ちずに飛び去ってしまった。

 この時のことではないが、やはり大型機の空襲の時であった。敵機も去って指揮壕の観測員が大型双眼鏡であちこち見ているうちに、北水道方向の環礁の向こうの外洋に敵の潜水艦を見つけた。眼鏡を借りて見てみると、浮上した潜水艦が悠々と波を切って走っている。

 庭先を踏みにじられているようで面白くないが、こちらからは手が届かない。どうやら彼らの爆撃行には、潜水艦がサポートしているらしい。

 **

 何もないとき、1人でぼんやりラグーン(礁湖)を眺めていると、夏島と秋島の間の水路の遥かむこうに環礁の南水道が見える。あれが、日本から潜水艦がくる水道だと思うと、その先の方向に日本があるように思えてならない。
 反対に、北の水面を見ていると手前足下に櫻島と小櫻島があるだけで、あとは、ラグーンの水面と遠い環礁の白線とその向こうの外洋。どうしても故国とは反対側を向いているような気がする。

 このおかしな錯覚は、日常生活でも、戦闘態勢の時でも、実務上はなんの差し障りもないことだから、終わりまで変わらず持ち続いた。それどころか、いまでも理詰めで掛からないと私のトラック島方向感覚は180度回転してしまう。

 最近、ようやくこの錯覚の根本的原因を思いついた。砲台のある台地全体が北に緩傾斜しており、したがってまた防空隊本部の建物が北に開けていたことである。赤道に近いトラックの緯度では建物の方角は、南面でも北面でも変わりはないのだが、建物の開口方向は南という観念が染み着いているのだ。

       

 (12) 逃亡兵

 トラック島のように太平洋の真ん中の島では、逃げようにも逃げ場がないように思うが、隊を逃げ出して1ヶ月ほども行方不明になっていた兵がいた。作業にでたほかの隊員に偶然見つけられたのだが、長いこと島民にかくまわれていて、連れ戻されたときは、色が白くなっていた。その後、補充兵全員が下士官に昇級にしたとき、この男だけ兵に残った。

 もう1人は、若い兵で、逃亡というよりも、自殺だった。班長が、いなくなったと届けてきて、その足で崖下を探しにいったのだが、捜索隊の見ているさきで、小銃の引き金に足を掛けて自殺してしまったと。東北出の頑丈そうな少年兵だったが。

 警備隊本部では、ヨットでパラオへ逃げようとした下士官がいたそうである。パラオにいたことがあるとかだが、さすがは海軍下士官の発想、成功したら今なら痛快冒険譚になるだろう。

 

(13) 艦長の猿 

 兵曹長は、連合艦隊の何とかいう艦長から貰ったという猿を飼っていた。南洋産の猿で、連合艦隊がトラックを去るとき、置いていったのだろう。兵曹長はこの猿を鎖でつないで留まり木に乗せ、士官室の隅に置いていた。

 もっとも、私の赴任当初は、士官室に猿は置いていなかった。その頃はまだ探照灯用の発電機棟が砲台近くに建っており、兵曹長はそこに猿を置いて寝泊まりしていたのかもしれない。その後、発電機用の洞窟が西の崖に完成して発電機を移したが、この洞窟は士官室と離れており、行き来が不便であり、彼は猿とともに寝所を士官室に移したのだったと思う。

 この猿について、他の士官は無視していたが、猿の方は人見知りが激しく、用事で室内に入って来た隊員などを噛みついたりした。 

 さきに、士官室住人の紹介をしたが、ここで、もう1人、電探(レーダー)見張所のIK所長を加えなければならない。

 わが隊の隣にあった電探所は、わが隊とはまったく別の組織であったが、小所帯のため炊事はわが隊が賄っていた。それで、所長は、食事どきには従兵をつれてきて、わが隊の士官室で食事を一緒にしていた。彼は兵曹長だったが、わが隊の兵曹長よりだいぶ若く見えた。大柄で、色白、ハンサム、ちょび髭をつけ、山形訛りあり、静かな人で、「チクタク時計のすすり泣き‥‥  」など流行歌らしいものをよく口づさんでいた。この人は兵曹長と仲が良かったが、兵曹長とはあまり合わなかったらしい。

 兵曹長がいないある時、猿が、かたわらを通った所長の腕に、ふいに飛びついて噛みついた。平生から猿をおいているのを快く思っていなかった彼は、怒り心頭に発したふうで、猿の鎖を引き寄せるや、拳で猿を滅多打にして、とうとう長い尻尾が真ん中から折れてしまった。

 あとから帰ってきた兵曹長は、折れ曲がった猿の尻尾を見て、ぶつぶついいながら割り箸のような添木をつけて包帯をぐるぐる巻にしていた。

 その後、猿の尻尾はどうなったか覚えていないが、この事件以来、所長は電探見張所で食事をとるようになり、わが隊の士官室には顔をみせなくなった。兵曹長も、その前後に新しく来た水平砲台の部隊に転属になり、士官室を去った。

 私も、やがて、山を下ることになったから、にぎやかだった士官室も、しまいには、隊長と兵曹長の二人きりになってしまった。

 兵曹長については、もう1つつけ加えることがある。 彼から、撃墜されたアメリカ機の搭乗員が水曜島のあたりに落下傘で降りたのを捕まえに行ったときのことを聞かされた。

 事件は、まだ私がトラック島へ赴任する前のことである。春島の山の上の砲台にそんな仕事が命じられることはあるまいから、部隊がトラックに来てまもなく、まだ夏島にいた頃のことだろう。米兵は見つけだされたとき、シャツ1枚の軽装で白旗の代わりにパンツかなにかを両手でさしあげてきたという。

 後日談になるが、彼はこのことがあったため、春島在住部隊が復員船で帰ることになった後も残されることになってしまった。この捕虜かどうか知らぬが、どこかの隊のたれそれが捕虜を切ったと言うような話は聞いた覚えはあるけれど、彼はそういう掛かり合いがあったとは聞いていないから、そのご無事に帰国できたと思う。

 

(14) 青隊(あおたい) 

 あるとき警備隊本部から、しかるべき人が、わが隊の状況視察にやってきた。栄養失調死亡者が多いというので調べに来たのだったかもしれしれない。イモのとれぬ話がでた。 彼がいうには、
「君は、農学士のくせに、イモがとれぬとはなにごとか」
「私は、(イモを作るために海軍に入ったのではない。)イモを作るために山の上にいるのではありません」
とこたえる。

 わが隊が山の上で、毎日戦闘配置につきながら、水平砲の洞窟掘り、傾斜畑耕作で苦労しているのに、下にいる連中は陸軍も海軍も、防空壕に入るかイモを作るかのほかには、やることがないのに腹を据えかねていた。

 栄養失調による死亡者続出時期と、私が山を下るのと、どうも記憶の中の時期がうまく合わないのだが、終戦の1ケ月くらい前、警備隊本部の斡旋で、わが隊の畑と山の下にある「青隊(あおたい)」の畑を交換することになり、私は頑強な隊員数10名を率いて、農耕のため山の下に常住することになった。この頃は、空襲もなくなり、まったく山の上にいることが無意味な戦局なっていた。

 春島には、刑務所の受刑者の隊がいた。どんな仕事をしていたか知らぬが、塀の中に閉じ込められているわけでもなし、そのころは、わが隊の隊員より、よほど自由な暮らしをしていたとおもう。この受刑者達の服装が、いまプロ野球の西武ライオンズ球団がビジターのとき着ている青色のユニホームとそっくりのもであった。それで受刑者とその集団を「青隊」と呼んでいた。 この青隊の畑が、わが砲台の南側崖下の海岸端にあったのである。

 小林孝裕著「海軍よもやま物語」によると、「(昭和19年の春、春島の)山の頂上にレーダー基地が建設されつつあり、 ---工事をしていた設営隊員は、内地で刑務所に服役していた民間人の囚人で、全員が緑色の服を着ていたので、別名青シャツ隊といった」とある。

 また19年2月の大空襲の際、著者(整備兵曹)らは春島の陸攻基地におり、「----春島に本当に電探があったかどうか、工事中とだけはきいていた。しかし搭乗員たちは本気で電探があると思っていた。そして(警報が遅いので)自分たちが空中退避もできないのはひっきょうこの電探の性能が悪いからだと考えた」

 航空基地からは西の山嶺の陰で、電探は見えない。しかし、私の知る春島レーダーの性能はそんなに悪くはなかった。とすると、あのレーダーは、2月の大空襲の際はまだ完成してはいなかったのだろう。
 そして、青隊が山の下に農場を作っていたわけも分かった。設営隊という名前も聞き覚えがある。記憶の中で、2つに分かれていた青隊と設営隊がようやく1つになった。

 私は今のいままで、誰が建設したのか考えたこともなかったのだが、台地に登る自動車路も、傘型照準器を着けたユニークな高角砲のわが砲台も青隊の手になったのではないか。

 考えてみると、山の頂上という以外は、飛行場がら離れすぎている。守るべき施設としてはレーダーしかない。つまりレーダーのセットとして計画されたものであろう。山のてっぺんの砲台は、当時の海軍の常識(?)であった。しかし、野ざらしの高角砲なんぞ、愚考であることは以後の戦闘で明らかになった。
 そのほか、この「物語」にはハッパ漁やライターの起源が書いてあり、50年前に戻って話を聞いているような気になった。


つぎへ進む

 目次へ戻る