5 トラック島博物誌

 

(1) 気候・スコール 

 トラック島の気候は、トラック・コンチネンタル ホテルの案内書によると、気温は華氏70から90度(摂氏21から32度)、雨は、乾燥期は1月から3月、雨期は6月から10月、年雨量は110インチ(2800ミリ)となっている。

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 かなりの高温多雨の数字だが、蒸し暑くて困った記憶はない。山の上にいたせいもあろう。雨量が多いにもかかわらず、雨で何時間も屋内に閉じこめられたとか、何処かでずぶぬれになったという記憶はない。雨量が多いからこそ、山の上の天水生活ができたはずであるが、ドラム缶風呂は雨が充分降って水があまったときに限られていた。むしろ、雨がなくて水汲み作業員が下の谷までいって炊事用の水を運び上げる光景ほうが印象に残っている。

 南洋を航海する船の乗組員が、船の前方にスコールの雲をみつけて、甲板で裸になって石鹸を塗りつけてスコール待つという話を少年雑誌かなにかで読んだことがあるが、われわれには、そういう経験はなかった。ただスコールについて、こういう記憶がある。

 ある晴れた日、山の上から、かがやくようなラグーン(礁湖)のパノラマ展望を楽しんでいると、その日は、あちらこちらに小さな白い雲の固まりがあり、ゆっくりと西へ移動している。春島と夏島との間に柳島というちっぽけな島がある。その近くの小さな雲の下の海面にスコールが降っている。よく見ると、あちらにも、こちらにも同じスコール雲が動いている、といった光景である。こういうスコールは、山の上でなければ見られまい。

 

(2) パイナップル畑  

 わが隊のいた山には、もともと海軍の施設があったらしい。何故ならば、本部の建物も、貯水槽も、けっして新しいものではなかったからだ。ただ毎日が空襲の忙しいときに赴任したので、来歴なぞ聞く余裕もなかった。それが後になると、昔からいるような気になって、聞きただすこともせずにしまった。

(今考えると、海軍の施設とは施設隊(青隊)のことであって、彼等の手によって、レーダー・砲台ワンセットで造られたものであろう。山に行く自動車道路は新設らしく、砕石をいっぱい敷き詰めてあった。)

 その先住者の残したものに、本部建物の東隣、外柵までの間の空き地に、2、3坪の畑があった。前に述べたように、チャラチャラするかわらけ片のような砂利の混じった層の浅い赤土で、誰も手入れしないため貧弱な雑草で荒れていたが、よくみると万年青(おもと)に似た形の、粉っぽい葉がつんつん立った株が植えてある。これまで見たことはないが、どうやらパイナプルの株らしい。

 そこで、暇なとき、雑草を引き抜いてみた。固い葉の縁に、刺のある株と、刺のない株がある。刺のある方は、雑草を取るのに刺が邪魔でやりにくいから、株ごと引き抜いて柵の外に投げ捨てておいた。

 ある日、畑を見ると株の真ん中の窪みに、紫がかった花らしいものが出ている。よくみると、柵の外に捨てた刺のある株にも同じようにでている。あわてて捨てた株も、もとに植え戻し、それからは実が成長するのを楽しみにしていた。パイナップルの実は、頭に、トサカのような葉がついている。このトサカが遠くからでも本株の葉の間から見えるようになった。

 ところが、ある朝近づいてみると、あちこちの株が、ちょこんとトサカが乗っかっているだけで、肝心の実が消えうせている。実は見事に失敬されたのだ。それにしてもトサカを残しておいた犯人は智恵者である。

 パイナップルの葉はおそろしく乾燥に強いものであることを知った。

 

(3) パパイア 

 パパイアは、1本の棒のように直立した茎の先に、八つ手に似た形の、もっと柔らかい葉が、花笠のように長い葉柄で四方に張り出し、葉柄のわきに1個づつ青い実をつける。木の成長にしたがって、つぎつぎ葉がでて花が咲き、紡錘型の青い実がつく。

 実は成長していくから、先に成った下のものほど大きく木の上の方で鈴なりになる。長軸20センチくらいになった下の実は、やがて黄色く熟し食べられるようになり、葉も落ちる。枝分かれしないで1本の幹が上へ上へと伸び、葉は次々落ちてしまうから、それほど太くない茎が葉柄を落とした姿で直立し、上の方では葉と実をつけ梯子でも掛けなければ採れないようにひょろ長くなったのをよく見かけた。

 兵曹長が、パパイアの種子を苗床に播いて苗作りに成功し、本部前の広場に植えた。ここは盛土でもしてあったか、よく生育した。花が咲くようになって株の半数は実のならない雄株であることを知った。

 トラック島は、日照時間の変化が少ないせいか、内地からもっていった野菜の種が採れないそうで、再生産できない。青物といえば、サツマイモの葉しかない。葉っぱ取りの要員が烹炊所(ほうしいじょ)の前にたむろしてイモの葉をむしっていたものである。サツマイモの葉では灰汁(あく)の出た黒いの煮汁しかできない。そこへいくと、パパイアの実を青いうちに刻んだものは瓜のようでまことにうまい。

 パパイアは、最近では東京のスーパーでも珍しくもなくなってきたが、すこし前までは有名フルーツパーラなどで食べると恐ろしく高いものだった。

 ところが、この間の春島のホテルのレストランでは果物のメニューにパパイアがはいっていなかった。代わりにあまり甘くない瓜のような西瓜が出された。ここでは、パパイアはあまりにも日常的で、レストラン向きにはランクが低いと考えられたのだろうか。

 

(4) 椰子の実 

 トラック島の椰子(やし)は、正格にはココ椰子という。高いのは20メートルもあり、海岸地帯に密生している。露岩地帯の砲台の山上には、もちろんないが、少し下った中腹にはぼちぼち散在していている。椰子の実(果実)は流れて海を渡ることはあろうが、あの重いものが独りでに山を登ったとは考えられない。人が運んだものだろう。

 私が赴任したばかりの頃は、山の密林の中にある椰子は、根本に落っこちた実が、幹を軸に高さ一米もある円錐状に堆積していた。それが、輸送船が絶えてから、急になくなてしまった。それまでほとんど見向きもされなかった実が、コプラを食べるために持ち去られてしまったのだ。

 椰子の実は、固い外皮をかぶった厚い繊維層があり、その中にボール状の固い核がある。外皮が青い若い実は、繊維層は白く、ボールの中に甘い水(胚乳液)が入っていている。島民は刃渡り3、40センチの小刀(われわれはこれを蛮刀と呼んでいた)で、器用に果実の肩の部分の繊維層に刃を打ち込んでボールに穴をあけ、中の甘い水を飲めるようにしてくれる。

 実の外皮の色が黄ばんでくると、核の中の水はぴりぴりしてくる。この状態を隊員達は「電気」と呼んだ。外皮はさらに時が立つと赤褐色になり、核の内側に胚乳液が固まりついて生烏賊(なまいか)の身のようになる。実は地上に落ち(もっと後の段階で落ちるのかもしれない)、灰褐色に乾き、生烏賊がさらに固まって固くなったのがコプラである。
 コプラは圧搾して椰子油を採るのだが、このまま焼けばピーナツのような味で食べられる。

 面白いのは、実から芽が出かかっているとき、コプラはふぬけ林檎の中身のような肌合いでかさかさになって核一杯に広がっている。これも、林檎のように食べられる。これを隊員等は、「椰子林檎(やしりんご)」と呼んだ。

 以上は、直接の見聞に、隊員達から教わった情報を加えたものだが、少し怪しいとこがあるかもしれない。いずれにせよ、山の上の隊では、椰子の実は食糧計画に加えるほどはとうてい手に入らなかった。 

 

 椰子の木の成長点近くは、筍(たけのこ)のようにやわらかく、煮た味も筍に似ている。食糧自給の始まった初めの頃、全島あちこちで各隊が、椰子の木のてっぺんを椰子筍(やしだけ)と称して切りとって喰ってしまった。椰子は、枝が出ないから、てっぺんの成長点を取ってしまえば、一生のおわりである。それの枝葉は残っているが、もはや実は着かない。

 こうして、無惨に頭をつまれた椰子林が残った。軍隊が去った後、この後遺症で島民は随分迷惑しただろう。

 今度の旅行では、これをいささか気にしていたが、どこも立派な椰子ばかりであったのでほっとした。どのような経過で回復したか。ホテルのきれいに手が掛けられた椰子林の庭で、椰子の実を落としている青年に、こころみに樹齢を聞いてみたら、「アイ・ドント・ノー」と答えて笑っていた。

 実を落とすのは、客の頭に落ちないための安全対策だ。もう1つ、庭の椰子の幹にステンレスの鉄板の帯が巻いてあるのがあった。これも何のためか訊ねてみたが、聞く方の英語が下手のせいで、要領を得ない。後で考えついたのだが、椰子蟹対策らしい。

 私は椰子の木のない山の上の生活が多かったので、蟹の存在さえしらなかったが、今回は、ホテルの庭に穴があちこちあるのに気が付いた。ただし、蟹の姿は見かけなかった。

 椰子の実は遠い島まで流れゆくことは知っていても、椰子の木が水に浮かないことは、案外知られていない。陸軍のある隊が、椰子の木を筏にして運ぼうとして失敗した話を、兵曹長から聞いたが、私もそれまでは、知らなかった。

 椰子には、「椰子酒(やしざけ)」で、後にたいへん世話になることになるのだが、その話はあとに残すことにする。

 

(5) タロイモ 

 砲台陣地の崖を下って、谷間にはいると、水の流れる岩の間に根を張った人間の丈より大きい巨大里芋属が自生している。これはタロイモではなかろうか、タロイモなら食えるのではないか、もって帰ってしらべてみようと、素手で掘りにかかった。ところが芋に触れた掌がしびれるように痛くなり、水で洗ってもなかなか直らない。採取はあきらめざるをえなかった。

 こういう刺激性を、隊員達は、「電気」と呼んでいたが、電気は野生が持つ自己防衛手段であろう。

 野生といえば、夏島側の崖の中段に丈の高い葦(?)が生えた棚状地があり、ここを開墾しようと刈払ったら、馬鈴薯ほどもある大きなヌカゴがごろごろ現れた。これも隊員によると「電気」であるというので採取はあきらめた。しかし、わが隊の作業員が引き上げたあと、どこかの陸軍兵が麻袋に詰めて持ち去るのが崖の砲台陣地上から見下ろせた。うまい処理法があったかどうか。

 これも今度の旅行中、タロイモらしいものをあまり見かけなかったが通りがかりの島民の家のそばに里芋に似たものが植えてあったので、かたわらにいた少女に「タロイモ」かと訊ねたら、そうだとうなづいた。が、往時、谷間でみたものはもっと大きかった。

 やっぱり食用種と野生種とは別なものであろう。とにかく、トラックは、パンの木が豊富だから、タロイモ食は少ないのかもしれない。

 

(6) バナナとパンの木 

 バナナが崖下の密林の中にところどころ群生していた。戦時になってから島民の住居地をある程度移転集合させていたようだから、これらは移住住居跡であったかも知れない。

 このバナナを、開墾作業に出た兵員に、帰りに1本づつ担いで帰らせ、本部前広場や居住区の洞窟前に植えた。集まったバナナは、草丈、茎の色、さまざまであったが、やがて、実も、大きいもの小さいもの、甘いもの甘くないもの、さまざまなものがついた。この狭い地域範囲からの収集でも1本づつ違うほどのバライティがあった。

 パンの木(breadfruit tree)は、島民の主食である「パンの実」がなる。パンの木は泰山木に似た高さ10米くらいの大きな木で、実はソフトボールのボールより大きめで、青い表面は鮫皮のようにぼつぼつしている。これが枝のあちこちに提灯のようにぶらさがっている。

 島民は土に穴を掘ってバナナの皮を敷き、この実を餅のようにしたものを貯蔵したりするようだが、私らは刻んで蒸かしたものしか食べたことがなかった。蒸かしたものは色も味もさつまいもに似ている。

パンの木は山裾の島民集落にあるのだが、彼らの主食糧であるし、大きな木だから担いでくるわけにもいかない。海岸べりにいた連中はどうか知らないが、わが隊はパンの実の恩恵にあずかることはなかった。島民の食用作物としては、このほかに住居に周囲にキャッサバを植えていた。

 われわれは、食糧といえば「サツマイモ」もの頭しかないから、サツマイモ栽培に狂奔していたが、ちゃんと計算できて、これらの熱帯植物をうまく利用すれば、サツマイモより良かったのではなかろうか。その証拠には、今度の旅行で見たかぎり、春島ではパンの木やバナナは住居近くにたくさんあったが、サツマイモらしいものは見かけなっかった。

 パンの木は板材の採れる唯一の木だから、先の測量用の平板や器具はこれで作ったが、もろくて建築材として使われるような素質はないらしい。隊の建物も内地から運んできた杉材らしかった。

 意外なことに、トラックには竹がない。竹竿の代わりになるものを作るためだと聞いたが、何かの木の長く伸びた枝を切って、端に石をしばりつけたのを高いところから吊るし、乾燥させているのを見かけたことがある。

 

(7) マングローブとトビハゼ

 マングローブは、海岸の水際に近い浅瀬で、タコの足のような根(気根)を空中から張って潅木状に群生している。耐塩性の植物だが陸地から水が流れ込んで多少よどんでいるようなところに多い。

 自給対策の1つとして、海岸に製塩班を派遣した。彼らの話では製塩の燃料としてマングローブの根を使うという。根は海面上に1メートルほどもでていて、親指ほどの太さで固い。水から生えているから、水分が多いように見えるが、海水の浸透圧の関係からか、水気が少なくて、刈りとったものがそのまま燃えるそうである。

 マングローブのある水辺にそった、人気のない小途を歩くと、行く先ざきの路上や、マングローブの弓状に垂れ下がった根の肩に、2、3センチのトビハゼが、あざらしのような格好で一面に群がっている。しかし、捕まえてやろうと近ずくと、近くの奴からつぎつぎと水に飛び込んでしまい、決して捕まらない。そして、その向こうにいる連中はここまでおいでと馬鹿にしているような目付きでこちらを見ている。

 

(8) 紫檀(したん)と びんろう樹

 山の台地上に、例外的に、ただ2つだけ立木があった。1つは本部裏の集水地の並びに立ったびんろう樹、1つは本部前広場の紫檀(したん)である。紫檀の木陰には木製のベンチが置いてあって、当番兵が休んでいた。

 この紫檀の木からではないが、どこか山の下の方から紫檀の材を手にいれてきて、使う当てもない「ハンコ作り」が隊員の間に流行していた。ハンコの字を書くのは、彫り手とは別で、イラストレーターをしていたという士官室在住の庶務係のS補充兵であった。彼は字がうまいだけでなく、印鑑用に左右反対の字を無造作に書く芸があり、注文が殺到していた。

 私も、たれかから紫檀のハンコと箸と箸箱を贈呈され、帰国の際、持ってかえってきた。箸箱は使うこともないので、どこかへいってしまったが、ハンコは唯一のトラック記念として残っている。

 びんろう樹は、山上の唯一の高木であった。台地の1段高いところにあったので、いっそう高く見えた。この木の周辺に、燕のような形の尾をなびかせて飛ぶ白い中型の鳥がいて、紺碧の空に映える姿は美しかった。声は美しくなく飛びながらギャーと鳴いた。空襲警報があって、配置につき、皆押し黙って敵機の爆音が聞こえてくるのを待つ間に、これが聞こえると、不吉な予感に襲われたものだ。

 隊員達は、この鳥を軍艦鳥と呼んでいたが、いま調べたところによると、軍艦鳥はペリカン目グンカントリ科の鳥の総称で鵜に似て黒色をしていると書いてあるから、別のものか。それとも白い種類もいるのかもしれない。

 今度のトラック旅行では、砲台のあった山の上へは行かれず、遠望するしかなかったが、頂上に椰子の木らしいのが1、2本立っているのが見えた。あのびんろう樹かその子供に違いない。

 

 露岩の山上は別として、下に降りれば、トラックの植物には、葉が濃紺や紅色の入り交じった色彩豊かなものとか、崖面を這った沢山の根が互いに癒着して網の目のようになっているものなど、珍しいものも多かったのだが、その方面の知識も関心もなかったので、いまはひっくるめて密林というよりほかない。

 

(9) 虫 

 トラック島には、蛇がいないので、蛇嫌いの私はたいへん助かった。密林の中でも気にせず歩けたからだ。密林の中に入ると20センチくらいのトカゲが、ガサガサ這いまわっているのをみたが、これは食いつくわけでもないからさしつかえない。

 蝶、トンボ、バッタのような内地でおなじみの昆虫には、お目にかからなかった。昆虫類は少ないのであろうか。その代わりか、椰子の木の花に紅雀のような小さい鳥が飛んでいるのを見た。
熱帯では小鳥が昆虫の代わりをするのかと、したり顔でいたが、最近見た本によれば、近世になって白人がいろいろ愛玩用の鳥を持ちこんだのが野生化しているらしい。椰子の花が虫媒花かどうかもしらない。

 山の上は水がないにもかかわらず、夕方や明け方には蚊がおしよせてきて、見張りの当直は蚊遣(かやり)に苦労していた。今度の旅行では、海岸地帯のホテルでも空港でも蚊を見なかったが、何か施設ができているのであろうか、それとも季節的なものであろうか。かわりに、毎夜、ホテルの庭の芝生に沢山の蛙が出ているのをみた。

 

(10) なまこ 

 夏島の艦隊司令部に公用使でいってきたひょうきん者の隊員が、「桟橋の近くで、なまこをみつけたから士官室に土産にしようと縄でしばってもってきたのですが、途中で溶けてなくなってしまいました」と報告したことがある。なまこは食糧の足しにはならないので、その時かぎりで士官室の話題になったことはなく、忘れていた。

 山の上に在住中、私は海に入ったことはなかったが、その後山を下り農場に移ってから近くの海岸で海に入ってみたことがある。珊瑚礁の上は立つと足の裏が痛くて裸足では歩けないが、死んだ珊瑚がたまって白い砂浜になっているところは海水浴に適している。ここで潜ってみて驚いたことは、大きな真っ黒いなまこが、底一面にごろごろしていたことだ。

 今度のトラック滞在中も、ホテルの海岸で、遊んでいた島の子供たちが、水にもぐってはなまこをひろって、われわれに見せびらかして愛嬌を振りまいていた。

 ダーウインによると「なまこ類はさんご虫を大量に食べる。なまこ類の体内の骨質の器官はこの目的によく適合しているらしい。

 このなまこ類、魚、‥‥‥  は死んださんごのあらゆる塊に孔をうがつ。これが礁湖の浜辺や底にある微細な白砂を生ずる極めて有力な作因であるに相違ない」と。(ダーウイン「ビーグル号航海記、20章」)

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