6 トラック島(三) 山を下る・終戦から帰国まで

 

(1) 農場経営 

 青隊(受刑者部隊)と交換した畑は、砲台の南側崖下、海岸線までの土地約30ヘクタール。傾斜はあったが、山の上よりずっと緩く、土は黒く、土層は厚かった。
 なによりすばらしかったのは、てっぺんを切られていない椰子筍(たけ)、つまり成長部、を切り採られていない、完全な椰子がなん本も残っていることだった。すばらしいという理由は、後に書こう。

 腕の立つ大工出身兵長の主導で、椰子の幹や枝葉を使って、今度は洞窟ではない兵舎ができた。兵舎の一隅を仕切って、農耕隊長つまり私の居室もできた。食事は山の上の本隊から運んでもらった。

 甘藷のほかにトウモロコシも播いた。煙草栽培は、くにで煙草栽培していたものがいて、どこかでパラオからきたという種を仕入れ、前からぼちぼちやっていたのを本格的に始めた。そして、何よりも気が楽になったのは、空襲がきても、砲台へ行く必要がなくなったことだ。否、防空壕を掘った記憶のないのは、もはや、空襲がなかったからだろう。

 ただ、農場の背後の、砲台台地まで競り上がっている断崖を見ながら、ここに洞窟を掘って25ミリ機銃を据えつけておったなら、前の機動隊の来たときは、大いに威力を発揮できただろうと思った。

 なぜならば、この前を敵戦闘機が、なんべんか横切ったが、ここからは狙い易いし、相手からは攻撃しにくい。戦闘機が突っ込んでくれば、崖にぶっつかるのが落ちであろう。また、上からの爆弾には崖の洞窟は絶対安全である。これが要塞の対空火器が具備すべき条件であろう。 

 50年後の今の今まで、30ヘクタールの農場経営と思っていたが、隊員1人当たりの配分面積1畝(1アール)すれば、隊員数から押してせいぜい3ヘクタールである。1人当たりの面積が10アールの記憶違いだったのか。

 

(2) 椰子酒

 農場開設の仕事が多少落ちついてから、隊長舎(バラック)の建設にはいった。

 ここで威力を発揮したのが、「完全な椰子」の存在である。椰子酒は、花が咲ける「完全な椰子」でなければ生産できない。ところがイモ畑開墾と椰子筍濫取のため、他の隊は椰子酒のとれる椰子がなくなってしまったのだ。かくて、わが農場は界隈における椰子酒供給の独占的地位を占めるにいたった。日産2升の能力。採取には、島民の特殊技術がいるが、賃金は煙草の葉で支払うことができた。

 ここで、椰子酒醸造の説明をしておこう。 

(椰子酒醸造) 椰子の花は、あの大きな葉の軸ーーー葉柄(といっても、葉の全長は4メートルもあるから、近くで見れば枝という感じ)の脇に出た箒草(ほうきぐさ)状の花軸の先に群がって着く。花、果実は熱帯植物の特徴で、時期を選ばず下の葉柄のものから順に成長していく。

 花軸は、出始めは鞘(さや)をかぶって角のような形で葉柄のもとから顔を出す。この角を斜めにそぐと、そこから樹液が滴り落ちる。これを器をぶらさげて受ける。これが椰子酒の原液である。

 花軸の切り口は時間がたつと樹液が固まってくるから、朝晩切り直し、たまった樹液を集める。1日1升集めるには10本も要したろうか。なにせ20メートルある高い椰子の木を、幹に刻んだ足場を伝わって、なん本も上り下りする作業であるから、素人には手に負えないが、島の若者はいとも気軽にやってくれる。謝礼は煙草の葉1枚でたりる。

 椰子酒の原液、つまり採りたての椰子酒は、アルコール分はなく、薄い乳白色で甘い。島民は、赤ん坊の乳代わりにしているという。この原液は、1日も置くと発酵し始めて盛んに発泡する。シャンペンの段階である。発泡が終われば、色もどぶろくに似た立派な椰子酒となる。

 椰子酒との物ぶつ交換の話を傳え聞いて近隣各隊から客がやってきた。ここで建築資材との交換である。窓硝子まで調達できた。

 また、山の上と違って、新しい顔見知りもできた。

 私の農場長舎から山道づたいにという設営隊の技師が同じようなバラックを構えていた。大の出身の工学士で、私よりも少し年上であった。の郷里は市で、私も高等学校を過ごしたところであるなど親しくなり、しばしば行き来するようになった。どんな話をしていたかは、まるで覚えいないが、軍隊生活を離れて、のんびりと学生気分になっていたようだ。

 ある日、彼は私にうなぎ丼をご馳走してくれた。うなぎは山の西側の谷間から採ったものだというし、おまけに米もその辺で作ったものだという。うな丼の味は覚えがないが、飯粒が虫歯の穴に入って痛んだのを覚えている。警備隊本部に歯医者がいたことはいたが、遠くてとても通える距離ではなかった。

 今想うに、椰子酒醸造は青隊と農場交換の際、わが隊がそっくり引きついたものであろう。煙草栽培も青隊が始めたものに違いない。彼らはこの地域の先住者であり、わが隊と違ってこういう面に手を伸ばす余裕があったはずだ。私が詳細を知らぬのは、実務はすべて下士官諸君が片づけてくれていたからであろう。

 しかし、技師がどういう役目の人であったか覚えていないのはおかしなことだ。知らずにつき合っていたはずがない。いまとなっては記憶なぞあてにならないものだが、彼は青隊の隊長であったのだろう。彼のバラックで青隊員を見かけた記憶もないが、先述の小林氏の「物語」によれば、青隊が電探を建設したというのだから、らが指揮して作ったのだろう。

 わが高角砲台も彼らの手になるものであったかもしれない。ただし、技師はもちろん青い服など着てはいなかった。

  

(3) 終戦 軍艦旗を焼く 

 農場生活が始まってまもなく終戦となった。私は内地に戻れるという考えはまったく捨てていたので、思いもよらぬ結末であった。終戦勅語を農場隊員の前で読まされた。国へ帰ってからたいへんだから覚悟するようになどと、訓諭めいたことを話したが、誰も生き延びたという安堵感が一杯で、先の心配などする余地などなかった。

 私は本隊から呼ばれて山の上に戻ると、武器引き渡しの命令が来ていて、士官室ではそのリストアップの準備をしていた。大砲などのはっきりしたものは分かるが、懐中時計として使っている射撃指揮用のストップウォッチはどうするか。賠償金になるのだから、できるだけ多く出さなければいけないなどといった議論をしていた。艦隊司令部が米軍と接触しているらしいが、こちらは、さしあたりすることはない。

 それまで、わが隊が軍艦旗を持っていたことを知らなかったが、隊長と2人でこれを焼くことになった。防空隊として持っていたものだが、広げたこともないような真新しいものであった。

 隊門前の露岩の上に持ち出して、石油を掛けて火をつけた。すでに黄昏近く、オレンジ色の最後の光が台地を包んでいたが、厚手の旗はなかなか燃えつきようとしなかった。これが私とって、軍艦旗の見始めであり、見納めでもあった。

 結局、米軍は直ちには上陸して来ないことがわかり、私らは農場を続けることになった。

 終戦によって、生きて帰れるという蘇生の喜びと、鰹漁再開によるタンパク質の補給効果により、隊員の体力はめきめき回復してきた。

 

(4) 島民 

(トラック島寸史)

 1899年、ドイツはトラック諸島(を含む南洋群島)をスペインから買い受け、幾多の教化施策によって、それまで "Dreaded Hagelu" として知られていた野蛮で危険なこの地を、平和な、農業社会に造りかえた。第1次大戦後、1919年のベルサイユ条約によって日本の委任統治領となった。1920年代、日本人はここにきて魚業に従事したが、日本の軍国化とともに、トラックは海軍の重要基地となった。

 日本はまた島の名を変え、Moen は春島、Tonoas は夏島、Tol グループには「曜日名」をつけた。  

 南洋群島は、第2次大戦で米軍により占領され、1947年、国連安全保障理事会の決定により米国の単独信託統治領となり、「太平洋諸島地域」と呼ばれるに至った。62年以降トラックを含む多数の国が独立、ミクロネシア連邦を造る。

 トラック国(State of Truk) は、独立の手始めとして、最近、国民投票により、国名をトラック(Truk) より チューク(Chuuk) に改めた。チュークとは、彼らの言語で「山のある島」を意味し、トラックは、本来の名前チユークを、ドイツ人が誤り呼んだものであるという。

                (Jim Gullo "Chuuk" Continental's pacifica 1992) による

 

  もともと、春島の島民がどういう部落を作って生活していたのか知らないが、太平洋戦争に入ってから、新たな軍隊が入り込んだり、離島の住民が敵との接触することをおそれた軍が、春島などの本島群に移住させたりしたというから、居住地はひどく制約を受けていたはずだ。

 山の上の砲台生活では、ときたま山を下ったおりに彼らの住居地帯近くを通り過ぎることはあっても、直接島民と接触するような経験はなかった。しかし、山を下ってからは、椰子酒採取に来る島民たちと接する機会ができた。

 彼らの住居は、椰子の葉を編んだパネルで囲んだ小屋で、中を覗いたことはないが、失礼な言い方だが鶏小屋といったところだ。もっとも、わが隊員の住まいは穴クマのすむ洞窟だが。
 このパネル枝葉は黄色く枯れているが、椰子の枝葉は彼らの生活用品に使われる主要資材で、青い葉で即座にハンドバッグ風の篭を作り、 ものの持ち運びに使っていた。

 道具は、われわれが蛮刀とよんだ刃渡り4、50センチの刀で、椰子の枝を切るのも、実に穴を明けるのも、篭を作るのも、その他切ったり削ったりする何にでも使われる。おそらく日常生活でのもっとも重要な道具であったろう。

 日本語は、われわれが接触する連中に限ったかも知れないが、よく通じ、とくに年少者は達者であった。

 服装はショートパンツ1枚だが、これもわが方の兵士とあまりかわらない。肌の色は焦げ茶色だが、この程度のものは日本人でもいる。今度の旅行で、私はわずかな時間、顔や手首足首を日にさらしたのが家に戻ってから皮がむけたばかりでなく、半年以上も日焼けの跡が残っていた。

 彼らの色は日焼けのせいで、生地はわれわれと変わらないのかもしれない。中年の男で、胸に大きな三角形の中にライジング・サンを入れた図柄を入墨している者があったが、あれは軍艦旗を取り入れたものか、それとも別の意味があるものか、いかにも南洋の土人というイメージがあった。

 宗教はスペイン領時代からのカトリックで、日曜の礼拝には、女達は白いドレスを着込んで教会に集まった。しかし平生の彼女らについては、あまり見かけなかったせいか、記憶がない。

 1度、彼らの広場で何か催しがあり、隊伍を組んだ男達が、棒を持って踊るのを見かけたが、南洋にきているのだなという感慨はあったものの、ゆっくり見物する余裕はなかった。

 概していえば、私のトラック生活では、島民はほとんど意識の中に存在しなかったといえる。しかし、終戦と同時に、暗くなると毎夜、彼らが歌うコーラスが遠くから聞こえてきた。そして夜のふけるまで続いた。もうここは日本の島ではなくなった、彼らの島になったのだとしみじみ思った。

 

(5) 米兵 

  終戦で、先ず、米軍の掃海艇がやってきた。掃海艇は春島と夏島の間に停泊していたが島に上陸はしてこなかった。掃海作業がどのように行われたか、艦隊司令部がどのような対応したのか、われわれの預かり知るところでなかった。米兵は上陸を許可されていなかった。

 彼らとすれば、戦争が終わったというのに、掃海作業をやらされ、島を目の前にみながら、狭い艇内暮らしを強いられるのは、辛抱しきれなかったであろう。ひそかにボートをだして島に上陸するものがでてきた。

 ある日、隊員ががやがやしているので出てみると、農場の入り口に近いところで米兵を遠巻きしている。近づいてみると、若い水兵2人で、背中の破れたよごれたブルーのシャツを着ている。こちらの兵士とたいして変わらない服装に、ある種の親愛感を覚えた。

 この戦争で、アメリカ兵の顔を見るのはこれが始めてである。とにかく嘗められたらいけないと思って、斜面で階段をつけた農道の上の段から向き合っていると、米兵は私の艦内帽に線が2本入っているのから士官と察したらしい。、

 「貴方は、オフイサーか」

 「そうだ」

 「ナイフはあるか」

 どうやら短剣が欲しいらしいが、そういうものは国を出るときから持ち合わせていない。

 答は「ノー」である。が、聞かれているだけでは部下の手前も格好がわるいから、知っている限りの英語を引っ張り出す。

 「君らの出身は何処か」

 「フリスコ(FRISCO)」

 聞いたことのないな地名だから、「フリスコとは何処だ」と聞く。

 「サンフランシスコ」

 シスコというのは映画の題名や小説で聞いた言葉だが、フリスコとは聞いたことがない。その後も聞いたことがないので念のため今回辞書を引いたら、ちゃんとサンフランシスコの略称とでていた。ついでだが、辞書によるとシスコ(CISCO)の方はアメリカでは使われていないらしい。たいていの単語はすぐ忘れるのに、米兵と初めてのこの会話は、よほど頭にしみこんだらしい。

 2人は椰子葺きバラック兵舎の軒に吊るした煙草の葉などを珍しがっていたが、あれこれやり取りするうちに山の上に行きたいと言い出した。本隊まで行ってトラブルを起こされては大変と思い、山道は遠い上、非常に危険であるから行かぬ方がよいと言いくるめて無事帰ってもらった。

 それ以後、帰国まで、米兵が來ることもなかったから、われわれ春島の「自称弁当持ち捕虜」は、敗戦コンプレックスを味わわずに済んだ。

 注、補充兵全員が下士官に昇進したのだが、せっかくの昇進を示す階級章がない。そこで主計兵曹が秘蔵していたキャンバスで全員艦内帽(作業用の野球帽型略帽)を作った。艦内帽の縁に、下士官は線が1本、士官は2本つく。これが階級章の代わりである。

  

(6) トラック環礁(トラック博物誌補遺) 

 トラック博物誌には、環礁(かんしょう)を外すわけにはいかない。春島の高角砲台のある山の上に立って眺めたとき、沖合い遥かに数10キロの先に、水平線と平行して、珊瑚礁の白線がみえ、しかもそれが360度ぐるりと見渡す限りつながっている。それはまさに奇観というべきものである。

 進化論のダーウィンは、1836年、軍艦ビーグル号による探検航海中、インド洋キーリング島の環礁の奇観に惹かれ、彼の有名な珊瑚礁の海底沈下成因説を考えついた。

 私の場合は1年有余トラック環礁を眺めながら、なんとうまい天然の防潮堤があるものかと感心するのみで、この大天才の抱いた仮説のごときには、露ほども思いがいたらなかった。ただ、この航海記(ダーウイン、「ビーグル号航海記」)を読んでたいへん興味を惹かれるのは、彼の珊瑚礁の3分類の名称である。

 3分類とは、環礁(Atoll)、堡礁(Barrier Reef)、裾礁(Fringing Reef)である。        

この分類法に従えば、環礁は文字通り環状の珊瑚礁をさし、環礁の内側には礁湖(Lagoon)と呼ばれる海水面のほかはなにもない。これに対して礁湖の中から高い陸地が突き出ている環礁が、堡礁である。ダーウィンは、これらから環礁の海底沈下成因説を引き出すのだが、私は堡礁の名称に着目する。トラック諸島は、まさに環礁に囲まれたの火山島群基地「珊瑚礁の砦」---ダーウィンのいう「堡礁」である。

 トラックに米軍が上陸を仕掛けてこなかったのは、ほかの戦略的理由もあろうが、この堡礁が彼らの上陸企図を、名前通り、阻んでいたに違いない。日本海軍が、もう少しまっとうな思考ができたなら、このすばらしい堡礁に抱かれた島を、戦艦や航空機の単なる休憩所に使い捨てることもなかったであろう。

 ハッパ漁が行われた島の海岸沿いに分布している珊瑚礁を裾礁というのだろう。

 アトール(環礁)は、前掲「航海記」によれば英語でいう礁湖島(Lagoon-Island)つまり礁湖を囲む珊瑚礁島をインデアン(原住民のことであろう)の呼称から取ったものだという。環礁はうまい意訳だが私は在トラック時代、環礁という言葉も礁湖という言葉も聞いたことがなかった。われわれの間では、珊瑚礁はすべて「リーフ」ですませていた。

礁湖の方は、トラック礁湖の場合あまりにも広大すぎて日常われわれが見ているものは大洋そのものであって、海図でも見なければ「Lagoon--潟・入江・礁湖」という概念は浮かんでこない。 

 「履歴書」によると、昭和20年3月に第47警備隊付となっているが、われわれ部隊の所属する先が変わっただけで、われわれの部隊も私自身も何の変わりもない。所属先第47警の本部は、私が春島の第1日をやっかいになった22航戦司令部のあったところであり、飛行機のなくなった22航戦に代わって警備隊ができたのだと思う。

 終戦後になってから何度か警備隊の本部へ出かけて、副長や主計長や同期の中尉と雑談を楽しんだ記憶がある。は初め春島にはいなかった。如才のない男であったから、47警ができたとき、どこかの隊から引き抜かれてきたのだろう。トラックには何人かの同期がいたはずだが、動静は全く分からなかった。各隊がなかば分断された状態にあったのか、私だけが山の上に孤立していたのか分からぬが、赴任以来、年かさの特務士官だけの中で暮らしていたから、同年代の士官仲間に加わると忘れていた青年気分を取り戻すことができた。

 そんなある日、が環礁へ遊びに行こうと誘ってきた。本部の連中は勝手なことをやっていると驚いたが、何かの用務にかこつけてのことであろう。環礁は日頃遠望しているが、近寄ってみたこともない。喜んで応じ東水道の小さな環礁島に警備隊の兵員の運転する発動機船を着けた。

 用意の下駄をはいて、水深がくるぶしほどもない珊瑚礁の浅瀬におりたった。はここが始めてではないらしい。珊瑚礁の塊を起こして、隠れているウツボを銛で追ったりしている。春島山頂から毎日遠望していたところではあるが、来てみると本当に太平洋の直中にいるという痛快さがある。ちょっと泳いでみるかと、深みへ移って体を浮かべてみた。

ところが何としたことか、水がどんどん青黒い外洋に流れ出て、珊瑚礁から離れてしまった。岩礁の影での姿も見えない。これは大変なことになったと、あわてていると、流れはすこし遠回りして今度は反対に礁湖内におしもどされ、もとの環礁の裏側に足がついた。波によって起きる礁湖と外洋の海水の還流を身を以て体験したわけだ。 

 ダーウィンは、環礁の外洋側と内側では珊瑚虫の種類が違うのを観察しているようだが、私は到底そこまで眼が及ばなかった。

 

(7) 帰国 

 農場で、トラック生活を楽しんでいるとき、突然山の上の本隊から、帰国命令の連絡が来た。取るものもとりあえず、山に帰る。春島には飛行場が残っており、米軍はこれを使用するため、先ず春島から日本軍を撤退させることになったらしい。その先陣を各隊に割当て、私はその海軍側の責任者になっていた。

 支度といっても、普段着ていた衣服を袋に詰めるだけだ。その袋も隊で気を利かして、キャンバス地でリックサックを作ってくれてあった。即座に荷をまとめると、残る連中に挨拶もそこそこ、指名された隊員達とトラック(車)で現在のトラック国際空港のある付近の桟橋におもむいた。

 沖に復員収容船の日本の駆逐艦「柿」が停泊しており、桟橋には数人の米兵と日本の士官がいた。他の隊からきた帰国組のほとんどが乗船しおわっているようだった。

 みると、桟橋で乗船者をチェックしている米兵の腕に無数の腕時計がはめられている。トラックでついた一同にも、すぐに事態がわかった。あいつにとられるなんていまいましいと、たちまち以心伝心、一人がみんなの時計を集めるとまるめてポーンと海に投げ込んでから桟橋に向かった。せめてもの抵抗である。

 私は、自分の時計はすでにグアム沖で第二長安丸とともに海中に沈めてしまったし、射撃用ストップウオッチは賠償用として隊に残してきてしまったから、この壮挙には加わることができなかった。

 艀に乗るとき司令部の士官から乗船者名簿を手渡された。それではじめて海軍側の責任者になっていることを知るようなありさまで、なんとも慌ただしい春島との分かれとなった。

 海軍に入って、この時はじめて軍艦なるものに乗ったわけである。

 駆逐艦「柿」は途中グアムにより、9日間の航海で、昭和20年11月17日浦賀に着いた。 

 軍は、敗戦になってから皆を1階級昇進させた。負けて昇進もおかしなものだが、退職金をますための慣例ででもあったのだろうか。この階級を自嘲的に「ポツダム何々」といった。私もポツダム大尉になった。

浦賀で、なにがしかの1時金をもらったが、新円切り替えのための封鎖(引き出して使える現金が限られていた)にあって使かえないので証書を財布にしまって置いたが、いつかなくしてしまった。 

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