井上靖(1907-1991)『生きる』について

 

始めに、井上靖の年齢と作品・ガン手術・死亡年とについて述べておく。

昭和 41年     (1966) 『化石』   59歳
昭和 61年     (1986)  ガン手術  79歳
平成 1年9月    (1990) 『生きる』   82歳
平成 3年1月    (1991)  死去     83歳

       小説『生きる』について

  (この随筆風小説は、事実にもとづくものに相違なかろう)

  まず概要を述べよう。
(井上は、)昭和61年中国楼蘭遺跡行きが取りやめになった9月の空白の期間、この1か月、食道に食べ物がつかえるような気がしたから、家人の勧めもあって、築地のがんセンター病院に健康診断うけることになった。
9月3日から毎日通院検査、食道癌の疑いがあるというので、9月8日入院、9月29日食道癌手術、無菌の集中治療室(ICU)に移された。

ICUは3泊4日。ICUにおける3夜とも夢で満開の桐の花咲く小集落にいた。
第2夜では、三途の川の夢を見た。

個室に入ったとき、麻酔科の医師から、幻覚の有無を訊ねられて、ないと答えた。
しかしそれから10日ほどたった日の夜遅く、廊下を散歩した時である。

井上は、突き当たりの廊下を曲がる角の所に、白装束の女が立っているのを見た。その前を井上はゆっくりと歩いていった。廊下を、半分ほどいって引き返したが、その時は女の姿は消えるようになかった。

井上は、この女性のことを受け持ちの看護婦や掃除掛かりの女性に話してみたが、まともには受けとられなかった。
----幻覚ではありません?

そういう指摘通り、幻覚というものであろう。
井上が退院したのは、11月6日であった。 

以上が井上の病状過程であるが、『生きる』では、なお数年後まで及んでいる。井上は小説『孔子』の執筆の間を縫って、妻と娘に護られたヨーロパ旅行(80)をし、なら・シルクロード博の開幕式・閉幕式に出席した。

 

閉幕式に出たさいに(81)、

「会場をひとまわりすると、あとは気のゆくままに、そこらを歩き廻らせて貰った。木立の中や、草むらや、芝生の上や、いろいろな場所で、自動車から降りて、そこらを歩いたり、腰を降ろしたりしたーーーー遠くに平城宮跡会場の一部が見えている。この辺り一帯、奈良時代の兵どもの夢の跡である」 (生きる)

そこで井上はしばらく休憩して、いざ立ち上がろうとした時、

「ふらふらして、膝をついた。兎も角、自動車の待っている所までは、自分の足で歩かねばならぬと思った。
また、立ち上がった。それと同時に
----放せ!
と、怒鳴った。夏草の中に隠れていた往古の武士たちが、いきなりしがみついてきた、そんな思いを持った。
「放せ!私は強く振り切って、立ち上がる。執拗な何本かの手が、なおもしがみついて来る。両手で払い落とす。
そして夏草の草むらの中を歩き出した時、ーーーーーああ、いま、俺は生きている、と思った
(生きる)

これが『生きる』の終わりである。
しかし、井上は翌年の一月に死去した。

 

さて、井上と私とのガンに罹った状態の比較だが、井上は食道癌で、手術の所要時間5時間30分、集中治療室3日、入院日数58日。私のは皮膚ガンで午後からの手術、時間は聞いていないが、足の見える場所の手術で、入院日数20数日、ガン保険の対象にならぬ代物。重量級と軽量級の比較だ。

井上は入院中、夜の廊下散歩のさいに起こった幻覚を述べているが、歩くのに支障はなさそうだ。ガン手術の翌年にはヨーロッパ旅行をした。
それに引き替え、私は脳梗塞の後遺症で、以前から杖をたよりにしていたものが、入院中は車椅子、家に帰ってからは、手押し車で室内に閉じこもったきりの生活である。

しかし、いずれにしても、双方とも80老の色つやのない姿である。 

再び『化石』の一鬼に戻って、私は執拗にマルセラン夫人の存在を否定してみたが、居るとなれば魅力あるもの。マルセラン夫人は、井上の60歳前後における理想像の一つと見た。これを無理やりに片付けようとしたが、うまくはいかなかった、と私は思っている。

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