5  マルセラン夫人に対する考察

       小説「化石」について思うこと

私は「先輩への手紙(1)」で触れたように、『化石』の主人公一鬼と、私のガンに罹った時を比較しようと思った。

『化石』は、ブルゴーニュ地方への旅が終わった段階から、帰国、日本に帰ってからの、一鬼の自分自身の行動、フランスにいるマルセラン夫人に寄せる思とが、各章を通し、2系列に分かれて書かれている。
福田氏は、文庫解説概要で、次に示すように、9章以下の「一鬼のマルセラン夫人に寄せる思い」、を切捨ててしまい、一方の系列「一鬼の自身の行動」についてのみ語っている。

「初老の主人公の一鬼が、ヨーロッパ旅行中にガンを発見されて、今後一年しか生きないという死の宣告をうけ、以後ひたすら一鬼の内部の死との対話、対決にのみ語られている。ここにはすでに、愛も憎も利害の相克もなく、老年や死の問題をはじめ、人生そのものに対する根本的な問いかけや思索のみが語られている」  (福田解説)

私は『化石』の題名が示すとおり、マルセラン夫人が化石になるまでの物語と思い、「一鬼の自身の行動」オムニバスの主人公達)を引っ込め、あくまでもマルセラン夫人を、この小説の第一の客体と考える立場にたつことにする。



(昭和40年頃)

戦前は都心のビルに珊瑚の化石を配した大理石の柱が多く見られたという。尤もわれわれ素人眼には珊瑚の化石とは、判らない文様であって、一鬼は旧友矢吹辰平に教えられ、「化石」の作者井上も誰かに教えられたのだ。

昭和30年代後半は、われわれ一般人の外国旅行し始めの頃であった。テレビでは「兼高かおるの世界旅行」があり、パリもブルゴーニュも夢ではなくなりつつある時代であった。
(テレビは20年後半から30年代かけて普及し始めた)

井上も、パリ公立病院やブルゴーニュ地方のロマン寺院に、行ってみたに違いない。

海外旅行は、(戦前はヨーロッパに行くのに船旅1月、一般人にとっては、高嶺の花)戦後の一般読者の気を惹くものであった。

井上は、こういう世界に、マルセラン夫人という日本人女性を登場させ、ある会館の大理石の柱が、珊瑚の「化石」だったということを題名にして、一鬼、マルセラン夫人、ガン、パリ、ブルゴーニュ地方を結びつけた。
(化石の単位は何千万年)というが、一鬼はマルセラン夫人を化石姿にして追い払ったという物語である。

「化石」の言語構成

小説『化石』の全編が、主人公一鬼の眼を通してのみ語られている。会話体でも、一鬼が喋っている時は当然だが、他人がしゃべっている場合でも、一鬼が認識している範囲に限られている。
一鬼の帰国後、マルセラン夫人への追憶場面でも、手紙でも同じである。ということは、相手方が、とりわけマルセラン夫人が、一鬼をどう思っているかという謎(?)が残されている。


その意味で、謎を中心に、もう1度『化石』本文を振り返って見よう。

ホテル・Rの、一鬼の歓迎会に集まった商社の連中は、彼女は美人であるとか、ないとか、品があるとか、ないとか、出は九州の炭鉱屋の娘だとか、大阪の酒場の女とか云っていた。
座の中でどちらかというと夫人に好意的であった外交官上がりの豊島は、2、3度夫人に会ったことがあり、パリにいて、マルセラン氏のおめがねにかなって結婚したんだから、何か音楽でも勉強に来ていたんじゃないかな。ピアノはうまいらしい」と云った。
しかし、豊島を含めて誰も彼女について正確な知識は持ち合わせなかった。  (3章ホテル・Rのグリル)

彼女は言う。東京生まれ、東京育ち、戦時中、長野県伊那に学童疎開したことがあると。(6章トウルニューのホテル、夕食後の雑談)

(ピエル・マルセラン氏)

この人が登場するのは、ホテル・Rのロビーで、正装したマルセラン夫人をピエル・マルセランが介添えしたのを一鬼が見とれていた場面ただ1度だけである。
フランスの豪商で各地に別荘をもつと云れているが、一鬼はパリのマルセラン邸を見たこともない。

豊島と彼女の話を綜合すれば、彼女は東京生まれ、東京育ち、戦後フランスにきて何かを学び、ピエル・マルセラン氏と結婚した。
4,5歳の子供があるから、彼女がフランスに渡ったのは、渡航者の数がかぎられていた昭和30年代前半である。
ヨーロッパでも有名な豪商の結婚のあいてになる日本女性を、パリの日本商社連中が噂話しかできないものかなか?

パリ在住日本商社員連中が、マルセラン夫人を敬遠する中で、若い岸夫妻は夫人と昵懇の仲である。
一鬼を乗せて、K・R病院へ行く車中の岸の談。

「ーーーあんな日本女性を奥さんにしたピエル氏に対しても、日本の男性としては文句をつけたくなりますし、また一方、大金持ちの夫人におさまったあの女性に対しても、やはり心は穏やかでなくなります。しかし、私は好きですね、あの夫人は。----実は内気なおとなしい、いいひとです」

「時々、家内のところへ呼び出しの電話がかかって参ります。私のところの細君は少しぼうっとしてますんで、そんなところが相手にして気がらくなんでしょう」

「(一鬼の歓迎会にでた)支店長は知っていません。私がはなしたことありませんから」

「とてもいい奥さんです。あのひとのことを悪く言うなら、言うひとのほうが間違っていると思います。私のとこの細君など、べたぼめです。よく気もつくし、----」

「ただ気の毒なことは、日本人の間に親しい人がいないということです。マルセラン夫人となると、みんな恐れをなして、何となく敬遠してしまうことになるんです。そこが不幸です」   (4章)

日本商社の連中が、マルセラン夫人を悪く言うならば、言う方が間違っていると、岸は言う。
おとなしい、いいひとを敬遠する方が間違っているのか。


作者井上のマルセラン夫人の設定の仕方に無理があったのだ。
井上は、マルセラン夫人を登場させたために、岸夫妻のような中継ぎを必要したのだ。


(ブルゴーニュの旅)

一鬼が、岸に誘われて、2泊のブルゴーニュの旅に出かけたのが、マルセラン夫人と紹介されて出会った始めであった。一鬼のマルセラン夫人に対する態度は、異常とは云えなかった。

例えば、トウルニューの教会に入ったとき、あちこちの小さい長方形の窓から、程良い光線が流れていて、床であれ柱であれ石面は、それが経てきた歳月の長さをあらわしていた。「---ああ、ここに居たいな」一鬼は思わずつぶやいた。すると、

「ほんと、わたくしも、ここに居とうごさいますわ」
その声で、一鬼は、振り返った。マルセラン夫人が立っていた。ーーーー一鬼は同じように居たいと言っても、自分とマルセラン夫人とでは、その居たいという意味が違うと思った。
       (6章)

一鬼は絶えず死というものに、脅かされていたが、ここでは死というものが、それほど怖ろしくは感じられなくなったと云う意味で、マルセラン夫人とは違うと思った。作者はあいまいにしているが、後述するように、マルセラン夫人と過ごす時を持ちたい、と言うようなことではない。
              *****
車は女性、男性別にわかれた。女性車は男性車よりも速度が速く(マルセランの車であろうか)、男性車を追いこし、先に行き、一鬼とマルセラン夫人が顔を合わせたのは、寺院見学、昼食時、宿での食堂に限られている。
そして二人が顔を合わせたのも、この小説では、ブルゴーニュの旅が最後である。
              *****

このような短期間では、マルセラン夫人は、一鬼を日本から来た珍客としか受け止める以上のことは起りようもない。  (珍客:後述の手紙1でもあきらか)

(一鬼の気持ち)

このようにブルゴーニュの旅の間は、一鬼の気持ちは異常ではなかった。
旅が終わってからも、チュイルリー公園の近くにある筈の夫人のマルセラン邸を訪れようともしなかった。(夫人のブルゴーニュの旅の間も、ピエル・マルセラン氏はパリの屋敷にいた)


ところが帰国の飛行機以降、相手の意向にはかまわず、マルセラン夫人と一緒に居る時を持ちたい言うのである。

「マルセラン夫人と一緒に過ごしたブルゴーニュの旅のような、静かな充実した時間は、もう再び自分の周囲を流れることはないかもしれない。
「わずか2日間の短い期間であったが、あそこではたしかに生きていた。
人間の幸福というものが、今まで考えていたようなものとは、まるで違ったものであるともしった。
「おれは何とかして、マルセラン夫人と一緒に過ごす時間を持ちたい。  
(帰国の機内 7章)

「マルセラン夫人は、自分にとって何であるか。フランスの富豪夫人であり、子供まである女性である。
「マルセラン夫人に対して、所有欲というものは全くなかった。肉体的欲望もなかったーーーーただあいてと1緒に過ごす時間を持ちたいだけであった。
       (11章)

一鬼はこの気持ちを、ガン手術が成功する時まで持ち続けた。
これをガンのせいだとし、機内で死の同伴者の云うなりに病院の紹介状を破り捨て、ガンであることを隠すなど、一鬼の所作はリアリテーを欠くものがある。

(マルセラン夫人の反応)

マルセラン夫人から一鬼への伝言
日本に出張してきた岸から----夫人が3月か4月日本に帰ってくるから、その折りに一鬼と一緒に、伊那高遠の桜を見に行きたいー   (10章)

マルセラン夫人からの手紙(1)
しかし4月初め、マルセラン夫人から受け取ったのは、「夫ピエルの仕事の都合で、この春は北欧に行かねばならなくなり」日本に行けるのは、10月末か11月初めになるという、延期の手紙であった。

「ーーーもう半歳近い日が経ってしまいました。岸夫妻は別にいたしまして、絶えて日本の方と御一緒の旅に出るようなことはございませんので、あの時は、それは楽しゅうございましたーーー
「ーーーフランス人を夫に持つ運命になりまして、幸い生活の苦しみこそありませんが、年々、日本を恋うる気持ちが、----殊に日本の自然、桜とか、梅とかーーーー自分でも気が狂うのではないかと思うほど強くなっておりますーーーーー
ー信濃のお花見が1年先になったことを知りました時は、毎日の食事がのどを通らないほどのしょげ方でごさいましたーーーー」
   (13章)

マルセラン夫人の、日本人からの孤立は、考えにくいことは先に述べた通り。
彼女は
望郷の想いで気が狂う程と言っているのであって、一鬼を慕う想いで気が狂う程と言っているのではないーーと作者井上は予防線を張っている。

マルセラン夫人からの2通目の手紙(2)
2通目の手紙は、初夏の候、一鬼のガン手術が成功した時の話。マルセラン夫人の手紙は

「主人の仕事の予定が変わりまして、北欧の旅行は中止となり速くても秋の終わりと思いました日本行きが、急に実現の運びとなりましたーーーー
ブルゴーニュの旅のメンバーで、奈良にでも泊まりーーーー
御一緒の旅ができますようにーーーー」 
(15章)

(ガン手術後の一鬼)

これに対して、一鬼は近々仕事で約1年間南方に旅行するため、お目に掛かれないのは大変残念です。出発間際でで、代筆失礼----と、秘書課員に返事を書かせている。

一鬼にはこのようにする以外、曾って自分が持ったあの美しいものを守ることができないことが判っていたのである。一鬼はマルセラン夫人に会う資格を自分がすでに失っていることを知っていたのである。 (15章)

作者井上は、一鬼の心変わりを、「マルセラン夫人に合う資格を失っていることを知っていた」という。
マルセラン夫人に合う資格とは何か。
「マルセラン夫人は前のメンバーで」といっているが、一鬼の(死の同伴者)がひとり欠けている。ひとり欠けても、あの旅のこの世ならぬ楽しさを再現することは難しい。だが、どうしても補うことのできないものが、ひとり欠けている」
(15章)、と一鬼は思った。しかしーーー

「あの美しいものを守ることができない」「この世ならぬ楽しさを再現することは難しい」とは、作家井上の(独りよがり)の文言ではないのか。

(マルセラン夫人の「化石」化)

そこで井上は、一鬼のガン手術が終わった段階で、マルセラン夫人を片づけようとした。

「一鬼はマルセラン夫人のことを思うと、多少取り返しのつかぬことしてしまったいう思いが走るのを感じた。折角、あのような手紙をくれたのであるから、あるいは夫人と一緒に大和、奈良の寺々をまわったら、あのすばらしいブルゴーニュの時間を再び自分のものとすることができたかも知れない。

----冗談じゃない。
ふいに一鬼は思った。マルセラン夫人の映像を向こうに突き放した。この時だけ、一鬼は怖い顔をした。

----冗談じゃない。あのぴいんと張ったーーーー不思議な時はすでに終ったのだ。ブルゴーニュも、マルセラン夫人も、公園も、高遠の桜も、あの不思議な時間と一緒にみな消えてしまったのだ」   15章)

井上は、マルセラン夫人を登場させたため、周辺の人々と不調和が起こった。それで案内役に岸を使うのだが、彼が他の日本人と違う理由が曖昧だ。
マルセラン夫人のヒントは、当時有名だった東南アジアA国の大統領夫人なのか。
影の薄いピエル・マルセラン氏との結婚を謎のまま残している。
不調和は、場合によっては謎として残してもよいが、お伽話になりかねない。

井上は小説の題名を『化石』とつけた。

千万年単位で数える『化石』とは、窮余の策か。

私は思う。
マルセラン夫人は、一鬼が1年の命と宣告された際に起きた妄想である。
マルセラン夫人は、井上に起きた妄想である。

                                          

井上の作品には、元来おとぎ話的要素がある。

詩人は論理性を無視する。詩は論理性とは別なものだと。

 井上靖は、60歳前後からの、作品でいえば長篇『化石』、単編集「月の光」あたりからの文学の最大のテーマは一貫して老年と死の問題だった。(曽根博義:『石濤』新潮文庫解説平成6年)

井上は、79歳のとき食道癌の大手術をうけ後、随筆風の作品『生きる』(平成2年)を書いた。入院生活はその時が始めてであったという。79歳と言えば、私の現年齢(80歳)に近い。

彼は、『化石』では十二指腸ガンについて医学書に書いてあるようなことを書いているが、患者の心理状態などは材料を何処でを手に入れたのか。

井上靖の『化石』の主人公と、私のガンに罹った状態の比較論を書く予定であったが、『化石』は作者60歳頃の作品。比較論としては『生きる』の方が年齢としては適当であった。
というわけだが、旧制中学校の大先輩に対して非文学的暴言。謝罪謝罪。                    

(私の皮膚ガンは、ボーエン病といってガン保険にかからぬ代物だったと、今になって家人が言う。ガンにも階級があることを知った)

       2001,2,3稿 2,26追加

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