4 帰国後

   (ブルゴーニュの旅の反芻)

一鬼は機内で死の同伴者と会話した。
パリで死の宣告を受けている。日本に帰ってから病院で診察を受けても無駄だ。
命は1年しかない。それなら、何をやるか。

マルセラン夫人は来年の春、日本に来て、信濃のどこかの桜をみたいと言っていた。
しかし、その時、自分の健康状態がどのようなものになっているか、かいもく見当がつかない。

「マルセラン夫人と一緒に過ごしたブルゴーニュの旅のような、静かな充実した時間は、もう再び自分の周囲を流れることはないかもしれないーーーーー

               (7章)

一鬼は、羽田が近くなったとき、死の同伴者との問答の末、パリの病院から手渡された紹介状を破り捨て、前の座席の網の中に入れた。自分の命が1年限りということを誰にも知られないように。

 

     (8章以降)

8章以降は、一鬼の帰国後の出来事である。

 9章以降、各章の叙述の半分が、マルセラン夫人関連である。一鬼には、フランスにいるマルセラン夫人と、必ずしもつながる出来事でないにも拘わらず、マルセラン夫人の姿が浮かんでくるのである。

   (章別 一鬼のロケーションと マルセラン夫人のイメージ)

郷里を訊ねた1日目の夜、一鬼は夢を見た。チュイルリー公園のようなところで、一鬼は義母と並んで、ベンチに腰を降ろしていた。

一鬼は自分の余命が1年足らずと思うと、自分が完成することができない仕事には、情熱を持って立ち向かうことができなかった。
ただ、自分の後継者の人選問題と、自分が寄付しようと思っている公園計画について没入できた。

2月下旬、一鬼はセメント会社の滝島に頼まれて、ビルの定礎式の基礎石の下に埋める文章を書くことになった。
ガンは、100年後にはなくなっているだろうという主旨で、ガンの現状報告資料であった。式は3月の初めにあった。一鬼はその日1日、珍しく心はおだやかであった。

一鬼は会社へ出なかったが、夕方、船津が、岸(パリ駐在商社員)の伝言を伝えにやってきた。岸は10日程の予定でパリから東京に帰ってきていた。
伝言は、マルセラン夫人からのもので、夫人は3月末か4月初めに日本へ帰ってくること、その折りにできたら御一緒に信濃に桜を見に行きたいということであった。
一鬼は船津が帰ってから考えた。

マルセラン夫人は自分にとって何であるか。フランスの富豪の夫人であり、子供まである女性である。

定礎式の日を境にして、久しく現れなかった死という同伴者がまた姿を現し始めた。パリで死の宣告を受けてから5か月近い日がたっている。

----------マルセラン夫人に会うことが、どうして、いまおれの希望なのだろう。

----------そんなことは、おれは知らないよ。お前が勝手に、お前の残された短い人生の希望の灯にしているのじゃないか。

それから10日ばかり立った、3月半ばのこと。

 一鬼の外遊中に端を発した、会社の存廃にかかわる問題が起きた。
去年の秋の台風災害で、K川の築堤工事で1億円の損失、日本橋貸しビル工事の未収金3憶5千万、機械購入費3憶円の銀行利子 に追われている。
とりああえず、2憶5千の運転資金が必要となった。

 一鬼は土地と手持ちの金で1憶5千万円、あとはいままで手を出さなかった海外事業に手を出すことに方針をかえた。       (12章)

 

3月の終わりから4月へかけて、寒い日が続いた。新聞によると桜は例年より4、5日遅れるとのことのこと。
一鬼は、桜の記事でマルセラン夫人が姿を現す時期が、迫っていることに気づいた。

花の便りを読んでから4、5日たって、マルセラン夫人からの手紙を受け取った。
内容は、夫ピエルの仕事の都合でこの春は北欧に行かねばならなくなり、日本に行くのは10月末になった。
来年の花見には行けるだろうという、日本行き延期のことわりであった。

一鬼は、来年の春は、この世には居ないだろう、船津をつれて、マルセラン夫人が見ようとした高遠の桜を見ようと思った。        (13章)

 

一鬼は、船津を連れて、高遠に行き、帰ると2日間会社を休んだ。
3日目、東南アジアへ派遣した第1陣から、現地報告と2、3の問題に関する指示を仰いできたので、会社に出たが、貧血で倒れ、気を失い、K病院にかつぎ込まれた。

そこで、パリの病院から出た日本の病院への紹介状を破り捨てたこともばれた。

K病院では、いろいろな検査が行われた。

検査結果は、一鬼の十二指腸の悪性腫瘍は乳頭部と離れていたため、手術は可能とみなされた。

手術は、うまくいった。

 一鬼は、手術後3週間で退院した。
退院の際、秘書課員が郵便物を持ってきたが、その中にパリからのマルセラン夫人の手紙が混じっていた。

「ーーーさて、突然でございますが、わたくし、6月下旬にパリを発ちまして、久しぶりで日本の土を踏むことになりました。主人の仕事の予定が変わりまして、北欧の旅行は中止となりーーーー

という、予定変更と誘いの文面であった。

一鬼は、近く用事で南方に約1年間の旅行にでるから、お目に掛かれないのは残念ですが、楽しい、充実した日本滞在を心からお祈りしますと、秘書課員に返事を書かせた。

 「一鬼はマルセラン夫人のことを思うと、多少取り返しのつかぬことしてしまったいう思いが走るのを感じた。

しかしーー冗談じゃない。あのぴいんと張ったーーー不思議な時はすでに終ったのだ。

ブルゴーニュも、マルセラン夫人も、公園も、高遠の桜も、あの不思議な時間と一緒にみな消えてしまったのだ」(15章)

 一鬼は迎えの車で退院の帰途、T会館に寄った。久しぶりに紅茶でも飲んでみたくもあったが、それより、T会館の珊瑚の化石のはめ込まれた柱のある空間に身を置きたくなったのだ。

 一鬼は本当の生き方をしなければならない。

かって一度捉まえた老人と子供のための公園の計画を、もう1度自分の手許に引き寄せていた。死という同伴者を連れていた自分には果たせなかった夢であるが、こんどはそれに身も心も共にはいって行けそうであった。

             (『化石』概要おわり)

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