四条政雄氏と朝霧組合

静岡県人は、西富士の標高800米のところなどの農業は敬遠だろうと云ってきたが、例外の人がいた。
富士宮郊外の上井出へ行く道の傍らで農業を営む四条政雄氏であった。

「農村工業の盛衰と朝霧開拓」 『富士開拓30年史』の四条政雄稿の要約

昭和初期の農村、特に畑作地帯の農民は悲惨なものであった。
富士宮近郊で畑作農業をいとなむ四条政雄氏は、日夜悩んだ末、富士の北部地帯の気温差を利用しての蔬菜栽培と、広大な土地を利用しての牧場経営を夢み、昭和13年根原区扇窪に堀立小屋を立て自炊生活を始め、自力他力併せて8反歩を開墾、白菜、甘藍、大根を栽培した。時に34歳。

翌々年土地問題で、麓地区水窪に移リ、16年までの2か年間実施し、その間、現在の朝霧地区が、最適と考え、移転を準備したが、戦争拡大のため統制強化生産物にも枠がはめられ、この地区が陸軍の演習場に編入されるに至り、計画を断念せざるを得なかった。

昭和19年秋、農耕隊が富士地区に進駐することに なり、軍は彼にも協力を要請、数回話し合いの結果麓に1個中隊置くことに決めたが、遂に終戦となり、実現しなかった。

敗戦の昭和20年秋、0君兄弟ほか数名、家族を含めて10数名を引き連れ、朝霧地区に入植した。全員(これらの人々が親戚友人であったか不明)素人のゆえ7人を雇用し2町歩開墾したが、雇用を含め20人余の食糧を調達することは大変であった。
 (四条氏自身は富士宮市に家や農地、数頭の乳牛を持っていた。)

翌21年春50坪の堀立小屋を建て、2町歩を整地し、馬鈴薯、雑穀その他を作付けた。肥料不足と管理不十分のため収量は少なかったが、開拓初年の貴重な体験であった。
(朝霧地区は西富士地区の西辺、天守山地扇状地群の末端にあり、これより東の富士山系の土壌のように、保水性を欠き、かつ極端な燐酸欠乏土壌ではない。西富士の標高800米の土地の水源も、結局天守山地に求めることになった。)

しかし、何としても冬場の収入の道を考えなければと、21年の冬より猪の頭廠舎の炊事場を利用しての寒天製造を思いつき、県及び農林省に相談した。彼等は結構なことだ、日本の純国産の原料による輸出品としては寒天か椎茸ぐらいしかない。農閑期の農村工業としては最適だから是非つくってくれというこで、21年度は試験、22年度は本格的に始めた。

23年朝霧開拓農水産業協同組合を設立、農林省から製造許可第1号を受けた。資金は四条氏の手持ち式の資金の他、外部から1口1万円の募集を行い21万円を出資金として集め、農林省より特別融資金25万円を借用、寒天製造にはいった。

専門の職人を頼んだものの、四条氏を始め皆素人で、業界に暗く、系統機関の命令と指導に従うしかなかった。24年頃から集荷機関の県販連倉庫に滞貨が始まり、25年頃には県販連は在庫を抱え、四条氏は代金が貰えず、資金繰りができなくなり、万策尽き高利貸しより25万円をかりた。
(テングサは伊豆の特産品だが、寒天加工は長野県諏訪湖あたりが盛んで、静岡県では聞いたこともなかった。純工業的にやろうとする試みはあったと思うが。)

月々の利払い2万円がなかなか払えず、2年後に山林1町8畝歩を40万円で売却して高利貸しに支払った。製品代は未収ととなり、合計200万円の赤字を抱え込むことになった。
最初開拓事業推進のための資金を稼ぐ筈の農村工業が、裏目にでてしまった。

四条氏は23、4年頃このままでは大変なことになってしまうと思い、1度思い切った沢庵加工を豊茂開拓(山梨県?)の原料をもとにして再開した。
彼は云う、

「このお陰で今日までどうやら余りボロをも出さずにつづけられた。・・・・・・・・・
私(四条氏)は西富士で1番条件の良いと思うところに陣取りながら、事実上開拓地として壊滅に近い状態に至ったことは総て見通しの甘かった私の責任であると感ずると共に、各戸に不幸が重なったことも原因の1つにあげられるかもしれない。
(当初の入植者は、本人とか妻が死亡して離農、四条氏も長男を交通事故で亡くす)

その後、補充として入植した人達は例外なく土地や農業に執着も未練もなく利権のみが目的であり、最後は土地が分散してしまったことも、関係なしとは思われない。

人生をかけた私としては、朝霧を守りきれなかった責任と無念と寂しさをつくづくと感じる。今はせめて私個人として初心に帰って、後世の人々に喜ばれるような仕事を残すことが、私に課せられた使命であり宿命であると思っている・・・・・・・・」


(『富士開拓30年史』には「朝霧開拓組合」の名はなく、「北部組合」としてお仕舞いのほうに乗っていた。同誌に彼の稿が乗っているのを見出したのは、私がホームページを試みた最近のことである。)

*********

四条氏は、短躯、ピノチオ人形の如き赤ら顔、何時も忙しそうに自転車を乗り回していた。朝霧から戦車兵学校までは8キロ余、さらに彼の富士宮の実家まではもう8キロの道のり。旧戦車兵学校にある営団の事務所に立ち寄れば、私には、彼の独特の構想を聞かせてくれ 、あるいは私の知らない知識を授けてくれては、風の如く去っていく。
これが私の上井出時代における、彼の印象であった。

寒天工場には、私も1口1万円を出資した。
朝霧の農場の50坪の小屋の中で、同僚の渡会氏と「ところてん」を食べながら、朝霧の将来を想像仕合ったこともあった。
農場は毛無山の麓、小屋の窓からは、富士山が真正面に見えた。

******

四条氏の寒天工場からみの窮状を知る前に、私は農林本省に移り、昭和41年には熊本農政局に移った。彼のことは忘れてしまった。

ところが42か43年、彼が突然熊本にやって来て、朝霧の土地が世界ジャンボリー大会の開催地になるので、土地を手放さなければならなくなった。出資した金を返すという。金額は出資したものよりかなり多かったと覚えている。
彼は娘さんを同行しており、私は当時完成した天草五橋など案内してみたが、企業家の彼のことだからと、あまり気にしなかった。
                    昭45日本ジャンボリー、昭46世界ジャンボリー

いま『富士開拓30年史』の彼の稿を読んでみると、彼の苦闘が痛いほどわかる。
彼の文中に何カ所か詩がある。その中に、昭和13年頃の作として次の節がある。

「訪れる人も無き野の小屋に
若草に煙る
雨眺め入れば
遠い昔が偲ばれる
・・・・・・・・・・・・・・・・
友は召されて皆戦いの庭に
見送る度に流す涙は 
身、貧弱の口惜涙
されど天命遂に我に降る
高冷地開発の一大使命」

西富士の近くに、清水の次郎長による開墾地のして「次郎長開墾」という地名があるが、私は現代史に「四条朝霧開墾」の名を残したい。 

 いま、西富士は国内でも有数な酪農地帯となっている。
人穴以北の草原は朝霧高原として観光地としても喧伝されている。
われわれの頃の朝霧は、草原の西辺、天守山系の麓(四条氏らが入植した、中央草原丘より一段低い沖積地)が朝霧地区であったのだが、名前がよいので全体の呼び名にしたのだろう。
小田急のロマンスカーにも朝霧号というのがある。

          入植者へ戻る