3  入植者 

営団の職員といっても、植松副所長とか榊原氏とかは入植者でもあり、ほかにも入植者との掛け持ちがいて、開拓(入植者)組合員とごちゃ混ぜだから、営団事業所としての組織立った動きなどあり得なかった。東京の営団本部なども、何とか部隊の参謀といった連中が幅を利かしていた。
中央からの指令などあったかなかったか、現場の新米の知る由もない。


察するに、旧軍用地は開拓に開放されたということだけが、秩序の根元であって、あとはめいめいがーーー入植者も地元も事業所職員も含めて、自分の考えでやるより他なかった時代といえよう。

やがて開拓組合事務所が営団事務所と分離し、佐野清氏が富士宮から通う専任の営団所長になり、多少事務所らしい指揮系統ができたが、そのくらいのことで仕事が動き出すような簡単な事態ではない。

私は赴任早々、榊原氏に開拓現地を案内してもらった。たぶん人穴付近までだったと思う。行く道の途中から雪が残っていたことが印象にある。それ以外に、氏と同席した覚えはない。営農班は事務室の隣の小部屋であった。入植者の組合は戦車学校の構内の外のバラックで、榊原氏は製材の仕事をやっていた。入植者と営団との分離過程であったのだろう。

当時、入植者には、いくつかのグループがあった。戦車学校の残留組は学校付近の官舎に、戦災・復員者は構内の諸建物に住み、戦車学校周辺に入植を予定していた。伊藤義実団長の率いる長野開拓団は広見以北を予定(構内と猪之頭廠舎に合宿)、四条政雄氏一党は朝霧組合を名乗って朝霧にいち早く仮小屋を建てていた。

これら組合関係とは別に、上井出村の増反者があり、さらに猪之頭郵便局長S氏が指揮する旧人穴部落居住者の人穴復帰グループがいた。

学校付近は、(入植希望者が)密集しすぎて十分な耕地がない。人穴、猪之頭以北は土地は広いけれども、耕地に見込める土地がどれだけあるか分からない。(飲料水がないから、さしあたっては天水にたよるしかない。)渡会、足立氏らが測量隊を組んで出掛けるのだが、6000ヘクタールの開拓地の原図を短期間に作りうるような陣容ではない。その上、まだ入植希望者が、時折やってくる状況である。

私の農地開発営団時代にやったことで、多少役に立った仕事は、標高別に戸当たり経営面積をだしたことであろう。これは国営事業所時代でも生かされている。当時としては(法令を無視して?)面積的に規模が大きいのは、上の理由がマッチしたといえよう。(根原、麓の耕地は1戸あたり5反歩くらいだった)

農家1戸当たり標高600mまで2毛作地帯    耕地1町5反歩附帯地1町5反歩
         標高800mまで2年3毛作地帯  耕地2町附帯地2町歩
         標高800m以上1毛作地帯    耕地4町歩附帯地4町歩

数値は『富士開拓三〇年史』(西富士長野開拓団時代、熊谷幸一稿)による。そこでは「個人配分は昭和24年から昭和25年に行われ-----それも農地法があって特例として認められている」と述べているが、私は西富士を去って、いない。 

さしあたっては、上井出部落の薪炭林と入植者用の土地との境界、人穴居住者グループと長野開拓団との境界を決める必要があった。若僧の私らが地元との折衝に当たったのだが、人格を尊重してくれ、不愉快なことはなかった。そんなことで地元の人にも顔馴染みができた。仕事以外の友人もできた。

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