4  富士山へ登る

 

富士山麓にいて毎日富士山を眺めているが、富士山へ登ったことがない。昭和21年の夏、渡会氏らと計らって、足立氏の妹さんをふくむ、寮住まいの若い連中総勢8、9名と富士山に登ることになった。

それまでに、親しくなった地元の人から、シャクナゲ畠とか、途のないところで山の木を切り出す方法、木馬とか、山の様子を聞いていたので、少年戦車兵学校の裏から、渡会氏を先頭にして、直接山に入ることになった。渡会氏は旧高校の山岳部OBである。

少年戦車兵学校は旧軍用地、つまり開拓地6000ヘクタールの南端にあり、そこから地区は北に紡錘状に伸びている。富士山頂は、戦車兵学校から望んで、真東よりやや北の方位で、地図上で測って、約13キロのところにある。

富士山には、頂上から山体を西にむかって「大沢(おおさわ)」という崖状の巨大な溝があり、それが開拓地区に入ってから折れ曲がって南下し、少年戦車兵学校やわれわれの住む寮の西方を通り、更に南下して潤井川となっている。

しかし戦車兵学校のある上井出村では、豪雨の時には濁流渦を巻く流れとなるが、普段は大石のごろごろした枯れ澤である。この大沢沿いに途なき途を登った。途中にシャクナゲ畠があったかどうか記憶は定かでない。

寮を出かけるのがおそかったのか、御中道に出る前に日が暮れて野宿することになった。御中道とは、各登山道の5合目辺りを結んで出来ている富士山を鉢巻き状に巻いた山道である。
このあたりから頂上まで立木はなくなるが、御中道から下はそれほど急勾配ではない。各人が適当なところでよこになる。夜になると、時々大沢の落石の音がガーンガーンと響くのが聞こえてきた。

翌朝、御中道にでて数10米ある溝を渡る。時計回りに山道を山梨県側に入り、這い松の御庭をへて、吉田口の登山路に達した。これより頂上に向かうことになったが、頂上で翌朝ご来光を拝むためにと、8合目の室(むろ)に泊まった。

だが次の朝は霧雨。ご来光どころか、期待していた西富士開拓地の鳥瞰図も見られない。雨具もなし、ほうほうのていで、今度は富士宮口から下山し、北山村とおぼしき部落から右折、小雨の中をようやく上井出村の寮に戻った。

3日がかりで、玄関から富士山頂まで歩いて行き、歩いて帰ってきた。 

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