5  草原     

 人穴、猪之頭以北(標高600米位から上)は旧上井出村他六カ村組合有地であったため、肥料のない時分であり、下の町村から大勢の人々が朝早くから荷馬車で草刈りにきた。

ある日、某村の革新系の農地委員が大勢村民を引き連れて事務所にやってきて、営団はわれわれの採草地をどうするつもりだとねじこんできた。

開拓者に土地が開放されるのを、革新派のあなたが反対する筋はないだろう。入植を希望するなら、貴村の人々にも土地は開放されているのだ、というようなことを言って引き取ってもらったことがある。
その後、中央部は地元町村に返却されたと聞いたが、この日本の代表的な草原地は、人の歴史よりもなを数奇なものがあるようである。

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源頼朝の行った富士の巻狩りは、この草原である。白糸村(開拓地の1部が所在)には頼朝が泊まった狩宿の本家と呼ばれる旧家がある。門に垣根を巡らした堂々とした屋敷で、屋敷の前には頼朝が馬をつないだと言われる「駒止め櫻」がある。
当主が佐野所長の学友と云うことで、ある日、所長につれられて渡会氏と、うどんのご馳走になったことがある。

近くに「白糸の滝」と、蘇我兄弟が仇工藤佑常の陣やを襲うとき、兄弟のささやき声を滝が助けて、滝の音を止めたと言う「音止めの滝」がある。 

草原は、源頼朝時代には山麓村々の入会地としてあったものか。

現代になっては昭和14年、人穴(地区の中央にあった小部落)以北の草原が陸軍の西富士演習場になった(猪之頭廠舎はその宿泊地)。昭和17年以北も強制買収、上井出に陸軍少年戦車兵学校開校、同18年、人穴部落全員移転完了している。

それが、わずか二年後に敗戦、全国各地にあった軍用地は戦災者、復員軍人等に開放されることになった。農地開発営団はその中で大きな地区の開墾、道路水路の建設、入植の世話などを行うことになる。これが、戦後政府が行う最初の重点施策ーーー緊急開拓事業(昭和20年11月閣議決定)であった。

だが、(西富士の)内情は先に述べた通りのもであった。

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1995年、一躍有名になったオーム真理教の大本山は人穴にある(った?)。そして第6サティアンのあった上九一色村(山梨県)は県境を越えた隣接地にある。

もっとも昭和21年当時、人穴以北には天守山地寄りの麓(ふもと)、根原(ねばら)の2村落があるのみで、山麓には山梨県側を含め人っ子一人いない荒涼たる草原であった。 

 ともあれ、中央草原は表土がきわめて薄く痩せていて、根笹だけがはびこっていた。富士宮出身の入植者深瀬氏(海軍兵曹の豪傑)の実験によれば、根笹を完全に除去するに人夫反当50〜60人要したという。その上、ものが取れぬのだから歯が立たない土地であった。

 地元(猪之頭あたりからの出耕作者)では、わずかに窪地に土壌が堆積した個所を畑としていた。開墾適地として土壌堆積地を発見することが急務であった。根原部落南の官行造林地帯に平坦地があるというので「ロケ」車で出かけたが、立木(半分は火災にあって焼立木)が立っているので見通しがきかない。そこで一案、ロケ車で立木を踏み倒しながら、東西と南北方向に走らせ、走行距離を読んで面積を算出したこともあった。

 西富士の土壌については、その後、柳田友輔氏(当時中央開拓講習所副所長)からいろいろ教えを受けた。燐酸吸収係数の大きいことが大欠陥であることなど始めて教わった。

 

         (部落調査その他)     

周辺既存農家の経営を勉強すべく、地元出身の職員佐野氏の案内で根原部落へ出かけた。20戸ばかりの農家全戸についていろいろ聞き出そうと一泊したのだが、夜になると石油ランプがともされ、静岡県にもまだこういう処があるのかと驚いた。

耕地面積は1戸5反歩(50アール)ていどの雑穀農業であった。原野を利用して戦前から乳牛を1,2頭飼っており、この地域の農業の方向を示していた。

それから、北海道の酪農の本を買ってきて勉強したりした。家畜がなければいけないとは誰も云うことであった。 

根原部落に続いて麓部落にも行ってみた。ここも20戸ばかりの石油ランプ暮らし。根原は山梨県との県境の峠にあるが、麓は街道から1段さがったところ、天守山地の扇状地のおくまったところにある部落である。

麓は大家が部落の全耕地の所有者であるが、当主はおとなしい青年で、その日も馬車を引いて、山かどこかに行って来たらしい。今なら部落の由来、組織に興味を惹かれると思うが、当時は作物の作付け面積やら収量のみに調査を進めたらしい。

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どういう経緯か覚えていないが、営団本部の和田理事から、開墾機械費10万円の枠で馬を買ってよいという許可が下りた。前代未聞の開墾機械であるが、早速、長野開拓団の伊藤団長と長野県大下条村(長野開拓団の出身村)へ馬を買いに行ったのだから、あるいは伊藤氏の画策でもあったのだろうか。馬は長野開拓団その他へ貸し付けの形をとったが、この小振りな木曽馬達はついにプラウを引いたことはなかったのではないか。

10万円で10頭の馬が買えた。村始まって以来の高値だったそうだが、インフレのおかげですぐに安い買い物になってしまったのは僥倖であった。 

その頃、Sという獣医が仲間に加わり、輸送馬の事故にタイミングよく間にあった。馬の次には乳牛の買い付けをしてもらったりした。 

本部から牧草の種子が送られてきた。牧草の種子を見たのはこの時が初めてであった。あちこちの組合に頼んで試作してもらい、自分でも構内の畑に坪播きをしてみた。無肥料と種子の質が悪かったのか、結果はさっぱりで、発芽したものも秋のうちに消えてしまった。

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朝霧組合長の四条氏は、非常なアイデアの人であった。それを実践するために開拓地を選んだような人で、ものの考え方について、ずいぶん啓発された。その四条氏が猪之頭廠舎で寒天工場を始めるというのでみなで賛成し、営団本部も応援することになったと思う。寒天は当時の日本の希有ともいうべき輸出品であった。

結果は成功とはいえなかったようだが、あれはすばらしい夢だったと思う。 

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