初期の長野開拓団

昭和21年(1946)静岡県西富士地区に長野県から分村が行われた。
団長の伊藤義実氏は、長野県下伊那郡大下条村の助役、団員は同村やその近傍出身の復員・満州等から引き揚げた15歳から25歳の若者達。戦前あるいは戦中行われた、分村である。
   年少者は満州開拓青少年義勇軍か

その分村は、見事成功した。30年後の(富士開拓農業協同組合刊)『富士開拓30年史』に「西富士長野開拓団時代」と題して伊藤義実氏がこう述べている。

「西富士の酪農を支えているのは何と云っても長野3地区(長野開拓団の入植地区)である。それは自他共にに認められるところであると思う。
しかし入植の初期は誠に海のものとも山のものともわからない若い者の集まりで、即ち15歳から25歳までの青少年の集団であった」

母村当局と、母村の家族会の援助と期待がなければ、この集団は成り立ち得なかったであろう。

そして、母村当局が西富士のために役立てた最大のものは、かって母村の助役であった「伊藤義実」その人であった。

『富士開拓30年史』(昭51・1975)は、今となっては少々古いと思われが、引用する部分は概ね1945年以降5、6年のできごとである。


『富士開拓30年史』より
    開拓農協保育場

『富士開拓30年史』の伊藤義実稿〈富士開拓30周年〉から抜粋要約
  
初期の長野開拓団

・集団入植

戦前長野県は、満州開拓に全国でも注目されるほど、県を挙げて力を注ぎ、多くの人々を満州へ送っていたので、引揚者も沢山でどこの村も人口が急増した。先ずこれらの人々をどうするかと云うことが、戦後の重大な課題であった。

そこへこの「緊急開拓」が実施されたので、村はよしこれだと早速取り上げて、主として若者に呼びかけたところ、非常な共感を得て百数十名が即座に集まった。
(注 昭和20年11月9日「緊急開拓事業実施要領」閣議決定)

さてそれでは何処へ入植すると云うことになると、勿論狭い谷間の村にも或は県内を見渡しても適地はない。うろうろしていれば何処も此処も満員になってしまう。評議の結果全国的視野で捜さなければと云うことになり、取り急ぎ私を始め数名で陳情団を作り、上京することになったのは、その年の暮れであった。

伊藤氏らは、分村計画を携え農地開発営団、農林省に陳情したところ好意をもって応対されて、静岡県西富士地区を紹介される。

「早速静岡県へ来て陳情したところ、自県の者も碌々面倒を見きれないのに、まして他県の者まではとても受け入れられないと云う主旨で、けんもほろろに断わらてしまった。
しかしこのままでは帰るわけにもゆかず、とにかく富士の現地を見て帰ろうと、年の瀬も迫る12月の末に西富士を尋ねた。

当時植松氏は、西富士開拓帰農組合連合会長の他、営団事業所の副所長の肩書きを持っていた。
これは、11月に発動された「緊急開拓事業実施要領」により、農地開発営団が農地開発の事業主体となったが、現地にスタッフがいない。

国、県や営団が事業主体となる場合、受益者たる農家(開拓者)が営団の副所長になることは考えられない、と農林省(農水省)の人々は考えるだろう。
だが、敗戦直後の占領下にあった日本の状態では、農林省自身もとりあえずの処置であった。


「(伊藤氏は)早速植松さんに来意を告げ、村の分村的な集団入植の企画を話し、営団や農林省を経て県を訪問したこと等の経緯を述べ懇談するに、植松さんから開拓は若い力が是非必要だと早速了解されるに至ったので、よろこびも一入、急遽準備を急ぎ、慌ただしく若者1月31日と2月末日の2回にわたり130名余を送り込んだのであった。

しかし静岡県は、入植許可をなかなか出さず、4月になってようやく標高600米以上の土地に限り、許可した。600米以上は、当時本栖湖から水を引く構想はあったが、構想だけで、無水地帯の荒れた原野であった。所長佐野氏も、副所長の肩書きをつけた植松氏も、静岡県民では、それも戦災者、外地からの引揚者では、標高600米以上の土地では手を出さないと見たからであろう。

  

・開拓の初期

いよいよ開拓を始めたが、何しろ団員が15歳から25歳までの青少年で統率するものがいない・・・・・・・

手をやいた植松さんがとうとう乗り込んできて、談判を受けるという事態となった。村は急遽これを受けて対策を協議したが、なかなか人がえられず、最終的に私が当時助役として送り出し責任者でもあったので白羽の矢を立てられたのである。こうして私は半年遅れて昭和21年6月26日に西富士の土を踏んだ。・・・・・・・・・

私はこうして入植したものの農業に就いてはずぶの素人で、基礎知識も何も知らないので、皆目見当が掴めなく閉口した。

ここで伊藤氏の横顔について、ちょと触れてみよう。年齢当時40歳前後、中肉中背、額の穿け掛かった頭は丸刈り、ダブルの背広。あるとき甘藷苗床に案内した視察客に「品種は?」と訊ねられ、「いろいろありますにー」とこたえた。酒類の少なかった当時、一緒に飲んだ場所は覚えがないが、この辺が温かいと自分の喉を指さす酒好き(?)。

「先ず第1に驚いたのは食生活のわるいことである。喰い盛り、伸び盛りの青少年、元気1杯で意気に燃えてはいるが、これでは駄目になると考え、早速幹部を集め喰うものを集める対策を練り、山野草を始め魚油や甘藷床の種芋まで買い集めたり苦心したが、どうにもならない。
遂に栄養失調を訴える者が続出するにいたり、やむなく団員を3班に分け援農と云うことで、実は回復を狙いとして1月交代で帰省させたであった。

この挙に出るまでには随分迷った。内心或いは帰ってこないかもしれないと心配しながら決行したのであったが、これは杞憂であって皆見違える程元気になって帰ってきたのである。たしか半年ぐらい続けたが、欠ける者は殆どなかった。

裸一貫で入植し、喰うものはなし物はなし、お金もなしという環境で而も社会情勢は不安定というのに、一旦決めた開拓への道に、挫けるともなく苦闘に耐えてしっかりやっていこう云う決死に私は改めて感動した。

そうしたことから、これは本腰を据えてやらないと申し訳がないと決意を新たにすると同時に、私自身の後半生の運命を決めるに至ったのである。

・共同経営と家族会

その頃団は無差別平等な共同生活、共同経営を余儀なくされていた。
130名を開墾、営農部を中心に製炭部、輸送部等に分け、それぞれ分担して当たることにした。
国有林へ入り炭を焼き、鈴川の海岸で塩を採り、物流を計った。
中でも製塩部が最も人気があった。

それは海岸で塩を採るので多少物交が出来、又魚を釣って食卓を潤したからで、その内に誰云うとなく疲れたものは製塩行きと何時しか保養所になったのも、当時の生活の知恵でもあったろう。
   
    毛無山(北西)から南東を望む

昭和23年から広見、荻平、富士丘と逐次部落の建設に移行することになった。

この頃から所謂花嫁捜しの問題にぶつかってきた。年輩の者は28〜29歳にもなったので、本格的に花嫁捜しの必要に迫られたのである。

村とも常に連絡しながら努力を始めたが、幸いに村は家族会が結成されており、入植以来資金の事やら、物資の補給を初め激励慰問にと活発な支援活動が行われていたので、家族招致の問題も比較的順調に進めてくれた。-----

伊藤義実稿「富士開拓30周年」は、この後、


国営開拓と建設事業、
・中央開拓講習所と開拓、
・県農試と高冷地蔬菜、
・酪農と県家畜診療所、
・草地改良と構造改善、
・観光資本攻勢


等がつづき、次の言葉で結んでいる。

・反省と明日への展望

・・・・・・かくて我々の道は、確かに茨の道であった。又苦難の多い坂道でもあった。途中で落ちるものは落ち、去るものは去っていく中で嘆きもした。又発憤もして、がっちりスクラムを組んで悔いなき人生をこの岳麓で送って来たのだ。・・・・・

『富士開拓30年史』〈富士開拓30周年〉 富士農業協同組合長 伊藤義実稿より

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