伊藤義実稿「富士開拓30周年」 つづき

    ・国営開拓と建設事業

    富士の開拓を進める機関として農地開発営団(西富士出張所)が設置され、それが22年、国営開拓地となるに及んで、富士開拓建設事業所が開設、これに吸収されて体制が整い、本格的に開拓計画が樹立されることになったのである。多くの職員が配置され、測量設計を初めとして開拓計画が行われるようになった。

    特に土地配分問題である。これには旧地主の失地回復の攻勢があり、また開拓者個々の配分も既成事実を踏まえての計画だから容易でなく、絶え間なく論争のある間にあって、自由平氏が熱心に昔からのこの地方の農業を調査して計画され、さらに道路水路等については、渡会末彦氏が自由平氏と呼吸を合わせながら設計された。

     水の問題は最初、本栖湖の水を引く運動をしてついに失敗、根原区の了解を得てAB澤より引用することになるまで随分難行し、 ーーー水道工事が進み富士丘まで通水したとき、渡会氏が窃に飛んできて、実現した様を見て喜んだ姿がいまだに目に浮かぶ。

     ーーーその事業所にあって、開拓計画の内営農部門を担当した自由平氏が樹立した計画書によれば、明らかに将来酪農経営を展望しての土地配分と受け取れるものであるが、当時は政府の食糧政策(作付け統制令?)が絡み、直ちに自由平氏の意図する酪農へ踏み切れなかったのも、われわれの開拓を困難にした一つの要因で試行錯誤の繰り返しを余儀なくされたものであった。(富士開拓30周年伊藤義実稿より)

     長野開拓団へ戻る