長野開拓団発足と伊藤義実団長

長野開拓団の1員であった植竹一男氏の筆になる「入植と団結成の経過」から抜粋、団員出発時の雄姿、伊藤義実氏の決意の経過等を見てみよう。

「昭和21年1月31日、先遣隊員73名の出発の朝である。飯田線温田駅下り1番電車に乗車するため、帰農者は、弁当2日分の外に、もし何かの事情で先に発送の荷物が遅れても困らぬように、米約2升、野菜、漬け物に毛布とか、鉈と、鍬の柄を杖に真冬の伊那谷の山道を提灯で足元を照らしながら三三五五と(温田)駅の待合室に集まってくる。・・・・・・・・・・

「冬の日は短く富士宮駅に到着した時は駅前の赤い大鳥居が夕暮れに包まれようとしていた時だった。旧陸軍将校服に戦闘帽、赤革の半長靴の植松さん直々に農林省ナンバーを付けたトラックで出迎えてくれた。
上井出の旧少年戦車兵学校の施設が仮の宿舎となった・・・・・・・・・・

「持参の弁当で夕食をすませ早々に73名は1室に集まり、作業班組織編成の話し合いをし、大衆討議をもって先ず団の名称を西富士長野開拓団と命名し、団の結成団(始?)は一切を共同経営とすることを決定し・・・・・・・・・

 (初期の開墾等中略)

「団は、本部要員及び地区組合長を中心に運営を計っていたが、大世帯の生活一切、農業のこと、または人間関係、土地の割り振りにしても難しい問題が山積していた。
それにもまして、毎日毎日を食って行く事の難しさにので,母村大下条開拓委員会に団長派遣を強く申請したところ、村当局を始め村議会および家族会は数次にわたり協議の結果、村の助役伊藤義実氏を全員一致の賛成をもって推薦けっていしたのである。

そもそも御本人は、現職助役であった関係から昭和20年8月15日終戦により復員軍人、工員、外地引揚者ら村内へ帰還する青少年を迎え、これら青少年の前途に希望を与えることを考え、この対策は青少年を主体とする村外への集団入植を行うべきことを提唱、」「各地に適地を求めた結果、遂に富士西麓に開拓地を発見・・・・・・・西富士長野開拓団の設立に成功するまでの最高指導者であったのである。」

「現地の実情は送り出しに急で、指導者がなく、矢の催促にーーーー村当局、家族会、現地団員一致の要請により団長を受諾され、大下条村開拓委員会専務委員として昭和21年6月就任された。

思えば血気盛りの青少年130名を統率、苦難多き建設に努力、急激に進行するインフレの時代にあって、大所帯の深刻なる財政の危機の中で、外部交渉に奔走、入植第1年度の言語に絶する惨憺たる食糧不足、特に野草生活で栄養不良者の続出する悲運に逢い、天水生活のため伝染病患者をだすとうの物心両面の試練と戦いながら、苦楽を共にして家族的な団結和合を計り、団員育成に心を砕いたのであった。
かくして入植当時リックサック1つ裸1貫の若者達が、幾多の困難を経てよく建設の基礎を築き、富士西麓の酪農を安定するに至ったのである。
(後略)


 富士開拓三〇年史』西富士長野開拓団時代 3,入植と団結成の経過(植竹一男稿)より抜粋

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