自由平自分史断片
 
西富士開拓時代

毛無山から西富士開拓地を望む
『富士開拓30年史』より

 

      1 トラック島時代の前後

海軍を復員後、最初に就職したのが、静岡県富士郡上井出村(現富士宮市)にあった農地開発営団西富士出張所である。

海軍時代は、別に『わがトラック島戦記』に述べてある。いま、その前後を若干補足しておこう。 大学は当時の戦争事情(徴兵延期の短縮)で、三年生は半年繰り上げて昭和18年の9月卒業となっていた。

就職先は満州国の興農合作社(満州国は、今の中国の東北地方、日本が作り上げていた国。興農合作社は日本の農協のようなものらしい)に決まっていた。
その頃、農業経済学科の卒業生はほとんどが満州をはじめとした外地行きで、内地に就職するのは病弱かよほど家庭に事情があったものであった。もっとも、病弱でない限り誰も軍隊に直行しなければならぬのだから、就職先問題は二の次である。

私の場合、卒業前の6、7月頃郷里の静岡で徴兵検査を受け、甲種(山砲)合格だったが、別に海軍予備学生試験も受けた。ところが海軍予備学生の方が呼び出しが急で(陸軍との要員獲得競争があったのだろう)、9月何日かに土浦航空隊まで来いと云う通知があった。
大学の9月の卒業試験も一つか二つの科目は特別に繰り上げてもらい、教授の部屋で1人答案を書いた覚えがある。

そんなわけで、興農合作社の方は、満州国はもちろん東京の連絡事務所に顔を出す暇もなかった。

      

敗戦になってトラック島から復員してきたが、満州国も合作社も消滅してしまっており、最初の就職は幻におわった。ただ、私の出征中、興農合作社から給料が自宅に送られていたかもしれない。そうであれば留守宅の両親に多少は親孝行したことになるのだが、復員後、父からそんなことは聞いたこともなかった。

とにかく、昭和20年(1945)11月、静岡に帰ってみれば母はすでに亡く、清閑町の家は戦災で焼かれていて、父は、市内の西北の焼け残った一画にある、床屋の屋根裏のような二階で、その家の子どもにまじった間借りをしている始末であった。

私は、同じように焼けずに済んだ叔母の婚家の玄関先にかろうじて収容してもらい、就職先を探すこととなった。というより、脚を伸ばして寝るところを探す必要があった。
たまたま農地開発営団というのが、人員を募集しているのを知り、滋賀県彦根市の営団中部支所に出かけて、西富士開拓事業所(静岡県富士郡上井出村)に行くことをすすめられた。
そこには陸軍少年戦車兵学校の建物施設が残っており、住むに事欠かないというわけである。 

 

農地開発営団は、昭和16年5月農地開発法により、大規模の農地開発事業を行うための国の代行機関として設立された。戦時食糧増産政策の一翼を担うものとしてである。
戦後は、緊急開拓政策により、その事業分野は飛躍的に拡大したようにみえた。
しかし、昭和22年、戦後の混乱がつづく中で、勅令により造られた機関ということで、GHQの命令で閉鎖されることになる。
もっとも、その仕事も人員も国に移され、国営農地開発事業の種になるのであり、私もその流れの中で、予期しない役人の途を辿ることになるのである。

さて、営団の中部支所は中部地方を所管とするところ。その事務所が彦根城の堀にそった城廓のなかにあった。内部は広い納屋の中のよう感じであった。中部支所といえば名古屋にあるのが常識であるが、焼け出されていたのであろうか。

その後知ったのだが、営団本部は新宿三越の、焼けた倉庫のようにくすんだ中にあった(三越の中が焼けたかどうか知らないが)。これが敗戦時の日本の都市のごくありふれた状態であった。

 

ずっと後になって知ったこと、つまり農林本省にうつってからであるが、役所流にいえば、農地開発営団は農林省の農業土木陣営がつくったもので、人事権も握っていた。そして農経出身者などものの数にも入れてもらえなかった。人夫賃扱いでほって置かれたのもそのせいである。

農林省は、いわゆるキャリア事務官(高文組)のほか、農業土木(閥)と農学(閥)の技官組が、おのおの人事権を握っていた。ただし、事務次官はもちろんのこと、本省局長はキャリア組のポストであった。戦後の公務員試験制度後もこの割り振りはおおむね守られている。 

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次に、農地開発営団西富士出張所(静岡県富士郡上井出村・現富士宮市)時代について、後に刊行された『富士開拓組合30年史』(昭51)への私の寄稿文などから再録する。

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