農地開発営団西富士事業所の頃 ・・・一職員の回想・・・
2 少年戦車兵学校跡
(西富士事業所)
農地開発営団西富士事業所に着任したのは、昭和21年(1946)の2月であった。
着任といえば聞こえはよいが、実は営団の彦根市ある中部支所に就職の希望を申し出たところ、西富士に行けば戦車学校の建物があり、住むに困らない場所だといわれた。
復員後、静岡の家は戦災で焼かれており、行き先無く、焼け残った一画にある親戚の玄関先にやっかいになっている身で、これ幸いとばかり身の回りをリックサックに詰め、西富士へむかった。
********************
富士宮の駅から三里の山道をテクテク上井出村までやってきた。
山道と言ったが、過度の表現であって、富士山の西の山裾と、天守山地の東部との接合地帯を、南北にはしる、勾配(1/60〜1/50)の、未舗装の、当時としては普通の国道であって、山梨県富士五湖へ抜ける道路である。
しかしバスは、木炭車で、午前中に売り出す切符が20枚足らずでうち切りであった。
上井出の村落は、富士宮から真っ直ぐに北にむかってはしっている一本道に沿った、街道型村落である。その村落の中程を右折し、大沢川を渡り、部落と平行する道を北上すると、両側に小官舎群があった。それを過ぎると十字路があり、右手に土塁とユッカーの生け垣を巡らした少年戦車兵学校があった。
十字路を右折して東へ進むと南面して正門があり、前の道路をそのまま東に行けば、学校の先は富士山麓の森林地帯になる。十字路を反対に左折すれば、西側は短く、やぶで行き止まり、やぶのむこうは大沢である。正門の前、即ち南は畑地帯が続き、その先のは駿河湾が思いのほか近くに見える。戦車学校は標高500メートルである。 このへんはの記憶は曖昧で、5,60年前の、あちこち風景の記憶の断片を継ぎ合わしたもの。
正門をはいると広いに前庭があり、正面は本部のある木造二階達て学校風の建物である。
あとで知ったことであるが、本部建物の階下は、営団と同時期に、中央開拓講習所が入っていた。奥に並んで戦車兵生徒用の建物があり、戦後は開拓講習所学生用となった。前庭の西側には講堂、北に並んで開拓者が仮に住んでる各種建物。本部建物の東側は少し奥まったとろに、軍が何に使ったか知らないが、講習所の牛舎と製材所があった。また正門の東側には本部と向き合う形で、車が何台も入れる車庫があった。
本部建物の二階の事務室には、カーキ色の軍服を着て、長靴(ちょーか)をはいたような連中が大勢出入りしていた。焼夷弾対策で、天井板がはずされて梁がむきだしになった大部屋であり、部屋の真ん中にはストーブが置いてあり、うすよごれた海軍の紺色のレインコートを着て、正チャン帽をかぶった男があたっていたが、こちらを振り向いて「よう」と声をかけてきた。
見覚えのある顔である。これが、それから四年近く起居を共にすることになる渡会末彦氏であった。彼とは学年は一年違っていたが旧制高校、大学とも同じだったから、顔は知っていたが、口をきいたのはこの時が初めてだった。
**********************
事業所の副所長(副主任?)は、開拓(帰農?)組合長の植松氏、戦車学校の残留組で組合幹部の榊原氏が営農担当で、私はそこを手伝うこととなった。当時所長は、営団中部支所長佐野清氏の兼務であったため不在であった。植松氏は、若いが加藤寛治張りのあごひげを伸ばしていた。隣村の出身で、加藤氏の弟子であったとか。 加藤寛治:戦前戦中の満蒙開拓推進者
事業所職員は、官舎住まいの戦車学校残留入植者と、地元からの通勤者が大部分であり、土木技術者は渡会氏ほか二、三人が測量隊と呼ばれて、外人部隊風であった。
外人部隊は、近くの、戦車学校時代の独身将校の宿舎であった寮に寝泊りしていた。私はその一員に加えてもらった。
寮は、先の官舎群の学校から一番近いところにあり、木造二階建て。一階の管理人室を除き、上下それぞれ10室あった。部屋は四畳半と六畳の二間、渡会氏は二階の西の端、A氏は二階の階段寄り、部外者で国立病院の医師一人も二階であった。N氏は一階の西中ほど、私は一階の東端、部屋には某大将の書いた額が掛かっていた。
遅れて赴任してきたものも、それぞれのところにおさまったが、まだ明き部屋がいくつもあった。
寮の管理人は、若いが気の強い独身の女性だった。渡会氏と私は彼女に食事の世話をしてもらった。
寮にはその後も部外者の出入りがあったが、寮と営団との関係は、些か曖昧であった。
寮のみならず、戦車学校の土地建物が未処理の段階であったのだ。
村の旅館の主が、管財と称して戦車学校の二階の校長室に陣取っていた。財務局から委託されたらしい。
(C級戦犯)
職員といっても人夫賃での雇庸が多く、私も何カ月たっても人夫扱いであったので、しまいには大いに腹を立てた。
そのころ戦犯の調査があり、私もC級戦犯にあげられた。原因は私の留守中にお巡りさんの(?)調査員が来たとき、寮の同僚のA君が、私のことを現役の海軍大尉といったらしい。
私は予備学生出身で、トラック島にいたとき現役志願を勧誘されたが、断固として(?)ことわった、ポツダム(予備)大尉である。早速英文のあやしげな異議申立書を書いた。ほかにも戦車兵学校に同類がいた。異議申し立ては通ったが、戦犯の通知とか、異議申し立ての宛先は記憶にない。
こう云うことも人夫扱いの原因であったかもしれない。
そもそも私の如きを名指しで調べに来るのはおかしい。終戦時には、トラック島春島のてっぺんにいたが、春島は海軍47警備隊の指揮下にあり、そこの副長は開戦時、空の神兵として勇名を轟かせた落下傘部隊の隊長であった。その人のゆくへをさがしに来たらしい。
戦争の終わり頃、警備隊本部で1度あったことがあったが、海軍兵学校出の、若いなかなかの豪傑であった。探し当てたかどうか。
(義農作平の話)
西富士に来て間もない頃だったと思う。視察に見えた営団本部のえらい人が、職員を集めての訓示があった。むかし、大飢饉の折、作平という百姓が、後の人のため一俵の種もみを手をつけずに残して餓死した。世の人、これを讃えて義農作平という、という話であった。
われわれ仲間が、倉庫にあった入植者用の種馬鈴薯を喰ったという噂があった。それと関係あるのかないのか知らぬが、詰まらぬ話をするものだと思った。
戦車学校の資材を、誰それがかくしているというような噂もあったが、大方は片がついてしまった後だったろう。活躍していた軍の遺物には数台のトラックと牽引車があった。
「ロケ」(軍用の六トン牽引車の略称、)と呼ばれた牽引車は開墾用に使われたが、プラウが悪く、反転が不十分の上、砕土整地が行われないから、入植者が使えるような畑となるにはほど遠かった。仮に畑ができたとしても、痩せた火山灰地で肥料がないのだから、収穫はおぼつかなかったであろう。
そんなわけで、やがて機械開墾は中止させられたが、「ロケ」はキャタピラ走行のため、途のない原野を走るに最適で、その後、現場調査用として大いに役立った。
トラックはさかんに物を運んでいたが、どういうルールで動いているのか一向にわからなかった。
・その後、『富士開拓三〇年史』(昭51)で、ある人の寄稿文を読んだが、(開拓民のためにと)相当悪辣な手を使って旧軍の車両やガソリンを獲得している。乱世の英雄というべきか---
・『戦後開拓史』昭42(緊急開拓の発端と推移 佐々木 即稿) に寄ると「----委託開墾は農地開発営団、府県、農業会などに政府から開墾事業を全部委託しておこなわせ、その費用は国がもつというやり方である。---道水路などの工事も完成し,整地を荒起こして農地もできあがったときに、入植者に農地を売り渡す、それまでひとまず国有地のまま入植者にしようさせておくというこ考えであった。つまり、農地ができあがるまでは、一種の労働者である。----予算の枠の少ないこと、開拓者が政府などから受け取るべき金が渡される時間的なずれ、建設工事や開墾営農の進度と入植営農進行とのタイミングの悪さ等々、いろいろ問題は多かった。」
これは当時農林省にいた人の稿であるが、現地にいる我々は予算の枠さえ知らないありさまであった。国の予算などGHQ(国連軍総司令部)の承認がいった。農地開拓は、GHQとしても占領政策として重要課題の一つであったに違いないが、都市は焼かれ産業基盤は荒廃した敗戦直後は、転業製造業の製品で、文字通り鍬一丁さえ(なまくらで)ままならなかった。
・西富士では、本部から送られてきた国産新品OO製のトラクターは、のろのろ運転でプラウを引くどころか、正門のまえで車軸が折れて敗残の姿を数日間も晒していた。
・戦車学校の残留組で、相模原で講習を受けてきた者が運転するブルトーザの試運転で、構内造った盛り土の山を排除しようと2、3人掛かりで誘導したが、山に乗り上げてしまった。機械が悪いのか乗り手の未熟なのか。そのごブルは見かけなくなった。
入植者達は、仮住まいとしている戦車学校の構内や周辺、あるいは猪之頭廠舎(しようしゃ)周辺を畑にして最初の春を迎えた。春になって、種をまくべき一坪の畑をも用意していないのは、われわれ独身寮の住人だけであることに気づいた。それから日曜などに事務所の前庭や寮の庭で、ひとが畑にし残したところを探して耕して藷を植えたりトウモロコシを播いた。その後、麦を播いたり野菜を作ったりした。
畑作についての貴重な経験であったわけだが、食物に関しては惨たんたる状態であった。