4 『神のシリーズ』と『人間の運命』との比較

 

 『人間の運命』書いた昭和40年頃の宗教意識を、『神のシリーズ』を書いた昭和60年代以降の宗教意識と比べてみよう。 

 神がかりついて、芹沢は、『人間の運命』の次郎を通じてこう述べている。

 次郎は、ヨーロッパから帰国後、一高時代の友達で、その後大本教信者になった小川健人から、話しを聞かされた。

 「明治25年(1892)に京都府の綾部に住む、出口なおという57歳の主婦が、神がかりになり、次々に啓示を口にし、筆にして、大本教の教祖になったが・・・・・ 」

 次郎は考えた。「天理の教祖中山みきも、その約半世紀前に、同じ年頃で、突然神がかりになり・・・・」 「金光教のように、明治維新当時、教祖に神がかりがなって・・・・日本には、どうして、こんふうに神がかりの現象が起きるのであろうか。・・・・信仰も、その社会の集団的表象であることを、デュルケーム学派の社会学者は、学問的に実証したが、・・・・日本人が社会生活を営む上に、神がかり的な信仰を欠くべからざるものにしているのであろうか。
それは日本に民度がそれだけ低いということであろうか」
次郎は疑問を深くした。            (『人間の運命』第8巻嵐のまえ第13章)

 芹沢は、この頃は、民度の低い神がかり現象を、軽蔑したのではなかろうか。

 

 の件については、

 「小川の仲間で、唯物論に疑問をもつ東京帝大の学生が数人集まって、人間の精神や霊魂の存在を実証しようと、真剣に研究しているのに、興味をいだいた。そのうちの1人の法学部の学生の高田に、天使ローズという守護霊がついていることから、文学部の学生木田が死後に霊魂が存在するかどうか、実証するために自らすすんで自殺して、死後の霊の世界を天使ローズを通して仲間に知らせるというような、狂信的なことまで敢行した」

「その自殺は、マルキシズムの運動に参加する学徒と同じように、いのちがけの真剣な行動であると、当人達は主張するが、客観的には、児戯に類することで、次郎にはお伽噺としか考えられない」

「自分の良識で、どうにも判断できないが、東京で、しかも最高学府に学ぶ若い優秀な心に巣くっているのは、どういうわけか」

 次郎の良識は、一般の常識。〈神のシリーズ〉の「魂」は、お話にすぎないと思うが、お話が異常すぎる。(ただ、霊魂を問題ところに、双方ともに異常性が見られる。)

 数え上げれば、きりがないが、〈神のシリーズ〉は常識を外れたもの、大江健三郎の返事によれば、「現実とそこをこえたものとの、自由な行き来があり」 「そこにもっともひきつけられます」 という。 詩人でない私は、敬遠する。

 

 〈神のシリーズ〉は、小説という衣を被っているために、事実と虚構、空想によるものか、わからない仕掛けになっているが、小説のなかの芹沢の宗教意識を、芹沢自身は否定してはいない。

 フランス仕込みの、知性は何処に行ったか。

 山本三平君(『大自然の夢』)に訊ねたい。    (次章 『理性の人・杉本一平』山本三平 参照)

幕末維新期この方、さまざまな新興宗教が起こった。

 芹沢は、明治期の彼の父の「新時代の文明」と、彼の教養主義とが、合体して、彼の晩年の宗教となったのだろうか。

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