5 結びに代えて、漱石の文芸評論その他 

 

  『こころの波』第6章にある「ジャック」の考え方は、18世紀のヨーロッパに現れた自然神教の考え方であろう。

 

 自然神教には、漱石のおもしろい意見がある。

 漱石の『文学評論』の、(18世紀に於ける英国の哲学)を述べたくだりで、こう云う。

 

 これに対して、同、文庫本の解説(平井正穂)の意見も、なかなか面白い。

と述べている。 

 

 人が神・佛を祈る場合の意識状態を、信仰というならば、昔はともあれ、明治以降の日本人の信仰は、1般に浅くなった。国家神道という、国家による締めつけがあった1方、文明開化の風潮と学校教育の普及により、従来の仏教は薄められ、国家神道は、広いけれども浅い、信仰と云うにはあまりにも形式的で、社会風俗化したものであった。 

 漱石は、それを指して云ったのであろう。そして、英国の18世紀には、「信を以てたつよりも、理を以て勝とうとする風を(宗)教界の全部に輸入したのである。-----その傾向が(英国)18世紀の文学にも現れては居るまいか、それが吾人にとっても尤も興味ある問題である」(『文学評論』第2編、18世紀における英国の哲学)といっていて、神への問題を、故意に避けたのではあるまい。

 

 「古い信仰の徐々たる退潮の後には、想像力と理性との間の苦痛にみちた不一致が残される。偶像は少しずつその霊験を喪失していくが、哲学者によって否認された後もそれらは詩人のよって末長く愛着されるのであり、しかも多くの民衆に最大の影響を与えるものは他ならぬこれら詩人たちなのである。」

 「真理が究極的に勝ちを制するという信念は、気休めな、しかし願わくは健全な理説であるとわれわれは信じたい」 (『18世紀イギリス思想史』第1章、L・スティーヴン、中野好之訳) 

                   「芹沢光治良の宗教」終わり (1997、12、5稿)

  漱石も最晩年には仏教に深い関心を抱いた(らしい)とは、この拙文を読んだある人が、そのまた先輩のある人(仏教関係)から聞いたという話である。
 理性と信仰(たとえその名が何とよばれようとも)は、隣りあって、相いともに進むものなのか。
                                           
(1999、11、28ホームページ版)

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