理 性の人・杉本一平    

 昨夜S氏から電話があり、杉本一平氏の死去を伝えてくれた。杉本氏が難病にかかり入院したが、体も動ごかせず、口もきけなくなったことは、去年の秋、横山氏から聞き及んでいたが、今年の正月、入院の彼から賀状が来た。勿論印刷物であったが、彼の文言で病状を伝えたものであり、息子さんの手で書き込みがしてあった。 横山氏から、近々吾が家を訪問しようとの予告があり、杉本氏から賀状が来たことを氏に告げようと思った矢先であった。 

 

   1 追憶 

 杉本氏と私は、沼津で、小学校、中学校が同じであった。しかし、小学校時代はクラスが一緒になったことはなかった。彼は小学生時代に「日本住血吸虫病」なるものに罹ったことがある。

  私らは、3年生の7月の中頃から7月1杯、千本浜の林間学校と云うものにかよった。前から林間学校があったかどうか知らない。あったとしても、1、2年生には、毎日城内の学校から千本浜の林間学校に列を組んで行き来させ、午後には海水浴させるには、無理なことだ。
 また私は、4、5、6年生のときの林間学校の記憶がない。4年生の時、城内地区に並んであった男子校・女子校を合併するとともに、千本浜の方に学校を新設、第2小学校とする学区の編成替えがあった。それ以降林間学校は行わなくなったかも知れない。

 それはともかく、林間学校のことに触れよう。林間学校と云っても、千本浜の林間学校は、普通の組は、松林の中で、砂の地面に杭をうちこみ、長い板材を張ったものが、4人共用の机、1段低く作ったのもが4掛けのベンチで、それをいくつも並べ、1方の端に黒板を立てかけたものが教室である。その教室が松林のなかに、あちこちにあった。もちろん、雨降りには、林間学校には行かない。城内の学校で普通の課業がある。

 しかし特別養護級は、千本浜の林間に、チャンとした屋根も壁もある建物があった。その建物は1棟しかない。彼はその養護級にいたらしい。

 日本住血吸虫病は、ある特定の川に住んでいる巻き貝を中間宿主とする、人畜の静脈血管内の寄生虫によっておこる。小学校裏の小排水河川がその巻き貝の生息地であった。

 その川で遊んで、日本住血吸虫病に罹った子があると、私は噂として聞ていた。その子はいつも顎の下にバンソコウのようなものを貼っていた。ただ杉本のと言う名前は知らなかった。

 「日本ジュウケツキュウチュウ病」と言う特異の名前は、小学生にとって印象深く、何かにつけ、この言葉をつかったものだ。
 しかし、実際この病気が、その後、沼津で起こったということは聞いていない。

 杉本氏とのつき合いの始めは、中学3年生頃だったと思う。その頃、彼の家は小学校裏の錦町から、私の中学通勤路である三枚橋の繭市場脇に引っ越してきた。と言って彼とひんぱんに行き来したわけではない。学校での普通の友人関係であった。彼は運動はやらなかったが、私は剣道部で、毎日放課後、稽古があった。     

 だだ1度、わが家に遊びに来たときに、西欧小説の何かの岩波文庫を貸したことがある。岩波文庫は当時の田舎中学生にとっては珍しいものであった。文学に興味を持ったのはそれ以降のことと、彼は後年語った。私は高等学校に入った途端、岩波文庫とは縁を絶ったが、彼は後に岩波と縁を深めた。このことについては後に触れる。

 当時の中学生は、私の目には、わき目もふらずただ勉強するものと、アンチ勉強派とがあった。後者には運動部に所属するものの他、要するに学校の勉強以外のものに、関心を持ったものである。

 ただし、関心と云っても多くは他愛ないものである。例えばラッパズボンのこと、上級生の柔道部の猛者(もさ)がラッパズボンの裾をなびかせて歩くさまを見て、俺もやってみたいたいと思う。しかし実際には裾を一センチだけ伸ばして我慢する。その頃は中学生でも、洋服屋で仕立てて作った。冬は黒の小倉、夏服は霜降りの木綿地。猛者のはいていたのは、別の生地であったのか。大人のはいたズボンで、特に短めで細いのを、「パツラ」と呼んだ。ラッパの反対がパツラである。

 中学時代の杉本氏の「パツラ」、「パツラ」と云う、遠慮しがちな、嘲笑めいた声が、いまも聞こえて来るようだ。彼が「パツラ」の造語者だったのかもしれない。

 東京の私大の学生の服装は、胴長の上着に、裾先をくくったようなズボンだったが、あれも類型的には「パツラ」だったが、われわれ中学生には気がついたか、どうだったか?

 中学1、2年は肩掛け鞄だが、3年生になると手提げ鞄が出始める。しかし、勉強派は5年生になっても肩掛け鞄。この区分方法は適当だったか疑問が残るが。             注 旧制中学は五年制

 私は歴としたアンチ勉学派であった。杉本氏は運動部ではなかったが、我々のグループであった以上、アンチ勉学派だったのだろう。

 しかし、アンチ勉学派であっても、上級に行くためには受験勉強をしなければならい。 

 杉本氏は商大予科、中村氏は北大予科、私は新潟高校にはいった。

 次に入ってからのことを書こう。

 昭和13年4月、私は新潟高等学校(旧制)に入学、初めて親元を離れた生活をすることになった。1年生の時は学校の寮、2、3年生の時は剣道部の寮で、剣道だけは精出したが学業の方はもとにもどって怠けた。

 学校の寮にいた頃の日記に、 

とある。ドイツ語よりもっと大きな仕事ととは、まさか剣道部を指していたのでなかったと思うが、結果的にはそうなってしまった。

 彼の予科時代(私の高校時代)の私との手紙の交流は1度きりで終わった。私が新潟にいる間に、父は商売をやめ、引退して生まれ故郷の静岡に引っ越したから、学校が休みになっても、沼津には帰れなくなった。

 横山氏は慶応予科に入ったが、高等学校志望でその翌年新潟高校に入ってきた。そして私はT大の農学部農業経済科、彼は経済学部にすすんだ。

 大学時代、私は休暇になるとしばしば御殿場の横山宅を訪れて遊んだ。その時は杉本氏が1緒だったが、夜ゴッチャになって寝た時、寝てからも話が弾んだ。話が飛んで経済学に及ぶと、私と横山氏は、経済原論もどきの、くちばしの黄色い議論を戦わしたらしい。

 杉本氏は後になってから「君たちの云ってることが、わからなかった」と洩らした。嘴の黄色ことを冷やかしたのでなくて、どうやら本当のこと言っていたらしい。その時、商大は経済の専門の大学のくせにと思った。またその時だったか、彼はある先生のもとで原稿を書き、原稿料で屋根を直したといった。その原稿は、経済学には縁のなさそうなものだった。しかし、原稿料で屋根を直せるとは羨ましいと思った。彼はその頃は繭市場脇から、千本松原の方に引っ越していた。

 実のところ、これらの出来事のすべてが太平洋戦争以前のものか、戦後も入り交じっているか判然としない。彼が、何処か治療を受けるため沼津から静岡まで通院し、1、2度私を訪ねてきて、安倍川付近など歩いた記憶もそうである。終戦直後とすれば我が家は戦災に遭い、私は復員して叔母の家にいたときである。戦後彼は沼津の軍需工場の労働組合委員長になり、洋書を首っ引きで議事を進めたなど、この時の話か。

 私は昭和21年春、職を得て富士山麓の農林省開拓事業所にいた。私は結婚しているから22年か23年、彼を開拓事業のある上井出村(現富士宮市)に招いだ。その時何をしたかは忘れてしまったが、彼は私の机の上にあったテネシーバレー開発の訳本を見て、この「TVA」のAは何の略字だろうといった。私は思い付きで Association と答えておいたが、後で調べたら Authority であった。また、彼が帰ったときの礼状に、「貴兄の家の hospitality 〔歓待〕」と書いてあるのを、病院臭い言葉だなあと思った。

 私は、その後東京に出たが、沼津近辺の地元の有志が行う中学同期の同窓会に2、3度出席したことがある。しかし何時の場合も地元にいる筈の杉本氏の顔が見えない。彼は静岡大学の先生になったが、沼津千本浜の自宅から通っている。そこで私は地元の連中に訊ねる。

 「一平はどうしたのか?」 

 「一平は変な奴で、こういう席にでたことがないのだ」

 

 われわれの同窓会は、沼津近辺の宿で行う宴会である。宴会がはねると近くのものは家に帰るが、東京近辺のものは1泊することになる。
未だ若い頃の話である。中村氏は清水市に開業医として中村病院を開いていた。その中村氏がタクシーで清水まで帰ると言う。会場は何処であったか忘れてしまったが、清水は地元とは云えない遠距離で、かつ東京方面とは逆方向である。それを私は中村はどんな暮らしか確かめてやろうと、中学卒業以来の久しぶりにあった懐かしさと酒の勢いもあって、中村氏と同行して彼の家、すなわち中村病院に泊めて貰うことにした。

 途中、「一平」の処によっていかなければならぬ、と言うわけで、夜半、千本浜の杉本宅の門を叩いた。私は西富士開拓時代事業所の職員のリクリエーションで沼津千本浜に来たとき、杉本氏の住居を確かめたことがある。杉本氏は戸外に出てきた。われわれは何を喋り合ったか、おそらく「いっぺー」の同窓会にでないことを詰ったのだろう。 それから、また清水までタクシーを走らせた。東名高速道路がなかった時代である。

 夜のことで、病院自体は見られないが、家族の居住区より押して、りっぱなものである。奥さんは深夜の客に驚いたろう。中村氏は、奥さんを貰い、医者になって、清水で開業するまでの苦労話を聞かせてくれた。

 戦時中は、軍医が不足したため、地方の医科大学は高等学校の文科出身者まて採用した。 中村氏はその口で、1年浪人して東北地方の高校の文科に入り、どこかの医科大学に入り、文科出身のため苦労したと、私は平成10年の今日まで、思い込んでいた。
去年、横山氏がその誤りを指摘してくれた。香陵同窓会名簿には、チャンと北大出身書いてある。ここでは杉本氏の話であるので、ここらで止めて、杉本氏に戻す。

 

 この時以降、私は杉本氏と会っていない。
 彼はイギリスに留学した。
 学士院賞を貰った。

 イギリスに留学したと云うことは、誰に聞いたか記憶にないが、戦後日本はアメリカなどの後押しもあって、若い研究者が海外に行かれるようになった、昭和30年代の後半から40年に掛けてのことだろう。学士院賞はテレビか新聞に出たのを見た。

 彼の著書は、私が町の書店で偶然目にしたものに、岩波新書『理性と革命の時代に生きて:J.プリースト伝』と岩波文庫『イギリスにおける労働者階級の状態』エンゲルス(訳)がある。前者(1974年刊行)の著者紹介によると、専攻ー近代社会経済思想史、現在ー静岡大学教授、著書ー『イギリス信用思想史研究』他、それまでにも幾つか著書がある。

 断って置くが、私は杉本一平の名があったので買ったので、本の題名に惹かれて買ったわけではない。実際この原稿を書くまでブリーストの名さえ知らなかった。

 かくて、しだいに杉本氏のことは日常の意識からは外れていった。

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