2 手紙
(平成8年:1996)
平成8年9月13日、横山、A、S各氏が、私を見舞ってくれた。
この前年の正月、私は脳梗塞で倒れた。9月沼津で、沼津中学同期生の同窓会が開かれたが、その案内状の返事にその旨を書いたので、同窓会に出席した前記の各氏が知って拙宅に来てくれたのだ。一別以来と言うが、各氏と会うのは、数年となるか、10数年となるか。
この時以来、各氏、地元沼津の幹事 I 氏等との交流が始まった。
しかし、この段階では杉本一平氏に関する情報は、私の耳には何も入ってこない。
(平成9年:1997)
ところが平成9年になると状況が変ってきた。
旧制沼津中学、新制沼津高校全体の同窓会の分会、東京香陵同窓会が6月に開かれ、これにS、横山氏等のほかに杉本氏も出席したのだ。S氏は東京香陵同窓会の幹事である。東京香陵同窓会というのには私は出たこともなかったが、杉本氏も始めてでたらしい。
(S氏から筆者あて 97、6、30)
杉本氏は沼津にいるものばかりと思っていたのに、東京にいて、同窓会にでている。話は私を慰問に訪れてくれた横山氏からも聞かされた。
「君(杉本)はどうして沼津へ帰らないのかと聞いたら、東京の図書館に資料があるからと云っていた。彼は岩波で「国富論」の翻訳を頼まれたのだ。前の版は大内兵衛だーーー
一平は、奥さんは亡くなり、息子達は独立してしまい、マンションの1人暮らし。『スーパーのカップラーメンばかりでは、栄養がもたんゾ』と言ってやった」
(横山氏の予言は不幸にして2年後に当たってしまった)
私の所に、たまたま送られてきた香陵同窓会名簿に、杉本氏の東京の住所が載っている。『記憶のなかの沼津』を手紙を付けて送った。
(筆者から杉本一平氏宛 97、9、10)
「冠省 突然の便りで驚かせて恐縮、ご免下され度。貴兄のお元気のこと横山裕太兄から伺い、また、たまたま送られてきた香陵同窓会名簿により、貴兄の住所を知り、旧懐おさえ難く、と言って何から始めたらいいか(当方、脳梗塞の後遺症で言語、歩行、脳の具合ままならず)、とりあえず愚作『記憶のなかの沼津』をお送りします。 (後略)
9月10日 さくらいじゅうへい
杉本一平様
(杉本氏から筆者あての返事 97、9、16)
1別以来のあらたまった文章だが、長い年月、それもやむをえまい。
私は老人の日を挟んで、息子の運転する車で伊豆・沼津・箱根の家族旅行に出かけた。沼津に立ち寄ったのは、『記憶の中の沼津』終わりの章にある、我入道を見ておきたかったからである。我入道芹沢文学館見学記と手元にあった『自由半平リハビリ作文集』を杉本氏に送る。
(筆者から杉本氏あて 97、9、23)
(『芹沢光治良の宗教』 「N兄への手紙」 と同文。つぎに付け足し部分のみ掲げる)
9月23日 さくらいじゆうへい
杉本一平大兄 」
(杉本氏から筆者への返事 97、9、25)
1997年9月25日 杉本一平
さくらいじゅうへい様 」
杉本氏の軍歴が書いてあるので、『わがトラック島戦記』と『海軍私論』をおくる。このへん少々押しつけがましい。
(杉本氏の返事 97、11、13)
老人の日の収穫物(芹沢文学館で買った図書)と、図書館で新たに借りた芹沢の本で、『芹沢光治良の宗教』を書く。芹沢の90歳代で書いたものの中に、山本三平なる人物が登場する。最晩年作品の主役の1人である。これが間違いなく彼のことである。 その旨を含んで杉本氏に『芹沢光治良の宗教』を送る。
(筆者から杉本氏あて 97、12、10)
前便以降、興にまかせ、芹沢氏の神のシリーズ等、読んでいたところ、とうとう12月になってしまい、あげくの果ての作文です。 あの頃の1高生には、特異な人もいたようですね。日本の運命に影響及ぼした人も、及ぼさなかった人も。 あの時期の人物像に、時代のスポットを当てるべき時が来たよう見えます、とかいう、ーーーー堅苦しいこ、と云わず、一平君の、彼についてのご意見を、暇なときにでも、是非うかがいたものですね。
(杉本氏から筆者への返事 97、12、13)
どうぞお元気でよき年をお迎えください。
12月13日 杉本一平
さくらいじゅうへい様 」