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3 宗教的作品と「神のシリーズ」
(作品)
・『教祖様』(天理教教祖中山みき伝) 天理時報社、天理時報に昭和24年より32年にかけて連載。 角川書店版 昭和34年暮れ出版、1年半に絶版。 善本社版 昭和53年初版、平成7年10版。
・『人間の運命』、昭和37年から43年までの書き下し。主人公森次郎(芹沢自身の分身)をめぐっての明治末から大正・昭和前期を通した全3部・14巻に及ぶ大河小説。背景は同時代の出来事であるが、いわば彼自身を描いてみた、理想像的自伝である。
ここでは、彼の置かれた周辺環境から、天理教関係にしぼって置く。
・90歳以降、96歳で亡くなるまでの、以下の所謂「神のシリーズ」を、毎年1冊を書き下ろす。
『神の微笑』 (昭和61年)
『神の慈愛』 (昭和62年)
『神の計画』 (昭63年)
『人間の幸福』 (平成元年)
『人間の意志』 (平成2年)
『人間の生命』 (平成3年)
『大自然の夢』 (平成4年)
『天の調べ』 (平成5年)
(「神のシリーズ」における信仰意識)
この「神のシリーズ」は、芹沢の最終段階の宗教意識を示すのもであるとともに、少年時代から晩年までの変遷を述べている。ただし、毎年1冊ずつ200数10頁、10数章、年代別になっていないのみか、『神の微笑』等の題名は、必ずしも内容を現してはいない。 各冊、各章、芹沢の思いつくまま、随筆調、私小説風、芹沢の1人称で、書斎から、庭から書き始める。そして、ある特定人物を登場させ、物語風に話しをさているが、おおくの場合、芹沢の読者であり、崇拝者でという設定である。時には少年時代、フランス留学時代、戦中戦後の出来事の回想がある。
そして、話しの筋にとらわれず、「在命の親さん」、つまり天理教の教祖(中山みき)の乗り移った霊媒、伊藤という青年が現れ、芹沢にお話を聞かせる。場合によって「唯一の神」が現れる。あるいは、ジャックが「実相の世界」からやってきて、語りあう。あるいは「天の将軍」であったあり、釈迦、キリストであったりする。
・ジャック フランス時代の療養所の友(物理学者)、第2次大戦戦乱のために芹沢は連絡取れずに終わる(故人)。
・「実相の世界」 死者の世界、神の世界ともいう。
・「天の将軍」 神の補助者、10人ぐらいいる。釈迦・キリスト・中山みきも同格。
霊媒伊藤青年が、芹沢宅を訪れ、何かする場面は、各冊に繰り返し述べられている。これは、この「神のシリーズ」が、始まる宣言であり、芹沢の宗教意識が転換したシグナルである。
ここで、年代別に、彼の宗教意識を追ってみよう。
年代別といっても、出所は、少年期(『人間の運命』)以外は、全部『神のシリーズ』であり、芹沢の都合つけた回想である。
(少年期)
芹沢は、明治29年(1896)、我入道(現在沼津市)の網元の子として生まれた。しかし天理教にこって、全財産を教団に寄進して帰依した父のため、1家は離散、彼は叔父である貧しい漁師の家に、祖父母と共にあずけられて、幼少年期を過ごした。
家は天理教の教宣所であったが、いろんな人から天理教の束縛から解放されることをすすめられ、自分でも父が財産を放棄したため家族が貧困に苦しんできたという、かねがね天理教団の矛盾を感じ取り、入信を拒んできたが、いまや天理教の偶像や神を自らこわしたと信じるようになった。 (この部分『人間の運命』より要約)
この時期以降、先生(芹沢)は「信者というより、天理教批判者、否定論者」であった。 (『人間の幸福』第6章「須田ふみ」と「中村英子」の会話の中)
(青年期 フランス留学時代)
大正14年、農商務省を休職、フランス、ソルボンヌ大学、シミアン教授の授業にでて、貨幣論を学ぶ。留学中肺結核にかかり、高原療養都市オートヴィルの療養施設(大学生は、ホテル・レジナに収容)に、1927年(昭和2年)から3年にかけての冬の7ヵ月間、療養生活を送った。
その際、境遇と病状が似たような1組として、芹沢は、モーリス・ルッシ(経営学)、ジャン・ブルーデル(歴史学)、ジャック・シャルマン(理論物理学・天文学)の組にはいった。3人はカトリック教徒であった。4人は神の問題とか、抽象的な問題について話すことがしばしばあった。
その場合、そのジャックは、抽象的で、何か神秘的な 「例えば、刻々無限に拡大する大宇宙のこと、天体の運用のこと、遠からず人間も月に行けることーーーー物質が目に見えない原子から成るというような微細なことを話題にして、他の3人を困却させた。
そして、大宇宙から原子にいたるまで、すべての存在が一糸乱れぬ法則によって動き、秩序を乱さないことを想うと、その奥に存在する神を認めざるを得ないが、その神がキリスト教徒のいう父なる神であるか、どうか、これからの、彼の課題だと、いうのだった。」 (芹沢『こころの波』6章、昭和57年)
「ジャック」の考え方は、後に触れる、18世紀のヨーロッパに現れた自然神教の考え方であろう
ジャックは、また芹沢に、神が芹沢の使命としているのは、経済学でなくて、物言わぬ神の意志に言葉を与える、文学である、と熱心に忠告した。(『人間の幸福』) 『こころの旅』(昭49)では、忠告したのはケッセルとしている。
芹沢は、しかしこの段階では神の存在を信じなかった。このことは、『人間の幸福』の第6章にある、芹沢と「中村英子」「須田ふみ」と言う人物との会話に現れている。
「(中村英子が訪ねてきた時の会話)
ーーーー先生、『神の微笑』に登場した、天才ジャックというのは、フィクションですか、実在の人物ですか。
ーーーー実在の人物ですよ。
・・・・・・・・・・・・・・
ーーーーあの天才達との生活は、昭和2、3年のことですね。先生が処女作(ブルジョア)を発表なさったのが、昭和5年の春で、それから半世紀の間、無数の作品を発表なさっていますのに、あの大切な天才が、1度も作品に登場しません・・・・・・・・・・・先生の代表作であり、自伝だと言われる『人間の運命』にも、あの天才ジャックさんは現れません、何かわけがおありですか。
ーーーーうっかり書かなかった」
「処女作を発表してから、20年ばかりの間に、正直にジャックのことを書いたら、読者は、狂人だと考えて、作品が正当に評価されなかったでしょう。・・・・ところが、50年もたって、時代が進歩したおかげで、『神の微笑』を読んだ者は、誰も狂人とは思わなかったからね。」(前同)
アメリカの宇宙衛星が、月に行ったことを指すが、こういう芹沢の説明は、的をそらしたもので、実際は、『神の微笑』に「実相の世界」の住人としてのジャックを、登場させたかったのであろう。
「ーーーー先生が作家の道を選んだのは、あの天才の忠告に従ったと、承知していますが、あの天才の信じた、宇宙を動かしている唯一の力、神を、先生も信じたからではありませんか。
ーーーー彼の熱心に語る宇宙の唯一の力については、言葉はわかったようでも、実体はつかめなかったので、信じたとはいえませんね。・・・・・・・・・・
(作家になる決心をしたのは)神を信じたというより、人生における唯一回の賭をするつもりでした。」
「ーーーーあの年、復活祭に、4人そろって、オーヴィルの高原を降りることができましてが、その時、ジャックさんは、偉大なる神について、何かもうしませんでしたか。・・・・・・
偉大な神を信じたからではありませんか。
ーーーー3人の友はそうでしたが、僕は神を確認できませんでした。そんなわけで、パリにもどる、文学をする決心がぐらついて、半年ばかりスイスの療養所で療養してから、日本へ帰った始末です。」 (『人間の幸福』第6章)
日本に着くと、
「総合雑誌が懸賞募集していて、誰の世話にもならず、作家生活ができるように」なり、作家として「大自然のことも、神のことも、考えないですむ呑気な生き方ができた。」
この時期の芹沢の関心は、宗教以外のところにあった。
(戦後) 昭和20年(49歳)〜60年(87歳)、
「尤も、太平洋戦争の末期、物心ともに窮した挙げ句、しばしばあの3人の同志を思い出しては、偉大な神について考えたものだ・・・・そんなわけで、敗戦直後、天理時報社から、教祖伝の連載を頼まれて・・・・・・あの偉大な神が、ほんとうに中山みきに降りたか、確認しようと決心して、引受けて、10年かかって、ようやく書きあげた・・・・・・
ーーーーそれで、先生、確認できましたか。
ーーーーそれは読者が判断すべきことだが・・・・・当時の読者は確認したようですよ。」 (『人間の幸福』第3章)
この時期、芹沢は、文士活動最盛期を迎える。
昭和26年、世界ペンクラブ大会出席。 昭和34年、同。
昭和40年、『人間の運命』芸術選奨文部大臣賞受賞。ペンクラブ会長就任。
昭和45年、芹沢文学館開館、日本芸術院会員。
昭和47年、日本文化研究交際会議開催、議長を務める。
昭和55年、沼津市名誉市民。
文芸作品も当然多いが、宗教関係のものは『教祖様』、自伝的関連で『人間の運命』ほか、見当たりそうもない。
『教祖様』は、父その他の、天理教関係者がいたから、書いたものであって、少なくとも、表面的には、神のシリーズを書くまでは、それの存在を忘れていたふうだ。
『人間の運命』には、天理教は、自伝的関連から密接だが、突き放したように書いている。
(昭和49年の作品集『川端康成氏の死について』では、川端康成の魂が赤坂界隈をさまよった話しを書いている。もちろん、話としてであるが、最晩年の神様シリーズに結びつくものがある。)
『教祖様』『人間の運命』の段階では、(信)より、まだ理性の方が、勝っていた。
(晩年 昭和61年、90歳以降)
神のシリーズで、『神の微笑』をはじめとして、毎回各書に現れてくる神様、いわゆる「神様シリーズ」を、彼に書かせたという出来事。これを、比較的まとめて、記述している『大自然の夢』から、見ていこう。
「1984年のことでした。久しく会う機会がなかった小平教授が、とんでもない話しを、持ち込みました。
注 『神の慈愛』では、1985年になっている。
天理教の教祖、中山みきが、間もなく死後百年祭を迎えて、存命の親さんとして、世界を助けをじめるが、その前に、私に会って私の書いた『教祖様』について、(「存命の親さん」が)話したいが、会ってくれるか、いうことでした。
・・・・ 翌日、約束の時間に、教授は当人を連れて来ました。
・・・・小林教授と、変な青年とを、亡妻の部屋に案内した」
教授が連れてきたのは、20歳前後の伊藤幸長という青年で
「・・・・青年は絵画の方に向かって、柏手を2つ打って、向きをかわり、合掌していたが、見る見るうちに青年の顔が変わって、目はくぼみ、口は大きく曲がって、老婆を思わせたが、とたんに、「光治良さんや」と呼びかけて、戦争が終わった翌年の正月から、私が教祖伝を書くつもりで、中山みきの生まれた三昧田の生家を訪ねた日のことを、話し出しました。
・・・・・・・・・『あんた、あの時、駄菓子屋のおばはんに、話しを聞いて、よかったな。
・・・・・・話しはみんな、本当やったで・・・・』
・・・・・御苦労さんという、親さんの声がして・・・・あの幸長青年がが合掌すると、老婆に似た青年の顔の表情は、すぐもとの青年の顔にもどって、座布団をおり、私達に向かって、礼をしました。」
「3日目の午後、あの幸長青年が、独り訪ねてきました。
・・・・・・この時も、青年は、存命の親さんになって、20分ぐらい、お話をしました。私には、前に発表した『教祖様』について、細かな事実を、お褒め下さり、S夫人には、親さんが私の家に来たとき、お召しになるために、赤の着物、女帯、赤の足袋等を、作って欲しい、というお話でした。」
(『大自然の夢』第2章)
赤い着物、赤い足袋等は、生前の教祖中山みきのコスチュームである。S夫人により仕立てられた着物等は、芹沢の家に備えられ、以降、伊藤幸長青年は芹沢の家に来るたびこれに着替えて、「存命の親さん」になる。ここで、1984年(昭59)秋以前の状況に触れておこう。
「家内が舌ガンにかかった頃、(昭57、妻金江死去)私は現在のような信仰がなかったので、医術を信頼したが、家内は、私の若い友人で、比較宗教学者の、小平教授に、お話を聞きたいと、お頼みしました。 迂闊なことに、小平教授が、天理教の教会長であることを、私は知りませんでした」 (引用者注 地域の教会長)
伊藤青年が現れて、「存命の神さん」を演じることのなかった以前には、芹沢には、信仰はなかった。同じことで、つぎの引用文では、神の存在が実証できなかったと、いっている。芹沢にとっては、唯一大自然の神の有無の問題であるが、何らかの啓示が必要であった。
「(しかし、神や神の存在は、僕自身が実証できないことであるから、 存在しないものとして暮らしつづけた。 それが、1年半ばかり前に、不思議なことに、百年も前に亡くなられた天理教の中山みき教祖にお会いして、)それ以来、存命の親様は、週に1度くらいわが家を訪ねられて、いろいろお話して下さるが、時には、偉大な親神まで僕の前に現れるので、神や神の世界の存在を疑うどころか、僕の日常生活は、「現象の世界」に「実相の世界」が交錯している」 (『神の計画』第4章)
「親神は、親様がわが家に来られるようになってから、数回同じ部屋に現れたが、その場合は、親様がいつもの席につかれてから、今親神さんが現れるでと、まず僕に伝えた。三分くらいすると、わが家にみしみしと響きがしてから、親様の優しい表情が変わり、壮年の厳しい男性の顔になって話し出したのだ。音声には威厳があって、声量の豊かで、話す言葉また、漢文口調でセンテンスが短く・・・・」 (『神の計画』第6章)
警世的なものもある。
「1992年2月7日は、私にとって、忘れられない日になった。一高生の頃から、親友だったナカタニが、死去してから、はじめて、実相の世界で会って、たのしく話し合っていると、わが家に、親様ー天理教の教祖・中山みき様が、お出でだと、ジャックが知らせてくれた。いそいで、わが家に、もどったところ、神の部屋で、親様はすでに赤衣をお召しになっていた。・・・・・
ーーーーーー親神さんの、大きな夢のなかに、我々の世界がある。まさに、親神さんの懐のなかに、生かされている。人間の一生も、また、大きな夢。国家も、大きな夢・・・
ーーーーーーまさに、この世は借りものや。人間の権力などすべて。大きな顔をして、自分は総理大臣やとか、大統領やとか、いうてる者も、1時の夢を、見ているようなもの。神さんに、起こされたら、1人の人間であることに、気づきます・・・・・ (『天の調べ』第7章)
神のシリーズでは、現存の著名人が、実名で登場するのは少ないが、少ない例をつぎにしめす。
「(1988年の)暮れ30日、300枚のハガキを書き終ったが、何10人もの出すべき宛名が残ってしまった。・・・・・・・・その人々には今年も失礼させてもらうことにきめて、ほっとした。ところが、その時、突然天の将軍が、僕に命じた。
ーーーー大江健三郎氏に、『神の計画』7刷を、至急贈呈せよ。
ーーーー2年前、『神の微笑』を出したとき、いつもの通り、贈るだったが、やめました。大江君に神の書を強制的に読ませては申し訳ないと思って、ね。・・・・・・
ーーーー署名して、すぐ郵送するのだ。
ーーーー大江君が、何か信仰でも、すすめているように誤解しては、申し訳ないし・・・・
ーーー何をためらっているのだ。はやくせんか。
そう、天の将軍に叱られて、僕は扉に、大江健三郎様恵存
年明けて 九十三の 馬齢なり 芹沢光治良
と署名した・・・・
(大江君からの返事)
1989年の年頭のお祝いを申しあげます。『神の計画』第7刷をありがとうございました。
・・・・・・この連作は、発表なされるごとに拝読しております。私もこの10年ほど、ブレイクとダンテを手がかりに、神秘主義の領域にすこしずつ眼をむけてきました。すこしづつといいますのは、この現実世界からの、地つづきのリアリズムを保って、そして超越的なものに向かって、ゆきたいからです。
先生のお仕事は、現実とそこを越えたものとの、自由な行き来があり、そこにもっともひきつけられます・・・・・・ 」 (『人間の幸福』第12章)