芹沢光治良の宗教
1 N兄への手紙
拝啓.暫くご無沙汰いたしました。お変わりございませんか、お伺いします。
当方、老人の日の連休に息子の車で伊豆箱根の家族旅行出かけ、あいだに挟んで沼津は我入道の芹沢文学館を訪れました。我入道は『記憶のなかの沼津』に書いたとおり、沼津市内でおとずれとたことのない、我が秘境であり、私にとっては、こんどの旅行の目的の1つでもありました。
中学1年の夏、学校の課業として行われた水泳練習のために通い慣れた筈の、桃郷海岸へ行く道を、西に入って行くと、右手松林のなかに、コンクリートの巨大な柱2本を押っ立てたような建物がある。これが私のさがした『沼津の作家』の芹沢文学館(注)であった。
前は公園風になっていて、子供を遊ばせている人々が見えて、息子夫婦も孫と残る。観客はわが夫婦以外に誰もいない。コンクリートの柱に挟まれた入口より中にはいる。
なかなか係りの人がでてこない。 注、昭和45年(1970)開館。創立者、駿河銀行会長岡野喜一郎(昭和9年沼中卒)
ラセン階段を昇って2階の展示場へ行く。私の足取りがおぼつかないと思ってか、案内についてきた若い女性に、
「貴女は我入道の人ですか」 と訊ねる。ふと、芹沢が長い間、村八分であった我入道での評判は、と思ったからである。
「いいえ原から通っています」 とこたえがかえってきた。原は、沼津中心部から西に4キロ、我入道は、東に3キロの地点にある。原からは、車で30分かかるという。
2階には写真とか原稿とかが陳列してある。ちょうど『人間の運命』の原稿に、主人公森次郎(芹沢光治良の分身)の中学時代からの親友で、のちに外交官になる〈石田孝一〉という名前が書いてあるのが見えた。
そこで彼女に、石田家は原のどの辺にあるのかを聞いたら、『人間の運命』のなかの「松柏苑(皇太子注等が訪れた名園)」は、原駅の西何百メートルにある豪家、植松与右衛門氏の庭園の「帯笑園」のことで、芹沢氏は沼津小学校代用教員時代、植松重雄氏(大正8年沼中卒)の家庭教師を勤めた。
また芹沢氏の1年上の市川彦太郎氏(大正3年沼中卒)は、外交官となったが、これらを結びつけて〈石田孝一〉になったと、なかなかくわしい。 注 皇太子:昭和天皇をさす
帰りに文学館で、『芹沢光治良と沼津』『新潮日本文学アルバム芹沢光治良』『教祖様』 を求める。
「ーーー芹沢光治良には、「国民的作家」といったところはなかった。芹沢光治良は、日本中にひろく名を知られたというよりは、熱心な愛読者を持っていて、その人のあいだで1種読者共同体の焦点のような位置を占めていたといえるだろう。ーーー焦点立作家の孤高を進んで認め、むしろそれを愛し、誇りとすることのできるような共同体であった。ーーー」
(『新潮社日本文学アルバム』所収、「至福としての仕事」高橋英夫)
芹沢文学館の記帳した署名簿を見たら、ウイークデーは1日1人、昨日の土曜日は5、6名であった。(その共同体の仲間ではないけれど)私も記帳した。 (芹沢光治良 平成5年1990年死去)
我入道海岸へでて、文学碑を見る。海岸堤が邪魔して、堤防に登らない限り、海は見えない。部落は何処にでもみられる町並みのようなので省略、「港大橋」を渡って千本浜に出る。昼食。 ここには、井上靖の文学館があったが、先を急いで省略、文学碑だけ見る。ここも海岸堤のため海が見えない」