馬力

 

 昭和初年、いや戦前まで、地方ではトラックより馬力(ばりき)、すなわち荷馬車が短距離陸上輸送手段であり、長距離は鉄道の独壇場であった。しかし馬力についてどういう組織で運営されたのか考えてもみなかった。

 我が家をもとに考えてみよう。我が家の商売は、セメント石灰など比較的重量物を扱うものであった。駅から我が家の倉庫まで運び入れる場合には、馬力のご厄介になる。我が家の特約の馬力は香貫の良さんという、これも今想像するのだが、兼業農家であった。良さんの家は狩野川を黒瀬橋で渡った上香貫にあった。良さんは場合によっては仲間を連れて来て、貨車からの積み卸し、倉庫までの運搬、倉庫へ積み込みまでやってくれる。石灰などで真っ白になりながら、1袋1袋肩にして渡り板を渡っていくさまが今でも目に浮かぶ。

 厩は町中では目に付かぬ。専門の運送業者も、良さんのような兼業農家によって支えられたのだろう。

 こどもの日々、仲間とカラの馬力の後ろにへばりつき、馬主にコラツと追い払われたのが懐かしい。

 

 ある時、父は私に沼津と静岡との馬力の構造の違いを話してくれた。こんな意味であったと思う。

 沼津の馬力の構造は、大きな2輪の台車で、台車の梶棒を鞍に直接結びつけているのに対し、静岡の馬力は2輪の他、小さな補助2輪を台車の前部につけている。補助2輪はトレーラーのような仕組みで左右に動く。その補助輪から梶棒が出ていて鞍に結びつけられる。

 静岡の馬力は積載量は大きいが平坦専用であるのに対し、沼津の馬力は積載量を犠牲にするのは坂道が多いためだと。

 確かに沼津の馬力の2輪にたいし、静岡は4輪であった。

 沼津の坂は、全部「沼津台地」に起因するものである。坂の多い東京は2輪車だったろうか。

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