昭和恐慌

 

 {昭和恐慌}1929年(昭和4年)末以後の世界恐慌の1環としての日本の恐慌。深刻な不景気、生活難、社会的緊張の増大をもたらした。32年以降景気回復に向かったが、農村疲弊はその後も継続。(広辞苑)

 

(工場閉鎖解雇のため・・・・)「旅費がなくて街道筋をとぼとぼ郷里に向かう人が多く、藤沢の遊光寺では、かゆの接待所を設けたが、その繁昌に悲鳴をあげたと新聞は報じた(「東京朝日新聞1930・9・13)」 (『昭和史』遠山茂樹ほか・岩波新書

 これは箱根山の東、藤沢で起きたことであるが、箱根山の西、わが家の前の通りでも起きたことである。おそらく新聞に報ぜられたものそのものであっただろう。徒歩でとぼとぼと、さんさんごご、西の方からきて、東のほう箱根に向っていく。どこから来てどこまで行くのかわからない失職者の群が、数日間もつづいた。通りの家々では、朝飯の残りを、お櫃(ひつ)ごと彼等に振る舞った。

 「旅費無しの首切り」、大争議の末の破綻か。手持ちの昭和通史によっては、該当する確かなものは見つからなかったが、事件は(関西方面?)で起きて、失業者たちは東方箱根に向かおうとしていたことだけは確かだ。女工を主体とするストライキが多かったといわれたが、ここでは女性の姿は見かけなかった。

 

 ちょうどその頃、我が家に住み込みの番頭が何かの理由でいなくなり、求人中であった。

 父は、通りがかった失職者の1人に家の中で飯を喰わせ、いろいろ事情をきいたらしい。彼が弁舌巧みであったためか、父のものずきからか、とうとう見ず知らずの男を番頭におくことにした。番頭といっても父の助手として帳面付けやら、リヤカーをつけた自転車にのって得意先まで石灰セメントの配達をしなければならない。しかし、これを実にこまめにこなした。陽気で弁も立った。何処かで小学校の教員をしたことがあるといった。歌も唄えて母も気に入っていた。

 ところが彼はその年の暮れ掛け取りに出たまま逐電してしまった。集金の持ち逃げである。

****

 年次は確かではないが、不景気に伴ったつぎの事件をここに掲げておこう。

 わが町内には魚屋が多かった。そのためか、魚屋の入れ替わりも多かった。ある時、へび屋の隣の魚屋が『夜逃げ』をした。私は夜逃げという言葉を聞いたのは始めてであった。その魚屋に行ってみたら、表が開いていて中はがらんどうであった。夫婦で家財道具1切をリヤカーに括り付け、夜の道をひそかに行くさまを想像して、『夜逃げ』とはそういうものかと思った。

 

先へ進む

目次へ戻る