機動演習・出征

 

 三島に野戦重砲兵の旅団があった。野戦重砲とは、戦場で移動できる大砲で最も大きいもの、たぶん口径12センチぐらいで、移動するときには砲身と他の部分を前後に切り離し、それぞれを、兵隊の乗った馬6頭(?)引きでする。ほかに弾薬も運搬しなければならない。

 この演習が蓮光寺下の空き地で行われた。これを子供みんなで見物していたが、私は興奮してしまい、馬が食べる真似をして、あたりの草を飲み込んだ。ところが、それがイガのある草であったためノドに引っかかって取れない。とうとう泣きながら家に帰り、父に医者につれていってもらた。小学校に入る前のことである。

 蓮光寺下の演習は翌年も行われた。

 

 ある年(昭和4、5年か)天皇御親閲の大演習が何処か近くであった。たぶん今の東富士演習場あたりを中心に行われたものであろう。

 わが家に小便の便器の注文があった。ーーわが家には、商品として洋式の洗面台とか便器が置いてあった。ーーーそれを天皇の演習地仮設便所にするという。

 私は、便器のあとの始末はどうすのだろうと心配になった。

 

 満州事変が起こると、演習の話しは聞かなくなった。

注、昭6、9、18 柳条溝の満鉄線路爆破事件をきっかけに関東軍、軍事行動をおこす(満州事変勃発)。

昭7、9、15 満州国を承認。

 

 昭和7年、三島重野砲旅団が出征することになった。三島(下土狩駅)は小駅で、貨車の積み卸しができないため沼津駅を使う。わが家の前の通りを重野砲の行列が通る。前に述べた野戦重砲移動の説明はこのとき見たものだ。兵隊は、歩兵のようなゴボウ剣ではなく、馬に乗って、サーベルを提げて勇ましい。われわれは、万歳万歳と声を枯らす。小学6年の時である。

 昭和6、7年には、沼津駅を通過する出征部隊を、頻繁に小学生、婦人団体で見送った。学校から連れ立って行ったわけではないが、部隊の通過をどういう経路で知らされたか覚えていない。沼津駅で長時間止まっていたものだから、婦人団体は湯茶のサービスをしたのだろう。われわれ小学生は、日の丸の旗を振ったり、列車が止まっている時間が長ければ自分の名前と住所を書いたカードを誰彼となく兵隊さんに渡したものだ。戦地から手紙をもらおうと云うわけである。しかし、名前と住所だけのカードでは成功はおぼつかない。私のところには戦地からの手紙は1通もこなかった。

 

 中学に入ってからは駅で出征部隊を見送ることはなかった。

(しかし、昭和12年7月7日(私は中学5年生)、北京郊外蘆溝橋夜間演習中の日本軍と中国軍と衝突、これが結局日中全面戦争のもととなった。

     私らは、まだまだ対岸の火事を見るような気持ちでいたが・・・。)

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