福ちゃんと私 

                

 私が小学1年生に入学した頃は、沼津には並んで、男子校と女子校があり、私は男子校の仁組というのに入った。クラスは仁・義・礼・智・信という5クラスで、生年月日順に配分されたから、当時の8歳(数え)の4月生まれ(現在満7歳1月)を筆頭に、数えの7歳の3月末まであった。それで4月から12月までの(数え)8歳児を遅生(おそう)まれ、1月から3月までの7歳児を早生まれ(はやうまれ)といった。

 クラス内の席順も生年月日順であった。従って5月5日生まれの私は仁組の中程で、机が2人用であったため、5月6日生まれの子と並んだ。それが福ちゃんであった。

 しかし、私は福ちゃんのみならず、1年生頃の誰彼についての記憶はない。ただ1度、授業中のことであるが、彼の足もとに水のこぼれているのを見たことがある。不審に思って聞いたが、彼が何と答えたか覚えていない。ただ、水があるのが奇妙だと思った。ずっと高学年になってから、小便を洩らしていたことを白状した。

 私が農林省に勤めた時分のことである。その日は何かあって、通勤時刻より遅い出勤であった。乗客のほとんどが座っているような空いた電車のなかで、連れから離れてひとりドアの出入り口に立っている小学1年位の少女がいた。東京の親戚へでも行くらしい、いかにも着飾った田舎風の服である。急行電車は下北沢をでて新宿に向かう途中、よく見ると少女の足下に水がこぼれていて、電車の揺れるごとに、その水が車内を走り回ってとうとう座席のある方までたっした。乗客は水の出所を知るか知らぬかだまっている。そのとき福ちゃんの1年生の時のことを思いだした。洩らした小便は水の如く澄んでいることを。

 

 沼津の小学校では7月1杯、3年生以上は林間学校と称して、千本浜の狩野川寄りの松林に行く慣わしであった。林間学校と云っても養護クラス建物のほかは、屋根も囲いもない、松林の砂山の中に杭を打ち込み、何列かの机とベンチを並べ、1方の端に黒板を立てかけたものが教室である。これがおもいおもの方向にあちこちにある。

 本来の学校から、ここに毎日通うのだが、朝から通う組と、昼の弁当を食べてから水泳にのみ通う組と交互になる。朝からの組になったとき先生はよく相撲をやらせたものである。先生は学年毎に替わり、1、2年生は女の先生であったが、3年生からは男の先生であった。

 その頃、Nという子が容姿よく、力もあり、その上、気性が厳しく、彼の地区のガキ大将であった。私は相撲が弱いほうではなかったが、Nに掛かるとどうしても負けるのだった。そこで先生はある時Nを師範格にして、他のものを1人ひとり掛からせたことがある。Nは例の如く、23人なげ飛ばしたが、福ちゃんの番に来ると体の大きい福ちゃんに組みつかれて、Nはみごと投げ飛ばされた。そして、福ちゃんの相撲における地位は定まった。

 私の1年生の頃の友人についての記憶は福ちゃんに限らず乏く、隣席の福ちゃんが体の大きかったかどうかは記憶にない。その後成長したのかもしれないが、とにかく3年生時は背はクラス1であった。しかし、おっとりした性格で、動作もゆっくりして、どちらかといえば大人びた態度で級友に接していた。

 

               

 

 彼の家は狩野川沿いにある米屋で、父親は亡くなり、兄さんが商売をしていた。電車道路から入ったところだが、昔の東海道は、彼らの家の前を通り、町の中心部に至ったという。彼の家の裏は狩野川である。彼の家の隣には、ちょとした空間があり、水神さんを祭った祠があった。そこからは通りからも狩野川が見えた。

 福ちゃんは3年生のときは、川幅100メートルほどある大川(彼らは狩野川をこう呼んだ)を、平泳ぎで向こう岸までいって、戻ってくるといっていた。私は学校に入る前、1度だけ、大きい子につれられ、もっと上流の浅瀬で遊んだことがあるが、林間学校の時から、水泳は千本浜でするものと思いこんでいたから、川が水泳の対象になるとは考えてもみなかった。狩野川は、彼の家の上流まで海洋船の船着き場であった。

 私は福ちゃんの指導もあって、4年生の夏も半ば過ぎ、千本浜で凪いだ夕方、自分の泳いだ距離を始めて確認できた。

 

 福ちゃんは、蓄膿症か何かで、ときどき鼻を詰まらせて、新聞紙の鼻紙で鼻をかんでいた。そのためか知らぬが、何か熱心に話すとき、よだれを流すくせがあったが、よだれを拭くしぐさも鷹揚で、ちょとかがめた腰とともに、福ちゃん独特の雰囲気があった。

 4、5年生の頃の、ある体操の時間のことである。先生は生徒を2列横隊に並ばせて『番号!』と号令をかけた。生徒の前列にいるものは右から順々に、イチ、ニ、サン、シ・・・・ と短く叫ばなければならない。ところが先頭にいる彼が『イーチ』とイの語尾を長く引っ張るものだから、後につづく『ニ』『サン』『シ』を云うものが拍子抜けしてしまらない。先生は、彼の『イーチ』を『イチ』と短くするのに苦心した。

 しかし、運動能力は鈍い方ではなく、水泳は私の先生格であった。

 陸上では、隣の義組の先生が熱心で、6年生各組から足の速い連中を集めて競技部を作り、放課後猛練習をさせた。中学校の運動会で行われた小学生エクスビジョンレースなどでは、4人で200メートルずつ走る800メートルリレーで、市内近郷小学生チームを寄せつけず、最終ランナーは1周200メートルのコースで他校の第3ランナーを追い越してはどの大会でも優勝したが、福ちゃんはわがクラス代表で、チームの補欠であった。級長の私は、先生から応援団長をやらされた。

 6年生には陸上と野球があったが、私はどちらも選ばれる資格がなく、内心無念におもっていた。たまたま3年生の担任に剣道3段のW先生がいて、剣道部員を募集したので、私は剣道をやることにした。やると云っても、道具は竹刀だけ。講堂で素振りと、横に差し出した竹刀めがけて、走っていって面を打つ稽古。すり足で進んで、打つときは、左足をけって右足から踏み込む動作がなかなか難しく、皆ちょこちょこ走りで、打つときも歩調が変わらずにかけぬけていった。

 警察署の隣に1般人が入れる町道場がたった。小学生も入れるというので私は夜の部に入った。そこには面、小手、竹胴、垂れが揃っていた。家が近かったので、わりあい熱心に通い、寒稽古納会の試合では何人かを勝ち抜き、小学生としては特別な級位をもらった。W先生は道場の常連であった。

 

               

 

 小学時代は、家に帰ってもクラスの友人と遊んだ。父は、妙な信念を持っており、近所の年下の子と遊ぶのを嫌ったからである。クラスの友人とはドッチボール、野球、魚釣り、自転車、海水浴、模型飛行機、読書から、何と名付けてよいか分からぬものまでいろいろあり、友だちの範囲も変わったが、野球なら野球と継続して野球ばかりして、友だちも固定する。しかし興味の対象が変わってくると友人関係も変わってきて、今度は別の友人と親密に行き来する。けれども興味の対象が変わってくるからこの関係は1年とはもたない。これが私の小学生時代の友人関係であった。

 しかし、福ちゃんとの関係は少し違っていた。彼の家は、私が学校へ行く道にはちょっと外れるが、14、5分の距離にある。家の前の道は何度も通ったことはあるが、訪ねて行ったことがない。お父さんは死んでいないことは聞いたが、お母さんや兄さんの顔を見たこともない。兄弟が何人いるか聞いたこともない。大川で泳ぐ話とか、正月が済んでお飾りを盗む話、お飾り小屋に住む話、どんどん焼きをする話など、みな学校で聞いた話だ。小学校生活としては長いつき合いだったが、6年生になるまで、学校が済んでも、帰りに誘い合ったりしたことがなかった。私は、彼にたいしては、遊び仲間としての関心がなかったのだ。

 

4、5年生の頃だと思う。図画の時間で校外でバラバラになって、あたりの風景をスケッチしていた。私は福ちゃんと1緒で、松林のある風景を描こうとしたとき、(図画の)先生が来て私たちに「ものをよく見ていると、いろんな色が出てくるだろう」といった。

この先生は美術学校出身で彫刻の専門家。ここ1、2年「帝展」入選で、他の先生方の敬意をあつめていたが、寡黙な人で小学生向きではなかた。 

 私は見えるのか見えないのか、あいまいであったが、福ちゃんは「あ、見えてきた」とつぶやいた。

 その頃私たちは、何色と何色を混ぜると何色になるとか、さも発見したように盛んに口にした。私も3色刷の見本の如く、1面に黄色をぬったくり、後からブルーや赤を加えて、おうおうにして画面を汚した。福ちゃんの繪はうすめの澄んだ繪だったと思う。

 ここで、1年生か2年生ころ、(田植えを見学した後ことらしい)先生に彼といっしょに、黒板にチョークで田植えの繪を描かされたことを思い出した。私の繪は、田植えをする人が、こごんで田植えをするところであったが、福ちゃんの繪は早乙女が1列にらんで立っているところであった。

 

 福ちゃんの筆箱には、綿が敷いてあって、その上に2、3本の鉛筆と切り出しがのせてあった。鉛筆はどれも鋭く削られていて、妖しい魅力さえあった。私は真似てみて、家で小刀を研ぎ、鉛筆を削るのを試してみたが、彼の鉛筆ように鋭くはいかなかった。

 その頃(6年生)わが家では米を福ちゃんの店から買うようになった。彼は私の家に米を配達しながら、切り出しをもってきた。私はさっそく裏の仕事場に彼を案内した。仕事場には砥石(といし)がある。福ちゃんは仕事場でしばらく切り出しを研いでいたが、

『ほら、こうやって研いでいると、刃の先にトクサ(?)が出来るだろう』

といって刃を空にすかして、刃の先にかすかに見える鋼の白い1線を私に見せた。

『これが出来るまで研ぐのさ』

 彼はわが家への配達にかこつけてたびたび来るようになった。私たちは家に立ちこもらず、田園地帯を歩いたり、日枝神社近くの農園を訪れたり、ある時は狩野川をこえて香貫山まで足を延ばしたりして、道々会話を楽しんだ。友人と会話のために道を歩くのは、かってないことだった。

 

               

 

 云い忘れていたが、私の1年生の頃は、街の中心に、男子の小学校と女子の小学校が並んであった。それが人が増加したため、3年生の末、南端の千本浜付近に校舎が出来、男女を区分せず学区を分け、町の南半分を第2小学校とした。福ちゃんも私も残留組だったが、男子と女子とのクラス混合とはせず、女子は誠組とか愛組とかと名付けられたが、女子のクラスについて、ほとんど記憶がない。当初これからは女子と同じでは男子の名誉にかかわるぐらいに思っていた。

 しかし、6年生になってからはちょと違い、関心は女子の方にも向けられた。私らは、おもだった女の子の名前は覚えた。

 彼との話題も然り、A子の家はこの付近だとか、昨日町でB枝がお母さんといるのを見かけたといった程度のものではあるが、幼年期を脱した証であった。

 

 6年生になると、中学校や商業学校に行くものに受験のための補習授業があった。それで(小学校)高等科に行くものとのあいだに、だんだん溝ができた。

    注 (旧制)中学校・商業学校は5年制 小学校高等科は2年制

 私らのクラスに松葉杖をついた子が入ってきた。父親は町の医者のお抱え車夫であった。どうわけか、片足を切断し、その理由のために、1、2年おくれで私らのクラスに入っへきたのだ。体操の時間は、腹痛などの見学組にいたが、実際は、体が大きく、腕力があり、鉄棒が得意であった。彼は休み時間に教室で気に入らぬものに対して松葉杖を投げつけるなど、高等科組を牛耳っていた。『宝島』のシルバー船長のごときこの少年は、将来義足をつけるのを夢みていた。私は彼とも普通につき合っていたつもりでいたが、3学期にはいると彼の私に態度がおかしくなった。

 彼は、福ちゃんと私に的を絞ったのだ。彼は仲間に、「私とS(福ちゃん)は生意気だから卒業式が済んだらやっつけよう」と仲間をアジり、卒業式の朝、私たちに通告してきた。

 ところが私は、受験組の父兄から先生への感謝の印として洋服の仕立券を贈ろうと、私の父らが企画し、その集金を2、3人の級友とやることを、前日父から命ぜられていた。その旨を福ちゃんに伝えるとオレが1人でいってやるといって引きけた。私は集金担当の友人と、まだ残っている卒業行事をぬけだして、受験組友人の家を1軒づつ集金にまわって、喧嘩的リンチの難をのがれた。

 その日の夕方、福ちゃんの語ったところによると、図画教室(もと女子校の建物で、離れたところにあり、人が滅多に行かない)でやったが、たいした事でなかったと。多勢に無勢、だが福ちゃんが人の恨みを買うわけがないと思った。

 

 福ちゃんはこの町の商家の子弟が行くように商業学校に行き、私は中学校に行った。

 余談になるが、(小学校)高等科の学校は、中学校と同じ狩野川の川向こうにあった。私は中学校にはいったある時、高等科に通うN(3年の時、福ちゃんに相撲でやぶれた)の姿を認めた。彼は4年から第2小学校に移った地区だったから、その後は知らなかったが、ひどいびっこで杖をついていた。後で、第2小学校出身の同級生に聞いたら、Nは柿の木に登って落ちたということである。

 町医者はサイドビジネスに失敗、病院をたたんで満州へ行った。お抱え車夫と小シルバー船長の行くへは知らない。

 福ちゃんは商業学校卒業後、 神戸にある車両会社に入った。                  

                              「自由平自分史断片・学不学」より  

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