海水浴と水泳

 

 沼津市の南端に千本浜公園がある。公園の入り口に帝室林野局の看板があり、砂地の風食により、巨大なタカアシ蟹のような根を空中に曝した老松が、ここかしこにある松原にはいる。松原には正午にドンを告げる大砲もある。若山牧水の「幾山河越え去りゆかば寂しさの果てなん國ぞ・・・・ 」の歌碑もある。私の中学時代、牧水は沼津に住んでいた。葭張り、中にはケットを腰掛けに敷いた甘酒屋もある。

 200米程で松原を抜けると、左手に旅館のような建物がある。少年の日のわれわれは、戸外においてあったポストのようなのぞき写真からくりが関心事であった。いよいよ海岸だが、10米くらい玉石大の砂利の昇り坂になってまだ海は見えない。海水浴シーズンには行く手に旗が立っていて、もし赤であったら海が荒れていて危険という信号である。小丘の上に立てば海は1望できる。これを越せば砂利の緩斜面下りで、4、50米先で波打ち際となる。

 左手には、狩野川の河口突堤が左手に遠望できる。水平線に目を移すと、左半分は海を囲むように伊豆半島の山々がつらなってをり、先端は大瀬(おせ)崎である。それより右は水平線のみつづき、しばらくして西方の遠山が望まれるころになると田子の浦海岸が弓状に曲がっているのが見え、ここ千本浜海岸に至る。

 千本浜海岸を埋め尽くした径1、20センチ程の扁平玉石は、西方20キロにある富士川の河口から流れ出たものである。

 駿河湾は水深が深い。これに直接面した千本浜も急深で、波打ち際から10米も離れれば大人も背が立たない。それでも夏になると海水浴で賑わう。それだから、市は、適当なところに浮きとロープで線を張り、

「沖へいっちゃあぶないヨー」

と叫ぶ見張り人の櫓を立てていた。沖合には大謀網(だいぼうあみ)がはってあり、その浮きが泳ぎ自慢の連中の到達目標となっていた。千本浜は波は荒いし、どう見ても水泳のための海水浴場としては、適当と思えない。

数年前、息子の車で千本浜を訪れたが、あまりの変わりように驚いた。松は密植され、牧水の碑は何処にあるのかわからない。海は海岸堤防が阻んで堤防の上に立たなけれ見えない。防災のためと思うが・・・・

 

 私の中学時代、1年生は夏休み前の10日間、御用邸のある桃郷(とうごう)海岸で水泳することになっていた。桃郷海岸は狩野川の左岸、河口より2、3キロ離れた左岸沖積地帯にあり、砂浜で遠浅である。しかし、沼津の町の人にとっては川向こうの遠い村と感じていた。実際、中学校と桃郷間は東に山を背負った水田地帯で2キロの間人家がなかった。

 わが少年時代、ロサンゼルスのオリンピック(昭和7年・1932)の水泳でわが国の選手が大いに活躍し、沼津でも、商業学校の生徒がメダルをとるなど、水泳ブームがおこった。中学でも学校にプールをつくり、私が1年生のときは、桃郷海岸水泳終わりの納会の日には、プールで記録を取るなど学校でも選手の卵発掘に努めたようだった。

 しかし、私の同級生では、沼津出身で水泳部員は1人もいなかった。水泳部員は伊豆の山の中出身とか、裾野(現在の御殿場線)の汽車通学生と静浦村の自転車通学生とであった。

 1見、奇妙に思われることだが、伊豆の山の中にも狩野川に子供の水泳に適した淵があり、彼等の少年時代の様が窺える。裾野の黄瀬川にも同様なことが云える。

 静浦村は(現在は沼津市に合併されている)、海でも千本浜とは大いに異なり、駿河湾の奥深く、伊豆半島の付け根部分の山々に囲まれたその名の通りの波しずかな内海の漁村であった。中学生時代その友人を訪ねたことがあったが、船着き場の1偶に木枠を組んだ小プールが作ってあった。

 オリンピックでメダルを取った商業生がメダルを取る以前からこのプールが出来ていたものか、後に出来たものか、訊ねてもみなかったが、この村の出身であった。

 実際、中等学校にプールのなかった時代には浜名湖周辺という波のない内水面からオリンピック選手は生まれ、「われは海の子、白波の騒ぐ磯辺」からは決して生まれなかった。

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