狩野川と橋

 

 戦前沼津市内を流れる狩野川には、上流から黒瀬橋、三園(みその)橋、御成(おなり)橋、永代橋という四つの橋があった。

現在はそのほかに河口付近に「港大橋」がある。

 黒瀬橋はその名の如く、この辺には瀬が現れているが、これから下流へしばらく行くと感潮河川となる。そして右岸は河岸(かし:河川の岸の、舟から人や物を揚げおろしする所)構造になっている。ーーー満潮でも十分な高さで石積みテラスを築いており、背後に倉庫とうがある。沼津台地の縁であるから、テラスよりずっと高くなる。テラスは河岸にそって小途状にずっとつづいている。

 ただし永代橋より下流は、小学生の頃土肥行きの小汽船で見た記憶が残っているだけだが、河口まで葦が繁っていたように思う。いま、国土地理院の地図で調べてみると、黒瀬橋〜永代橋間は右岸側に凹になっているが、川口付近では逆に凸になっている。凹なっている方は浸食方向で、水深も深く、舟からのあげおろしに便利で、沼津が左岸台地に発達した理由である。

 

 左岸は、黒瀬橋〜御成橋には河原と堤防がある。しかしこれは私の小学校時代にできたものでその以前は、「さえんば」という笹だけの繁った薮であったと思う。三園橋 もその頃造ったもので、橋の名称は「さえんば」からとったものであろう。

 御成橋から下流の左岸光景は河口付近を除き記憶にない。たぶん(行ったこともないからであろう。河口付近は、右岸千本浜の端の突堤から見える我入道(がにゅうどう)と牛臥(うしぶせ)山で、我入道には河岸があったようだ。

 

 橋の構造は、黒瀬橋が日本古来の欄干のある木造橋、トラックが通れない。永代橋が橋脚の多いコンクリート橋。御成橋は私の中学低学年時代までは3連か4連の半円山成りに鉄骨を組んだ(曲弦プラットトラス)鉄橋であったが、架け替えて東京隅田川の清洲橋スタイルになった。

 私の中学通学路にある三園橋はこれも3連か4連のトラスト木造橋であった。始めは橋の路面を普通の道路のように土と砂利で踏み固めたものであった。しかし雨の降る度に所々に水たまりができ、車が通るたびにゆさゆさ揺れ、穴は大きさ深さともに拡大し、そこの敷き板が破られるものも現れた。そこでとうとう敷板のみの構造にした。土と砂利の構造は中学生の私でさえ気が付つくほどの欠陥であったので、いつまでも記憶に残っている。

 三園橋の敷板では、もう一つ記憶に残っていることがある。ある時友人が学校の雨天体操場のコンクリートの床でやっていたローラースーケートをしばらくの期間借りてきた。夜間、三園橋でやってみようというわけである。あんのじょう、橋上の夜間は人っ子1人通らない。ところどころにある橋の電柱の明かりが、縞模様に橋の敷板に映っているなかを思う存分滑る。1晩のうちにターンもらくらくできるようになった。

 

 御成橋が清洲橋スタイル(正規分布縦縞梁型)になってからの話しである。狩野川が氾濫して黒瀬橋、三園橋は流され、永代橋は黒瀬橋・三園橋の残骸を受け、壊れかかった。御成橋は橋脚が2つ両岸近くにあるだけで引っかかるものがなく、黒瀬橋・三園橋の残骸は永代橋にやり過ごしたわけである。

 それからしばらくの間、私の通学路は狩野川を渡るさい「渡し」に寄ることになった。それは両岸にワイヤーロープを張り、舟のへさきに滑車をつけ、流れに逆らって左舷右舷どちらかを斜めにすることによって左岸・右岸いずれの方に自動的に舟が動くものであった。こういう渡しの方法があることを始めて知った。

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