士族と平民

 

 沼津には「大手町」とか、「城内」とかいう町名があるが、静岡のように濠や石垣のある風景は見られない。だから私にとっては大手町も城内も、単なる符丁にすぎなかった。私だけでなく町の人全体が、そう思っているように思われた。

 実際、城下町という空気を何も感じられない。藩の石高が軽少だったせいか、幕末の動乱期に何があったためか。私の通った小学校の、幾つかあった棟の1つの軒下に『兵学校』という古い額が掛っていたのを覚えているが、小学生の自分には疑問にはならなかったし、由来を語ってくれた先生もいなかった。

 

 今私は1930年の気持ちになったつもりである。小学5年のクラスメートの通信簿表紙に『士族』という文字を見つけた。私のは『平民』である。しかし、私にはなんの反応も起こらなかった。

 「城内」は小学校から以北の地区、母が私の小学2年の時に癌で城内にある「駿東病院」に入院したこともあって、地区の様子が微かに記憶に残っているが、道幅の狭い、入り組んだ屋敷町で、ものを売る店は一軒もなさそうな気配で、豊かとはほど遠いものだった。

 私のクラスメートはこの「城内」地区ではなく、警察署の近くにあったが、父親は建築許可申請手続き関係の仕事であったらしい。典型的士族ファミリーと類推される城内地区住民に、私の中学時代剣道部の一年先輩にいたSがいた。彼の兄は警察官で、剣道ではならしていたが、兄弟とも陰気くさかった。

 私の同級で、同じく剣道部で、父を警察官に持つ男もいた。この男の父は、県内の転勤を繰り返していたので、城内とは関係ないが、下級士族の系統に違いないと思った。1度この男の家にいったが、借家の陋屋、父の警官からは典型的な威張り警官の印象を受けた。息子の友人である私に対しても、見下げたようなものの言い方ーーー何といったか覚えていないがーーーであった。彼の母親がものごしの丁寧であっただけに、家の中の空気が想像できた。彼の兄は中学から師範2部ヘいった。

 彼は静岡県庁に就職したが、私の大学時代にガダルカナル島で戦死した。私の家は静岡に引っ越していたが、偶然彼の家も近所にあり、葬儀に立ち会うことができた。

 警官ファミリー2家族を紹介したが、沼津・静岡の士族は負け犬で(江戸に帰った者も多かったはず)、出身は隠したがっていただろう。

 

 その点、平民(静岡、沼津の商人)は、何はじるところがないというところだ。徳川さま300年、海道筋の文化は捨てたものではない。だから薩長の芋侍とか、それにつづいた後継人を、心のうちで軽蔑し、明治維新以来の列強帝国主義の模倣の道を危ぶんできたーーーーわれわれ子供らが何の疑問も差し挟まない世の動きに対し、大人がふと洩らした溜息のうちに、こういった気持ちが働いたのかもしれない。

 小日本主義を唱えた石橋湛山は、唯一静岡に基盤を置いて総理大臣になった人である。しかし、湛山も山梨の人。小日本主義も人にやらせてしまう知恵が東海道筋にはあったのではなかろうか。

 

 東海道筋には民謡がない。茶切り節の如き昭和の俗謡は論外。民謡の卑俗性をひそかに恥じた結果ではなかろうか。私の父は客を夕食に招待すると酒に酔ってから、タンスの引き出しから舞の扇を取り出したり、何処で習ったか知らないが、常磐津だか清元だかの1節を、声を張り上げ唄い、すぐノドをつまらせて終わるのがつねであった。

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