栗原平吉君

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 彼は、私の中学校の同級生(昭和8年入学)だったが、小学校高等科卒業であったから、私より、3年年上であった。沼津商業学校5年の時に、ロスアンゼルスのオリンピック(昭和7年・1932)200米平泳で銀メダリストになった小池礼三氏の家は、栗原君の家の2、3軒先であった。

 栗原君は、小池氏の2、3年後輩に当たるわけだから、小池氏のあとにつづく水泳の優良株と認められていたのだろう。沼津市の新聞販売店主がスポンサーになって身柄を預かり、中学の英語教師が水泳部長として肩をいれることになった。      

 彼は静浦村の漁師の倅で、背はそれほど高くはなかったが、胸はぶ厚く青銅色の筋肉質で、3年も年が上ということもあって、同級生の畏敬をあつめていた。だが、その後の彼の水泳成績は、体が固まってしまったためか、伸び悩んでいだ。

 しかし、彼は25米プールの往復を、仰向いた平泳ぎ姿勢で、水面から数センチ潜ったまま、泳ぎ通す特技を持っていた。当時、潜水泳法は未開発で、というより平泳ぎはこういうものという固定観念が強く、潜水状態が体を浮かべた状態より速力がますために如何に有利かが気がつかなかった。

 例えば、平泳ぎの脚の使い方は、あおり脚であるという観念を、キック(蹴る)という観念に変えたのは、小池氏らの出現をまってのことだ。

 戦後、潜水泳法が平泳ぎ泳法として開発され、青木選手らが盛んに記録更新した。そして潜水泳法はついに国際ルールから平泳ぎ泳法としては禁止されるにいたったのは皮肉のことではある。

 かって、平泳ぎ泳法で顔を水面につけるのは、抵抗を少なくするためと思いこみ、戦前の日本の平泳ぎは水澄ましの如く静寂であった。しかし、アメリカはバタフライ泳法、人間もイルカの如く上下に体をくねらせて泳ぐ法を、開発した。潜水泳法も上下に体をくねらせる泳法だ。

 現行の平泳ぎ泳法は腕をかき込むときは体は45度も起き、腕を伸ばすとき体は水平になる。なんのことはない、イルカの泳法をルール違反だと排除しながら、最大限イルカ原理を取り入れようとしいる。結局、イルカ原理を放棄させ、純粋の蛙泳法に戻る以外に平泳ぎの残る道はないのかもしれない。

 栗原君の泳法は、もちろんお遊び潜水泳法であったが、意外と速く、もし誰かがタイムでも取っていて、研究していたら、栗原泳法の創設者として、後生競泳史上に名を残すことになったかもしれない。

 だが、実際は、新聞販売店主のスポンサーも降り、彼は静浦村の生家から普通の中学生として通よ

うようになった。

 

 静浦湾には「鰯の生け簀(いわしのいけす)」がある。土佐や焼津の鰹漁船が漁に出るとき、餌の鰯をここで仕入れて行くのだ(注)。静浦の漁師は内海の鰯漁業と、土佐・焼津の漁師の外洋漁業と対象的だが。

注、私がこの関係を教えられたのは、母方の伯父からである。伯父は当時(昭和13年頃)、焼津の漁業組合長をやったいた。だから焼津の方に軍配を揚げようと当時は思ったが、半世紀前の関係だ。どうなっているか興味のあるところだ。

 「鰯の生け簀」は1間程の角材を6角形に組みあわせ、枠に造り、筒状に網を張ったものと見た。これを海上に幾つもならべてあるが、狭い湾内では池の中に設置されているようなものだ。

 

 ある日、私は水泳部の他の友人とともに、栗原君のところに招かれた。「生け簀」のまわりにいる鯖(さば)釣りを行う趣向である。舟の櫓を操って生け簀に向かう。「生け簀」の水深はどれほどなのかしらないが、鰯が群をなして泳いでいて底を窺うことができない。生け簀のまわりには時々鯖の姿が見えがくれする。弱った鰯が出ると、網の外にいて頂戴するらしい。よく見ると、生け簀の中にも鯖がいる。鰯の群が途切れることがあると、そこに鯖が現れる。鯖が鰯の群を追っかける関係にあるらしい。鰯と1緒に誤って封じ込められた連中である。

 かくして我々は、生け簀の内外で鯖を釣ることができる。釣り棹はいらない。針に生け簀の鰯を少々付け、糸をたらすと、鯖は掛かってくる。

 栗原君は、我々の土産として鯖では不十分とみたらしい。あたりに舟なきを見て取って、大きなたもでサブリと生け簀の鰯をすくい取った。

 

 栗原君は、4年修了後、海軍に入った。小学校高等科で2年無駄足を踏んだため、徴兵延期の期限切れになっていたのかもしれない。あるいは海軍の下士官養成制度にそった何かの道を選んだのかもしれない。

 しかしその後の消息は、私のしるかぎり、不明である。

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