貞さんと伝書鳩
私の小学生時代の始めから、父は近所の小さい子供らと遊ぶのを嫌った。理由は小さい子と遊んでいては進歩がない。自分より年長者とつき合って、彼らの知識を吸収しろということであった。
父の少年期、尊敬する人物がいて、「小さい子と遊んでいては駄目だ」という教訓を受けたか、自ら悟ったであるらしい。
私はそういうものかと思ったが、近所に適当な年長者はいなかったりして、結局友人は学校の同級生のみになり、これの傾向は中学までつづいた。
中学時代のある日、店(みせ)で父は客と話していた。わが家の店の構造は、通りから入り口のガラス戸をあけると10坪ほどの部屋で中央に備え付けのテーブルと4脚の椅子があり、その奥に帳簿付け用の机と椅子が2組ならでんいる。部屋の側方には、1方には窓があって横の通りが見え、もう1方のがわには棚がしつらえてあって洋風の洗面台などが飾ってある。
表通り側の入り口でない部分には、飾り棚に水道の蛇口そのたの金物類が置いてある。
店は土間で居住用部分につづくのであるが、居間にいてガラス障子から、店の入り口から通行人まで見通せた。
客は近所の焼き芋やの小父さんらしい。父の声が聞こえてくる「私もリイドル(reader)3までやって・・・・」
父は小学校高等科を卒業すると、将来は西洋家具が必要になると、祖父から横浜元町の家具屋に見習い奉公に出された。当時元町の家具屋では英語が必要だったらしい。
それが、何かあって静岡の親元に戻され、長兄とともに親の商売の建材商を手伝うことになった。大正中期、父の長兄は静岡の店を祖父から引き継ぎ、大正末年に父は沼津支店として店を持った。
焼き芋屋の小父さんも、リイドル3の口らしい。しかし、私は幼年時代から、焼き芋屋では小母さんのほかは、目に付かなかった。
父も小父さんとは最近のつき合いらしい。焼き芋は冬のあいだであるが、夏場の焼き芋屋の記憶はない。
焼き芋屋といっても、戦後現れた、路上を車で歩く、石焼き芋屋ではない。1軒の店を構え、練り土で造ったかまどを設け、大釜(鍋)で焼く、焼き芋屋さんで、小母さんのところでは、釜が2基あったとおもう。これに小母さんは大きな芋をななめに切り、釜1面にならべてフタをする。頃合いを見て、フタを取ると、1瞬湯気で小母さんの顔がかくれる。
しかし、これで芋が焼き上あがっているのではない。小母さんは、クシで次々に芋を突きさし、ひっくり返して、再びフタをする。次にフタを開けると、香ばしい芋が焼き上がっている。釜の周囲では小さい客が、先を争って小銭を払い、芋をつつんだ新聞紙片をうけとる。
ふところに焼き芋いれていそいそと
私の幼年時代は、ふところのある和服ーーー着物であった。
この小父さんが、貞さんのお父さんであった。私が中学3年生、貞さんは5年生の時である。しかし、その時まで、またその時点でも、私には貞さんについての記憶は全くない。小学校以来、近所の子と遊ばない習慣が、長崎の出島の如く、私と近隣とを断ち切ってしまったのだろう。
ある日、父は貞さんを家に連れてきて、どういう理由を付けたか、私の数学の本の問題をやらせた。首尾は如何であったか覚えていないが、私は貞さんに迷惑がかかったことに恐縮した。
その時貞さんは、私が土鳩を飼っていることを知って、土鳩なんかつまらないと、伝書鳩のつがいをくれると約束した。
つい先に、私は級友から土鳩1羽をもらってコマネズミ用の全面にガラス入りの箱に入れていた。
この級友は、息子の教育に熱心な他校の先生で、息子の教育のために土鳩を飼っているらしい。彼のいうことには、飼い慣らすと、戸外にいても手を叩くと戻ってくると、鳩をパブロフの犬がわりに思っている。
ところが思いがけない伝書鳩がくることになった。(私は沼津には伝書鳩なんかいないと思いこんでいたのだ。土鳩をくれた級友も彼の父君も同じだったろう)さっそく私は、貞さんの鳩舎を見たり、本屋で伝書鳩の本をさがしたりして、縦横1メートル、奥行き1.5メートルほどの鳩小屋をつくった。鳩の入り口のトラップや給水器具等は東京から取りよせた。辞書を引いて、入り口に「DOVECOT(鳩小屋)」と書き、貞さんに見せたら、伝書鳩はキャリアーピジョンというのだがといって、不満げであった。
鳩小屋は倉庫の裏の下屋の屋根の上に置かれた。母屋から見えない場所であるが日当たりがよい。(ここは後にイタチに全鳩をやられ、鳩小屋は母屋の方に移すことになったが)1ヶ月ほどして貞さんは若鳥のつがいをもってきてくれた。
困ったのは土鳩の処置である。伝書鳩と1緒にしたものの、このまま飼うわけにはいかない。伝書鳩は食事前に大空を飛翔させ、飛翔運動が終われば直ちに鳩舎に戻って餌を貰う。地面や木の枝、電線などには止まらせない。
だから土鳩のように地面をのこのこ歩いたり、木の枝に止まったり、自由気ままの行動はゆるされない。と伝書鳩の本に書いてあった。可哀相だが銃殺以外に道はないと、空気銃と土鳩をもって貞さんのところへでかけた。
ところが貞さんは「オレは、鳩だけは殺す気になれない」と尻込みした。私は伝書鳩のためだと、紐で土鳩の足を結わえ、木の枝につるし、眠らせーーーー鳩に限らず鳥は羽根を抱きしめ、じっとしておくと、そのままの状態になる。そこを離れたところから空気銃でねらう。ねらい違わず、土鳩は銃殺された。
私は、もらった伝書鳩に敬意を表する気持ちもあって、土鳩を殺しにやってきたのだが、貞さんは尻込みした。彼なら他の方法を選ぶだろう。
私は自分の薄情を悔やんだ。悔やみながら、その後2人は料理して土鳩を食べた。この鳩は子鳩らしく、中味は貧弱であった。
貞さん1家は、表通り店に両親と妹が住み、奥の別棟に鉄道員の兄さんと彼とが住んでいた。別棟には、戸外の伝書鳩のほかにチャボ、インコその他を飼っていた。インコも飛び羽根を切っていたのか、部屋の中に放し飼いにしていた。彼は見かけによらず、小鳥好きだった。
その頃は武道が中学校の正課であって、生徒は剣道、柔道のいずれかをえらばねばならなかった。
武道場は柔・剣道左右にわかれているが、しきりがなくーー柔道の畳、剣道の板の間をずうっと見渡せた。正課の時間は同級のものが使うが、放課後は1年生から5年生まで部員が使う。
貞さんは五年生の柔道部員で、背丈は普通だが、がっちりした体で、中堅どころ、背負い投げがとくいであった。応援団の副団長でもあった。
私は3年生の剣道部員であった。しかし、学校や道場の関係でなく、父の云うところの近所の年上の人ーーーー貞さんをしばしば訪れるようになった。
しばしばーーーーと書いたが、私は剣道部でウイークデーには放課後稽古があるから、日曜日に限られ、日曜日と言っても他の友人とのつき合いもある。貞さんも現役時代は同じこと。浪人中は東京に行ったこともあるのだから、接触時間は意外に短かったかもしれない。しかし私のフィールターを通しての彼の像ははっきり見える。
貞さんは、小鳥によらず、動物を好み「俺は兵隊になるときは、馬を扱う兵隊になりたい」といっていた。
私は貞さんのところへ行くと、日頃の不安な気持ちが収まり、なぜか充実した気分になった。彼とあちこち
出歩いた。
私は彼を山へ誘ったら「近ごろ尻に腫れ物が出来たので、宮本武蔵を倣って、町の柔道場で猛練習をやったら、腫れがひどくなって動けなくなった」と笑った。
朝日新聞の連載小説、吉川英治の書く「宮本武蔵」が、大いに暴れて病を追い出すくだりを真似たわけだと言った。
彼とは、しばしば私の空気銃を持って、郊外へ雀打ちにでかけた。郊外といっても裏通りの背後は郊外の台地である。たいていはシケであったが、飽きずどちらかが誘って出かけた。
ある時、例の如く、2人で空気銃を持って郊外をぶらぶらあるいた。貞さんは浪人したから、浪人時代のことかもしれない。住宅がまばらに建っているもう郊外もつき、田圃地帯に入るところでの出来事であった。まだ、垣根も結ってない1軒の家から、この家の頑固そうな親父が現れて、突然私たちに向かって
「おまえ方だろう、うちの洗面器に散弾を打って穴だらけにしたのは」と怒鳴った。
見ると屋外の井戸端に洗面器らしき物が置いてある。私らには何の覚えもないことであったが、私は、その剣幕に1瞬縮み上がった。その時、貞さんは、低い声でゆっくり、しかも機を逸せず、答えた。
「知らぬ」
親父はまた何か怒鳴った。
彼は再び応じた。
「知らぬ」
親父はぶつぶつ云いながら家に入っていった。彼は「空気銃で散弾が打てるわけがないじゃないか」と私につぶやいた。私はまだどきどきした胸の内で、彼の「知らぬ」と言う応答ぶりに、すっかり感服してしまった。
私はその頃、朝日新聞を読んでいないので知らなかったが、後に吉川英治の「宮本武蔵」の中に武蔵がお杉婆に悪罵をあびせられながら「知らぬ」「知らぬ」と答えのみで立ち去る条を読んで思い当たった。沼津付近には「知らぬ(ん)」というという方言(?)はない。
貞さんは無意識か、あるいは努力してか、おそらくは両者が混然とした状態で吉川英治の武蔵を真似たに違いない。
貞さんは古い麦藁帽とか、破れソフトをかぶって肩をいからして町を歩いた。彼はまた、浪人時代で東京にいたとき、長髪に白帯で銀座を闊歩して、旧友を驚かしたという話しがある。
そのような彼が、道で人に出会って何か話しかけられると、まるで処女の如く、低い小声で言葉少なに答えるのであった。
中学では、映画を見ることを禁止していたが、私は45年生の頃は、1人でよく見にいったものである。学生服では目立つので、夏ならば浴衣に下駄のスタイル。駅前から2本目の通り、繁華街から離れたところに目的の映画館がある。
町の医師が隣の敷地に建てたもので、洋画専門館。
貞さんが通ったかどうか、知らぬが、私が好みの女優にアナ・ベラの名をあげると、「穴」「穴」とからかうし、インゲボルク・テークは隠元豆だという。貞さんの好みはと、聞くと花柳小菊だという。
彼は洋画好みではないらしい、と貞さんとの話題は武張ったものに限らなかったことを断っておく。
貞さんの心は、元来小心といおうか、デリケートな、はにかみやと、勇猛心が同居していて、彼の異様な風態や言動は小心、はにかみを押さえようとする心の葛藤であったと思う。そして、その幅広さが彼の魅力となり、周辺の人を惹きつけたと思う。
私の家は、私の新潟高校在学中に沼津から静岡へ引っ越した。それで私は中学卒業以降、貞さんと会っていないが、彼は浪人2年の後、軍隊に入ったと聞いた。
私の伝書鳩の顛末をしるそう。鳩舎を母屋の軒先に移してから、再度貞さんに貰った番(つがい)がふえたり、よその迷子になった鳩がいたりして、10羽ぐらいになった、鳩舎も作り替えた。しかし私の鳩は、伝書鳩の本に書いてあるようにはいかなかった。
朝は私が寝坊するから、鳩の運動は午後から夕方にかけてになる。彼らは2、3周空を廻ると鳩舎の廻りの屋根や電線に止まりたがる。やむをえず鳩舎に誘い込んで餌を与えることになる。
伝書鳩の本来の使命である、離れたところから飛ばす訓練も、(選抜した鳩の)箱根越えの時は2日がかりであった。しかし、貞さんには飼いはじめに相談したきりだから、私の彼との交流については、関心は別のところにあったのだろう。
私は新潟高校に行く前に、沼津在住の友人に鳩を全部譲り渡した。
昨年、旧制沼津中学校の同窓会名簿を入手出来た。これを見ると沼津市在住、U氏つまり貞さんの名前があった。80歳をこえたはずだ。この個性派の人の人生はいかがであったろうか。
「自由平自分史断片、学不学」より (1998、10、9稿)