沼津の作家と前田先生

 

 私は、これまで沼津には芹沢光治良、下村湖人、井上靖という3人の作家が出ており、しかも3人とも狩野川左岸の河口我入道(がにゅうどう)に育ったと思っていた。
沼津にはこの他に有名な作家はいない。なぜこの人達が我入道に育ったのだろう。どういう理由かわからないと。

 下村湖人は彼の小説『次郎物語』で、我入道で育ったことを書いている(その主人公は下村湖人に決まっている)。井上靖は戦後の沼津中学の同窓会誌にその旨を書いている。
芹沢光治良は出典を忘れてしまったが、私自身長いあいだそう思いこんでいる。

 沼津に文学的風土があるとも思われない。そこで最近、彼等は異邦人(注)という仮設を立てて見ることにした。すると、広辞苑で下村湖人は佐賀県人、井上靖は北海道産ということがわかった(芹沢についてはわかっていない)。わが第1仮設は当たっていそうだ。
だが我入道と異邦人との関係については、いぜんとしてわからない。

注、沼津に血を受けたものでないくらいの意、---と始め思っていたが、小学校時代に身につけた「沼津の商人の子」に対して、何か理解できぬものをもつ人と定義を変えてみた。

(この説が私の誤りであることが、作文の途中で井上・下村の著書を入手したことによりわかった。しかし、訂正により前の思いこみ永かった期間の夢がこわされる残念だ。前の文を直すより、私の心理的経過を記すこと方が面白いと思い、そのまま残した。

 

 沼津は狩野川右岸に発達した町で、私の小学生当時の学区制に従えば、第1・第2は右岸町の中心部(男子校と女子校が並んでいた)にたいし、第3 は楊原(やなぎはら)校と云って左岸下流部にある田舎臭い学校で、実際、私は小学時代・中学時代を通じて楊原校の所在を確認したこともなかった。
もっとも、中学時代はこれを意識することもなかった。中学校自体が左岸上流部にあった。

 沼津中学では、1年生の夏休み前の1週間、桃郷海岸で海水浴をするのが、学校の慣わしであった。桃郷は御用邸のある場所で、我入道の東にある。ここまで来ると、富士川の影響はなく、狩野川の砂が流れ着き、砂浜・遠浅である。

 市内から、狩野川を三園橋で渡って、南に3キロ、1本道を歩くと桃郷海岸に達する。途中左右は田圃、東には香貫(かぬき)、徳倉(とくら)の低い山々がある。しかし、西方にある我入道は視界外である。

 

 我入道には海岸に牛臥山という小高い丘がある。沼津市民の海水浴場といえば、狩野川右岸の千本浜であるが、右岸千本浜側の河口突堤に立てと牛臥が眺められた。しかし河口付近には橋が架かっていないから、遠くで眺めるしかない。

 かくて、私には、我入道は、沼津の中で唯一の異郷として残った。

 

 前田千寸先生は、私の中学時代の絵の先生である。

 戦後、前田千寸先生と井上靖氏の関係を、中学同窓会誌かなにかで読んだことがある(井上氏は私の中学の先輩にあたるのを知った)。具体的内容は忘れてしまったが、前田先生との交流が書いてあったと記憶している。

  前田千寸先生には、戦後岩波書店からだした『万葉の植物(?)』という本がある。万葉集にのっている植物からえた染料の研究実証書で、当時限定出版で数10万円したらしい。染料には興味がないが、岩波の名と書物の値段と万葉集という高踏趣味に、私は圧倒された。

 先生は美術学校出身だか、小柄の1見小使いさんみたいな老人で、私は当時からすでに年寄りの部類に属すると思っていた。絵の他に、用器画、工作と、屋外作業---学校は木が多く、落ち葉かきが大変だった---を受け持っていた。
しかし、先生から万葉集の話も染料の話も聞いたことがなかった。他の人からそんな噂を聞いたこともなかった。当時、井上氏はまだ駆け出しの新聞記者だったはずだ。                                         

 ある時、家で「狩野川岸にある帆船」と題する版画をつくって図工の時間に出しておいた。宿題であったかもしれない。先生は「雲の形が面白い」と評してくれた。
後年、写真アルバムにはっておいたら、新潟高校の友人がどうしても私の作だとは信用してくれなかった。

 中学には、展覧会というものはなかったから、何処で見たのか、先生の絵を1度だけ見たことがある。中学の鳥瞰図で、俳画のようなタッチで、しゃれた絵だと思った。

 中学5年になって用器画に「任意の線分を平面図、立面図、側面図によって表す」課題が登場した。先生は「立体感覚がなければいけない」といわれたが、級友のなかには立体感覚の欠如したものもいた。私は幸い立体感覚に恵まれていたらしく、すらすらと理解できた。

 5年の課目の最終試験が済んで級担任の教師から成績表が渡された。見ると図工(用器画だったかもしれない)欄が79となっている。納得できない数字だ。私は教室で不遜の態度があったとも思えない。少なくても80点台はあるはずと、前田先生に難詰するつもりでいたが、2、3日で怒りがおさまったらしく、不発に終わった。

 私は2、3ヶ月ぐらい後、新潟高校の合格通知があり、受けかけた私立大学予科の受験をキャンセルした。その時受験用に用意して不要になった(封書になっている)「私の5学年の学業成績表」を破って見た(理由は忘れたが、W大予科は5学年の学業成績表を受験生に持たせたらしい)。
ところが、図工欄には79でなしに97なっているではないか。数か月前の成績表は、級担任の教師が、私がこういう高得点を取るわけがないという先入観から、写し間違いをしたらしい。すべてを納得した。

 先生との思い出は、かくのごとく即物的で情緒がない。        

 先生は学校付近に住んでいると思っていたが、あるいは我入道であったか。私の云う異邦人ではなかったか。

 

 ここまで書いてきて、井上氏の著書を殆ど読んでいない、何かヒントになることはないかと気づいて、にわかに家人に井上靖の本なら何でもいいから買っ来てくれと頼んだ。家人はわが意を察し、『夏草冬涛(なつぐさふゆなみ)』という彼の沼津中学時代の自伝的小説、その他を買ってきてくれた。

(『夏草冬涛』は私の沼津中学時代の記憶を思いおこすに十分であった。)

 主人公(父の勤務地北海道産)は、伊豆湯が島で義理の祖母に育てられたが、小学校 6年の終わりに祖母の死に遭い、中学受験のため軍医をしていた父のその頃の任地浜松に移った。浜松では家族とともにすごしたが、父が浜松の連隊から台北の師団に転勤したため、浜松中学から両親の郷里に近い沼津中学に転校して、三島の伯母のところから通うことになった。

この「自伝的小説」はここから始まる。小説は沼津中学の友人との交流が主体となって進むが、なかで前田先生とおぼしき人物(眉田さん)が、2度ほど登場する。
しかし眉田さんが学生達を家に招いたりした以外は、我々の中学生時代の生活と、それ程変わっていたとは思えない(主人公は大正15年ーー1926ーー沼津中学2年に編入。私はその翌年小学校入学。その差8年)。

 『夏草冬涛』文庫本の解説者は、解説文の中では眉田さんのことは無視してふれていない。私は井上氏と前田先生には何か重要な関係でも秘められていると思ったが、そうでもなさそうだ。

 さらに、私のひどい間違いは、「氏は中学時代をこの我入道にすごしたこと」にある。『夏草冬涛(なつぐさふゆみ)』は、主人公が4年生の始め沼津の港町の妙高寺(実名妙覚寺)という寺に下宿を移すまでで終わっている。
港町は、駅前通りを南に上土(あげつち)、魚町、港町といって、狩野川右岸河口に近い。上土は繁華街であるが、これから南は道も狭く用事のある人以外は行かぬところであった。もちろん私も例外ではなかった。港町の対岸には我入道があるが、井上氏が中学時代を我入道に過ごしたと思いこんだのは何時のことだろう。現実の作家とはべつの作家が、わが心のなかの我入道に住んでいたのだろうか。

 

 この後しばらくして下村湖人の『次郎物語』を手に入れ、下村湖人は、まったく沼津に関係がないことが判った。

 

   沼津の作家と前田先生(続)

 

 井上靖『夏草冬涛』を読んでから、同氏の作品を読みあさってみた。そして私は氏の作品を殆ど何も読んでいないことに気づきいた。わが心の内の行き来はべつとして、この辺で事実を記しておこう。1ヵ月程後、同『幼き日のこと・青春放浪』を読んで、前田先生と井上氏の関係がはっきりわかった。それに先生の名前も「せんずん」ではなく「ゆきちか」であることがわかった。万葉集の植物染料研究の書のことも『日本色彩文化史』と判った。

 

 『青春放浪』は小説というより随筆ーーー「文学放浪」という視点からの回想である(文庫本解説)

 「ーーーーー中学時代の教師にはおおむね反抗的であったが、1人だけ何となく気になる教師があり、この教師にだけは頭が上がらなかった。私ばかりでなく仲間の全部がそうだった。前田千寸(ゆきちか)という図画と国語の教師で、ーーー 私たちはこの教師には何となく魅力を感じ、彼だけを1人だけさんづけで呼んだ。

 この教師に、私は終戦後に、中学卒業以来初めてあって、彼が『日本色彩文化史の研究』という大著に取り組んでいることを始めて知った。私たちが中学生であった当時、前田さんはこの終生の仕事に既に取りかかっていたのであった。
私は「黯(くろ)い潮」という小説にその旧師の仕事を書かせてもらった。前田さんの仕事は河出書房から出た『むらさき草』という書物としてみのり、毎日出版文化賞を受けた。そして更に全部の仕事が岩波書店から出た『日本色彩文化史の研究』という大著として完成した。ーーー」(青春放浪)

 井上氏も『日本色彩文化史』のことは戦後に知ったこと、それから小説家の目で前田先生を書かせてもらったことで、中学時代に特別な関係はなかったのだ。私の立てた仮説、我入道と作家は霧消したが、何となく安心した。

                              (97、6、10稿

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