はじめに

 私は、偶然なことから、新潟市在住のS2さんと、戦争論・農業論とか学校時代の回想等について、文通を重ねてきた。そのS2さんの書簡の中で、沼津に触れた言葉が散見した。
 沼津中学(旧制)から新潟高校(同)へ入ったのは、おそらく私が始めてであったと思う。新潟高校の剣道部の先輩であったS2さんは、そのことが頭にあったのだろう。
 始めは、S2さんに沼津を紹介するつもりであったが、しだいに子や孫に伝えたい欲望に駆られてきた。そこで、あれこれ、昔はこうであったようなことにもふれてみた。

            昭和10年代の沼津地図  


             

     記憶の中の沼津

  私の小学校に入る前年、大正十五年(1926)から、中学を卒業する昭和十三年(1938)まで・・・・

 私はこの年以降、高等学校・大学・海軍と、沼津を離れた生活をおくることになった。その間、両親も沼津の店をたたんで静岡に引上げた。
 敗戦をトラック島でむかえた私は、沼津とは縁が切れ、静岡に復員、西富士開拓事業所に職を得て、3年余り開拓現場で過ごし、以後は東京その他で暮らしてきた。
「記憶のなかの沼津」は、沼津を紹介するよりも、わが少年時代の思い出を語るものになってしまった。

 


序説

 沼津は、東に箱根山とその南に突出した伊豆半島、北は愛鷹山(あしたかやま)とその後ろに富士山に囲まれ、西南は駿河(するが)湾に面している。

 戦後の地球学者は、伊豆半島は太平洋プレートに乗ってはるか南からやってきた島が、日本列島にぶつかって出来たものと云っている。

 東海道の河川は、ほとんど北の山地に発し、山地から平地にでるとすぐ南の海にはいってしまう。そのため、相模川、酒匂川、富士川、安倍川、大井川、天竜川はいずれも急流河川である。例外的に、多摩川と木曽川は南に平野部を抱え、平野では流れは緩やかになるが、北の山地から南行して海に出ていることは同じである。

 ところが、狩野川(かのがわ)は、伊豆半島の中央にある天城山(あまぎさん)を発し、北斜面を流れるものが半島を逆に北上し、半島付け根で箱根山系の麓でぶつかって西に迂回し、箱根山と富士山、愛鷹山(あしたかやま)の流域の黄瀬川(きせがわ)の水を合わせ、さらに愛鷹山南麓の沼津洪積台地(注1)にぶつかり、南に迂回して駿河湾にそそいでいる。東海道の河川で、本流が東海道と交差していないのは狩野川だけだ。

 伊豆半島は箱根山系とつながっているが、太平洋プレート本体は日本列島にもぐり込み、〈島であったもの〉が日本列島に接触した当時には、島の北端部では狭窄海面あるいは入り江が出来たであろう。島は東部で箱根火山系につながり、狩野川はそのため出口を西方にもとめた。沼津の語源も、感潮河川(かんちょうかせん)(注2)となった理由もこのへんにあるだろうと、「伊豆半島起源太平洋プレート説」により、私はこう考えた。(注3)

注1、沼津東北部の地形と『マサ』呼んだ硬くかたまった土層(広辞苑によれば、富士山麓で、固結した火山灰の土層の俗称)を、少年時代の記憶をもとに私が勝手に名つけたもので、西部の地形などはあいまいである。

注2、感潮河川ーー川の下流部で、海の潮汐に伴った流速や水位に変化する範囲。狩野川は市内では海上用小型動力船が川岸についた。

注3、私(?)説。

 

 私の家は大正15年(1926)私が6才の時、静岡市から沼津市に移ってきた。父が長兄のいる本家の店(建築材料業)から支店と云うかたちで独立したのである。

当時の沼津市の人口4万3千。

 戦前、三島方面から旧東海道を沼津にはいるには、狩野川と黄瀬川合流点あたりで狩野川右岸(川の下流に向かって右手の岸)沿いに西にすすむ。このあたり広重の絵にあるような松並木があった。やがて日枝(ひえ)神社の鳥居が右手に見え、人家が左右に立ち並び始める。しばらく行き、狩野川が南に分かれ始めた付近で道は上り坂となる(沼津洪積台地)。坂を上がれば駅前通りと交差する。

 市内には並行して南北の通りが3本ある。駅前通りは旧東海道の最初の交差点であり、東海道線沼津駅は交差点から北に3ブロック先にある。

三島・沼津駅間には路面電車が走っており、旧東海道が電車のルートでもあった。路面電車といっても東京の市街電車ようなボギー車ではなく四輪車で、軌道面の敷石がなく、一般道路面と区別ない裸土に砂利を敷いたままであった。この路線は国道1号線とよばれていたが、当時は舗装されていなかった。そして市民は市内間では電車を利用することはなかった。(戦後路線廃止)

注、ボギー車ーーー2軸または3軸の台車2組の上に車体をのせ、車体を自由に回転しうる構造の鉄道車輌曲線通過を容易にし、動揺脱線を防ぐので、客車・動力車などに用いる(広辞苑)。しかし沼津・三島間の電車が2軸4輪車であったことは私のあいまいな記憶による。

 駅は町の北端にあり、従って町の中心・繁華街はこの交差点より西南にある。

  私の家は沼津駅をでると駅前通りをすぐに左折東行し、沼津台地の坂を下ってから数ブロック、駅からは約500米のところにあった。

 坂の途中には左手に楠病院という大きな病院、警察署、森永製菓工場があったが、坂から下は、旧東海道筋の裏手に当たる新開地であった。街道筋と違って家は新しく、わが家から先は家もまばらであった。通りを一直線に東へ進めばついに日枝神社の参道にぶつかり、それを突っ切って進むと旧東海道に合体する。つまり、この通りは、三島方面からきた旧東海道の沼津駅に抜けるバイパスでもあった。

注、並行した南北の通り3本が、市の中心の骨格をなしている(昭和10年頃)。

 東より1本目が、北端より駅前、大手町、上土(あげつち)、通りが狭くなって魚町、港町。上土と魚町のあいだの十字路を東に曲がれば御成橋、西に曲がれば「通り横町」。

2本目は、北は大手町何丁目とかいったが、これはただの通り、中程より南が上本町、下本町。
上土、通り横町、上本町が繁華街であった。 

 3本目は、小学校があったが、これもただの通り、ただし南端は伸びて千本浜公園に至る。

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