新開地

 (わが家の所在地)

 新開地の名前は坂下から順に三枚橋(さんまいばし)と平町(ひらまち)といった。平町を土地の人は平(ひら)と呼んいた。沖積地帯農地の名残であろう。三枚橋は、多少古くから開発されていて、繭市場などもあった。平町は新設途上にあり、わが家付近から先の町並みは映画で見るアメリカ西部の開拓時代に似た雰囲気もあった。

 実際、わが家の筋向かいには、アメリカ帰りの1家が粗末な長屋を何棟も建て、自分も、そこだけは二階建てにした長屋の1かくに住んだ。店の中はがらんとしていて、花火を入れたガラス瓶だけが目立っていた。私より2,

2,3才年上の貞治(テージ)、おない年の譲治(ジョージ)という 2人の息子がいた。親父は長屋を建てた後はなにもしなかったので、1年足らずのうちに隣の店子の八百屋に 2階屋を明け渡し、1家はどこかに引っ越こしていった。

 なお西部劇風に云えば、わが家の横町を挟んだ隣は、4坪ばかりの植え込みを木の柵で囲った前庭を持った、ペンキ塗り 2 階屋で、『駿豆タイムス』という新聞社の看板をかけていた。記者上がりと称する主人と、奥さんと、奥さんの連れ子らしい娘さんがをり、痩せた貧相な主人は、和服姿でステッキをつき、いつも入れ歯をかたかた云わせながら、どこかに出歩いていた。棟続きの裏の方の仕事場で、たまには印刷機が動いていたことがあるが、奥さんや娘さんにやらせていた。

 『駿豆タイムス』の隣は、たばこ屋、パン屋。4,5軒先には蹄鉄所(ていてつじょ)があった。ここは親父と息子兄弟そろって真っ黒になって働いていた。フイゴで真っ赤に焼けた蹄鉄を金床で打ち、繋いだ馬の脚を後ろから自分の膝に抱えこみ、器用に蹄を蹄鉄に合わせて削り、釘を打っていた。いつも荷馬車の馬がつながれていて繁盛していた。

 わが家の東隣は、しもたやであった。主人は駅に勤める鉄道員だが、駅の仕事はランプ磨きで(注)、近所つき合いもなく、休みごとに地下足袋を履いて愛鷹山に、きのこ山菜取りにいっていた。この夫婦はどうやら通常の関係ではないらしい。カミさんは場末の商売女上がりらしいしゃがれ声の女で、弱気の亭主につけ込んで威張りくさっていた。どういうわけか、20歳前の娘さんが居り、カミさんにこき使われていて、私の母の同情を買っていた。その後1,2年で夫婦分かれしたのか、隣は貸家にして何処かに引っ越していった。貸家になったあとは、めまぐるしく借家人が替わった。魚屋になったこともある。

 その隣は、髪結い床。表はガラス戸で、土間と畳敷きのある、普通の店づくり。髪結いはオカミさんの職業で、亭主は電灯会社に勤めていた。その隣は下駄屋で、お爺さんがいつも土間で足駄の歯のすげ替えをしていた。その隣は理髪店、駄菓子屋、生け垣をおいて横町になる。

 わが家の向かいは、金物屋。その東隣は文房具屋、隣に例のアメリカ帰りの長屋がつづく。支那ソバ屋、経師(きょうじ)屋、魚屋、焼き芋屋、鶏肉屋、八百屋、そして長屋のオーナー、横町。

 わが家の横町を挟んだ筋向かいは、自転車屋。豆腐屋。洋服仕立て屋。若い主人が盛んにオートバイを乗り廻していた米屋。魚屋(後に夜逃げした)。へび屋。鉄工所。松風を焼く煎餅屋。その他。横町。

 

 わが家(通称セメント屋)は角(かど)にあり、横の通りに面して木戸と倉庫があった。倉庫の裏隣は、しもたや風の貸家。つづいて酒屋。酒屋には、いつも昼間から酒を飲んでいる「研(と)ぎ屋」と嫌われ者の仕事師がいた研ぎ屋は、天秤棒で道具の入った箱を担いであるく移動刃物研ぎで、昭和初期にはなくなった職業。駿豆タイムス社の裏隣はしもたや、小料理屋、空地。そして、酒屋と空地の角は丁字路になっていて裏通りとなる。大工の棟梁、電気メッキ屋その他。しかし、裏の通りは左右ほとんどが空き地であった。その空き地に、朽ちて壊れかかった按摩さんの家があった。

 裏通りの南側の家の裏は、空地をおいて、東海道の家並みの裏に当たっていた。東海道筋もこの辺に来ると活気がない。三島行きの電車が埃っぽい路面を走っている以外、古びた田舎街道筋の家並みである。

 

 わが家の向かい側の横町に目を移そう。始めの1ブロックは、銭湯、溶接屋、染め物屋等。奥に朝鮮労働者の飯場があった。つぎのブロックはトロッコで埋め立て中であった。その北側は高い台地で、坂道の左側は蓮光寺(れんこうじ)の裏の入り口、右側は台地を切って団体事務所の敷地を造っており、埋め立て用の土はこの残土であった。

 この蓮光寺台地は沼津台地の南縁で、日吉(ひよし)(台)とよばれ、日枝神社の森までつづき、その間、断続的に住宅地区があった。簡易な杉板塀を囲らせた小住宅で、勤め人、学校の先生などが住んでいた。わが町もこういう背後地を控えて出来ていたのだ。

 住宅地帯をすぎると、はるかかなたに見える愛鷹(あしたか)山麓の村々まで遮るものもない一帯が農地であった。

 山といえば、箱根山十国峠がわが家の通りから、東方真正面に見えた。富士山は愛鷹山の陰で、上半身の3分の1しか見えない。これは沼津の何処から見てもおなじである。

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 日枝神社の東側に女学校があった。我が家の前の通りは、駅から1直線の通りであるから、毎朝汽車通の生徒がひっきりなしに群をなして通る。どれもセーラー服、肩掛け鞄で髪は束髪、たまに一年生らしいのがオカッパであった。

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 わが家は角であるため、家の横に子供相手の物売りがきた。
 頭に小旗を何本も刺した盥(たらい)を載せ、太鼓をたたきながら歩く古典的飴売り。 しんこを餅を材料にして森羅万象を作り、中に蜜を入れる、しんこ細工屋。 水飴を棒の先でふくらましていろいろな動物を作る飴細工屋。 屋台を引いてくるどんどん焼きーー鉄板の上で、小麦粉を溶いたものをうすく伸ばし、きりするめ・天ぷらの上げカス・きゃべつをのせ焼いたものにソースをかけ、新聞紙の小片に載せたものを喰わせる。近頃のお好み焼きの前身だが、これは焼いてもらって2銭だ。
  鉄板を使用するものに焼きそばもあった。 枠の中に溶かした飴を流し込こみ鼈甲飴(べっこうあめ)を作る飴やもあった。同じ鼈甲飴で板状に伸ばしたものにいくつも小さいひょうたん型の刻印を押し、切り離して固まったものを懸賞クジとする。周囲の飴を欠いて、首尾よくひょうたん型を抜き取れば2銭の鼈甲飴を貰えるが、ひょうたんのくびれで折れてしまって1銭分で我慢することになる。カルメ焼きやもあった。

 食べ物のほかに、たまに猿回しや支那人の曲芸師もやってきた。猿回しは御存じのもの。支那人曲芸師は子供を含む5、6人の集団で、始めは地面に伏せた3のお椀を、かけ声を掛けた棒とともに、お手玉が動き回る手品、つぎは子供を交えた曲芸、最後に胃袋まで届きそうな剣を柄まで飲み込み、そのままの姿勢でよだれを垂らしながら喚いている男に、ほかの2、3人が周りの観衆から金を集めようと帽子か何かを持って廻りお終いになる。

 紙芝居屋が来るようになったのは私の中学生になった以降(昭和八年)のことである。私は紙芝居屋の飴をしゃぶる年齢を越えていたが、わが家の2階の窓から見下ろすと丁度具合のいい位置に紙芝居を見ることが出来た。

 

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