大火

 

 沼津の冬は風が強い。日本の冬の気圧配置が東低西高になると、沼津は晴天で空っ風の西風が吹く。富士山には笠雲が掛かり、駿河湾を渡ってきた風が伊豆半島に遮られて、出口を箱根山に求めたかのように容赦なく吹く。

 大正15年の年末、夜中に半鐘の音で起こされた。風は止まない。風で開けていられないような二階の西の窓から遠く火の手が見える。しかし、そのうちに火の手は広がってきた。後で聞くところによると、火もとは町の西南端であったが、町の中心部に飛び火して急速に拡大したという。

半鐘は擦り半(すりばん)となり、火の手は市の中心まで燃え広がった。火はだんだん近づくと見た父は、避難のための寝具を梱包し始めた。
      擦り半:近火を知らせるための半鐘の連打

 その頃になると、表の通りは、西からきて東の町外れを目指し避難する人の群でごった返していた。私は、恐怖にふるえながら店のガラス越しに、暗闇のなかで大荷物を背負った人や、リヤカーを引く人の群を見ていた。そばを横切った女の蒼白く鈍い顔を見た。・・・それから数年間、私は悪夢を見る度に、この光景で目が覚めるのであった。

 夜明けに火事はおさまった。というより、市の西南から発した火事は中心部を焼けつくし、北は汽車の線路に阻まれ(以北は農用地)、東は洪積台地の端までで終わった。わが通りでいえば、坂の途中ある楠病院、警察署、森永工場まで灰燼に帰し、台地下の小川の線で止まった。わが町内は無事であった。

 翌朝、トラックにのった父の知人が、キャラメルの入った大箱を店に投げ込んでいったので、しばらくはキャラメルに堪能した。しかし森永は沼津工場を閉鎖した。楠病院は防火壁だけを残して再建されず、防火壁はいつまでも立ち続けた。警察署は2、3年後に鉄筋コンクリート3階建て、消防署と1緒のため、塔の付いたりっぱなものができた。しかし、向かいには工務店とパン屋が出来ただけで、私が新潟高校に行くまで(昭和13年)、この坂道は、通りに面してほかに家が建たなかった。とくに南側は地形が大きくくぼんでいて向こう側まで潅木が茂り、城跡を思わせる地形であった。或いは、もともと家がなかったところかもしれない。
 城跡については、「沼津の作家と前田先生(芹沢光治良の巻)」参照

 就学前の幼児であった私は、火災直後の焼け跡を、この目で見ているわけはないが、店の壁に貼った市内の地図に、父が火災の範囲を書き入れていた。火災区域は、市の西南部から始まり紡錘状に中心繁華街を埋め尽くし、台地の東縁でむすんであった。

 翌年の春、私は小学校に入学した。学校は西方、辛うじて焼失区域から外れる処にあった。通学には2、30分も掛かっただろう。通学路の至るところ空き地があった。駅前大通り、電車が三島方面に曲がる十字路の1角は、いつまでも広い空き地になっていて、正月にはサーカスとか見せ物などのテント小屋掛けがにぎわい、通常時は香具師(やし)の人を集める広場となった。それで小学校の帰り道で、さまざまな口上と、虫歯を抜く薬、銀メッキする薬、縫い糸無しで着物を仕立てる方法などの実験を見聞した。

 中学時代は、狩野川を渡った香貫山(かぬきやま)の麓に学校があったため、このコースから外れてしまったが、卒業して新潟の高等学校に入るまで広場は空いたままであった。

先へ進む

目次へ戻る