鉄道

 

 丹那トンネルができるまでは、御殿場線が東海道本線であった。この区間は箱根を越えるため、蒸気機関車をもう1輌、列車の最後尾に連結しなければならなかった。そして沼津と国府津が上り下りのそれぞれ起点であった。

 そのため停車時間も長いから、駅弁売りが繁昌した。沼津駅前の1画には、工場のような広大な建物の「桃中軒」という駅弁屋があった。駅弁屋というと軽くきこえるが沼津市の名士で、現に当主O氏は中学(現高校)の同窓会長である。浪曲中興の祖といわれた桃中軒雲右衛門は、旅まわりの末、先代か先先代O氏に助けられて、その因縁で桃中軒を名乗ったという。

 沼津機関区も人員が多かったであろう。駅の東に線路沿いに、鉄道員官舎が幾棟もあった。そこから通う中学の同級生も3、4人いた。中学の1学年150人、その内沼津市内から通うものが半数と見て、市内から通う中学生のうち官舎組の割合が4〜5パーセントにもなる。

 昭和9年(1934)、丹那トンネル貫通、従来の沼津・国府津間は御殿場線となり、熱海線と云われていたものが、沼津まで伸びて東海道線となった。こんどは蒸気機関車でなく電気機関車になった。蓮光寺の裏に行くと、まだそこは駅の構内で線路が何本もある。そこに必ず最新型の電気機関車がいる。私はよくそこに行き電気機関車を見たものだ。電気機関車の警笛は、蒸気機関車のけたたましい汽笛と違って、フーという軽やかな響きで、なにか新しい時代を感じさせられた。

 その頃私はEF53という電気機関車の30分の1の模型を作るのに熱中していた。まず台車から始める。厚さ3ミリの真ちゅう板を糸鋸で切り抜きヤスリをかけ、万力とハンマーで折り曲げ、半田づけする。車輪の軸受けと5枚のバネを1枚1枚作って帯金で束ねる。すべて真ちゅう板の手作りである。これを動輪が12あるから、12個作らなければならない。かれこれする内にとうとう中学5年生の夏になり、受験勉強のため中止せざるをえなくなった。

   戦後、新幹線は東海道線沼津駅より遥か北、愛鷹山麓を通り、沼津駅の名はなく、代わって三島駅の名が脚光を浴びるにいたった。

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