洪作の青少年時代


 作家井上靖(やすし)の自伝的小説『夏草冬濤』(なつぐさふゆなみ)(昭41年)は、主人公洪作(井上靖の分身)が、始めのうち三島の親戚から沼津中学に通ったとき、徒歩組だったことから始まる。

 「井上靖は、明治40年旭川で、軍医井上隼雄・やえの長男として生まれる。井上家は伊豆湯が島で代々医を業とした家柄で、父隼雄はむことして入籍。41年、父が第7師団第27連隊付きで韓国に従軍したので母と伊豆湯が島に移り、翌42年、父の転任に伴い静岡市に転居。
 3歳の時、妹の出産のために里帰りした母とともに湯が島に移り、亡祖父の妾かのを、祖母として入籍し、土蔵に一人くらしていたかのに育てられる。
 大正3年湯が島小学校に入学。 大正9年かの死去。浜松の両親のもとに移り、浜松小学校に転校。10年静岡県立浜松中学校に入学。
 大正11年、父が台湾衛じゅ病院の内示を受けたので、靖は伊豆に近い、県立沼津中学校に転校、三島町の叔母の婚家に寄宿。


 三島と沼津の間には電車もあり、電車で通学する者あれば、自転車で通う者もあった。ごく少数の者だけが三島、沼津間の五キロの道を徒歩で通った。靖
(洪作)はその徒歩組の一人であった。

 ここまでは『井上靖展』(平成12)の年譜などに依るが、これから自伝的小説『夏草冬濤』『北の海』から、沼津関連の一部分を紹介しよしう。

「(沼津中学では)七月二十日から夏期休暇にはいったが、その日から十日間、静浦で泳ぎのできない低学年のために、水泳の講習会が開かれた。
 洪作は小学生時代を郷里の伊豆の山村で送って、夏は毎日のように川にはいっていたので、川なら、どんな急流でもそれに体をなけこむことができたが、海となると、からきし意気地がなかった。 

「去年の夏は沼津中学へ転校したばかりで友達もできていなかったので-------水泳の講習を受けるのは、こんどが初めてであると言ってよかった。

「静浦の海岸は御用邸があるくらいで、波の穏やかな、危険のないいい海水場だった。

「潮の中へ体を浮かすことはできた。泳ぎもすぐ覚えることがでた。ただ深いところへ行くことはできなかった。--------三,四人の五年がやってきた。洪作はボートにのせられて、飛び込み台のところへ連れて行かれ、その近くで潮の中へ投げ込まれた。洪作はすぐ飛び込み台の足の一本にしがみついた。----------
             井上靖『夏草冬濤』より

 これが『夏草冬濤』(文庫本上下二冊のうちの)一章の始めの部分である。

 五年生にいじめられた洪作は、あやうく溺れそうになったところを、金枝という成績のいい四年生の級長や、木部、藤尾らにたすけられた。木部と藤尾は煙草をのむ少年だったが、洪作には、自分などが知らない自由な楽しい時間が、彼らを取り巻いていると思った。.そのことがこの平凡なおくての洪作少年の心に、新しい何ものかをつけくわえるひとつのきっかけとなっていた-----
           同文庫本解説(小松伸六)より

 私(筆者)の経験では、水泳の講習は、泳ぎのできるできないに関係なく、一年生の全員が行うものであった。また、御用邸のある海岸には、静浦村(当時)ではなく、手前の島郷(沼津市)であった。静浦は山が海岸に迫っていて砂地部分が僅少であり、すぐに水面となり、海水浴場としては不適当である。昭和7年、ロサンジェルス・オリンピックで活躍した小池礼三選手(当時沼津商業)が出るなど、競泳選手向きではあるけれど。

 狩野川は、下流沼津市では、三園橋まて小型発動機船がはいた。三園橋と御成橋の中間には中学の艇庫があり、五月の開校記念日にはボートレース大会が行われた。
 狩野川もここまでくると汚れてきたないと言うので、沼津のこどもらも千本浜で海水浴をした。しかし、急深で波があり、プールの競泳向きではない。

 これに対して狩野川上流や、支流黄瀬川の淵は、水面が澄んでいて、波立たず、プールの競泳向きである。私の中学同級生では、沼津の住人は一人もいなっかた。

 私は、この草稿を書きながら、突然氏のことを思い出した。中学時代、親しかった友人で、彼はN高商へ入った。しかし戦争を挟んで、互いに疎遠になり、過去の思い出となってしまった。

 ところが、数年前、A氏と私は、東京の、小田急沿線私鉄の線路を挟んで、それぞれの丘の上に住んでいることがわかった。氏は、伊豆湯が島から、狩野川の支流、持越川をすこしさかのぼった持越(もちこし)の出身であり、中学時代には沼津の親戚の家に下宿していた。
 彼は水泳の選手であり、五年生の時は水泳部のキャプテンであった。少年時代、川で泳いだとか、洪作つまり井上氏と、平仄が一致する。さらに----

 井上氏は、戦前は無名の新聞記者であった。しかし戦後の昭和25年(1950)芥川賞をとるなど文学で頭角を現し、やがてその名も轟く大作家となっり、平成三年(1991)八十四歳で逝去した。

 私が氏の小説に接したのは『あした来る人』(昭29)、『氷壁』(昭31)時代であるが、その後公務にかまげて(?)ついついこの方面から疎遠になってしまった。 井上氏に興味を持ち始めたのは、私の退職後の最近になってこと、沼津中学の先輩であることをしってからである。

 A氏と戦後再会したのも最近のことである。私は、氏と井上氏とが、伊豆湯が島で結びつくとは考もせず、そのことを話題に乗せたこともなかったが、考えて見れば、そこに何かありそうでもある。今度あったとき聞いてみよう。

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