続『記憶のなかの沼津』  
    
        

               目次
 序   わが郷土沼津              ・井上靖と私の旧制中学高校時代の比較
 1ー1 戦前の沼津 沼津中学徒歩組の範囲      ・沼津中学の生徒(洪作の青少年時代)
1−2 戦前の東海道本線の北側         ・駅裏の集落
                        ・田んぼの中のプール
1−3 戦前の東海道線の南側          ・寺の娘郁子
                       (2行目の項は本文中関係ある部分のアンダーライン箇所をクリップ)
2   現代の沼津市
2ー1 現在の東海道線の北側
2−2 現在の東海道線の南側


          

       わが郷土沼津

 私(筆者)の家は、私が小学校に入る前の年(1926)に、静岡市から沼津市に移ってきた。四男だった父は、本家の建築材料業の支店として、沼津に店を持ったのである。
 私は、旧制中学を終えるまでの13年間、沼津の住人であった。
 中学以降、学業のために沼津を離れることになったが、その間に家は、もとの静岡に引っ越した。父は、一人子である私が、店を引き継ぐ意志がないことや、戦争経済で店の商売がしにくくなったことなどで、引退のように店をたたんで親戚身内の多い静岡へ戻ったのである。

 戦争最中、当時大学・専門学校は半年繰り上げ卒業制度をとった。私も昭和18年(1943)9月、大學を卒業と同時に海軍予備学生に採用された.。
 館山砲術学校で訓練を受け、翌年4月海軍少尉に任官し、トラック島の第46防空隊に配属された。

 昭和20年(1945)8月15日、トラック島で敗戦をむかえ、11月父のいる静岡市に帰ることができた。しかし戦災で我家は焼かれ、母は敗戦を待たずに亡くなっていた。


 昭和21年(1946)、私は農地開発営団に職を得て、3年ばかり、静岡県の富士山麓の営団の開拓事業所にいたが、その間、営団は戦時中に作られたものとして占領軍の命令で解散させられ、職員は自動的に農林省の役人になった。

 私は、はからずも農林省農地局の役人---国の公務員になリ、昭和23年勤務地を東京の農林本省に変えることになった。
 その後、あれこれあったが、関東農政局長を最後に公務員を引退、ある団体に勤めることになった。これが、かれこれ10年に及んだ末退職。今度こそ掛かり合いのない自由の身になったと、自称自由平の名前を使うことになった。

 この間、少年期を過ごした沼津には、縁がなかったが----少年時代の日々をおくった沼津は、なつかしい。


           
  (沼津)

 
 私は、数年前、『記憶のなかの沼津』(1997)を書いたが、それには「戦前(太平洋戦争前)の記憶」のみに限られ、「戦後の沼津」については何も触れていない。 また「戦前の沼津」にも洩れた「記憶」も多いはずである。というわけで、「戦前の洩れた記憶」と「戦後の沼津」に触れようと、(続編)を思いついた。

 ところが、いざ取りかかってみると、戦後は東京にいて、沼津を訪れたのは、初期の富士山麓時代を合わせても、3、4度しかない。それも他の場所を訪れたときのついでのことで、きわめて情報不足であることに気づいた。

 沼津を訪れたのは、最近といっても、近いものでも、5年の年月がたっている。戦後といっても、かいまみただけの印象。まさに〈記憶以前の沼津〉である。

 私は、この作文の内容が、ぼやっとして、山が何処にあるのかわらないと、発表を躊躇っていたら、最近手にした[香陵同窓会々員名簿](1995)等によって、作家井上靖氏が沼津中学の先輩であることを知った。同氏の自伝的エッセイ『私の自己形成史』、『青春放浪』自伝的小説『夏草冬涛』、『北の海』などで、氏が柔道の選手であったことも知った.。
   香陵同窓会とは、旧制沼津中学・沼津東高校の同窓会

 中学時代、井上氏は柔道、私は剣道。 旧制高校時代には日本海の、金沢で柔道、新潟で剣道。双方ともに学業は、あまり熱心な方ではなかった。
 彼と旧制中学卒業の年次差は、彼が上の12年だが、ともに、あいだに太平洋戦争を挟んでいる。
      中学卒業年次 井上靖、1926年:私(筆者)、1938年


 そこで、寄り道して、井上氏と私の中学時代高校時代の比較してみるのもよかろう。(ブルーのアンダーライン個所を押せ 
  (以降井上靖の沼津関係の作品をアンダーライン箇所で示す。)

 手許にある広辞苑(四版)や地図で調べてみると、 沼津市の人口は、戦前3万をちょと出たものが、20万7千人(昭和57年)とある。国土地理院の地図(5万分の1)は、平成8年修正としてある。 これも今となっては、ささか古いが、それでも戦前昭和10年代の4万人台に比較すれば、その差が大きい。
 これは戦後おこなわれた町村合併によったものと、戦前と戦後の人口過密度格差によったものである。


           1-1 戦前の沼津

 沼津中学徒歩組の範囲

 戦前、昭和10年代、沼津中学の生徒は、市内から徒歩で通うものと、近傍の町村から自転車に乗って通うもの、三島から電車で通うもの、東海道線を汽車で通うものとがあった。三島町は東海道線から、南に、ややはずれたところにあった。  

 昭和9年、丹那トンネル開通。東海道線は、沼津以東は、新設の三島駅を経由して、箱根山を貫通する丹那トンネルを通るものと、箱根山を迂回して越える御殿場線(従来の東海道線:神奈川県国府津駅で東海道線に合流)とに分かれた。 東海道線は、沼津以東、蒸気機関車に代わって電気機関車となった。

 トンネルの開通前、長い期間列車の試運転が行われていた。父の知り合いにその関係者がいたらしく、私は試験期間中の列車に乗せてもらった。当時,模型電気機関車マニャであって、実物の機関車を見たのが初めてだった私は、感激したものだった。
”箱根山、昔は(馬の)背で籠で越す、今じゃ寝て越す汽車の窓、トンネル潜ればまっくろけのけ”とか言う歌があった。

 そして徒歩組の範囲が、戦前の沼津市の行政区域であった。

 井上靖の小説の主人公洪作は、三島から沼津まで、電車に乗らず、5キロの道のりを、徒歩で通ったそうだが、私の時代には三島から自転車通学はあったが、徒歩通学など考えられなかった。



   (戦前の沼津)を、東海道本線を基準として南北に分ける。 

     
 1−2 東海道本線の北側

 戦前の沼津は、東海道本線の南側に発達した、と言うよりも、町の周辺北部に東海道本線が敷かれたと言う方が正しかろう。したがって、沼津駅には、南面の出入り口しかなかった。

 地方の田舎の駅で、出入り口が一つの場合、複線では、上り下りどちらかの乗降客は、改札口のあるホームからまたは改札口のあるホームへ、、線路を突っ切って、越さなければならない。
 しかし東海道線は違う。屋根壁付の跨線橋(こせんきょう)という、列車を跨いで渡る、屋根付の橋が、あったのだ。

 沼津駅の場合は、これまた違う。---東京駅にあるような---白いタイル張りの地下道があったのだ。

 静岡駅は、まだ、形の長い木造の跨線橋であった。
 沼津駅の白いタイル張りの地下道は、御用邸があったためだったであろう。私は、小学生時代、この地下道も、御用邸のあることも、沼津の自慢だと思っていた。

 沼津駅は、御殿場まわり、箱根山を越すために、列車の後ろにもう1台蒸気機関車を付けるための駅でもあった(もう1方の駅は神奈川県の国府津(こうづ)駅)。それで、機関車を入れ替えるための線路・装置とか、待機している機関車用の倉庫とか、線路・倉庫群が駅構内に、所狭しとあったので、地下道は行き止まりになっていた。

 駅裏の集落へ行くには、駅舎をでて、その西の並びにある貨物集積場の、も一つ先の、一般の市民が通る、薄暗い公共道路の地下道によるしかなかった。 この地下道から真北に伸びた道を挟んで、駅裏集落は、---紡績工場があったりしたが、せいぜいガードを中心に駅裏の鉄道施設を直径とした半円の範囲で納まっていた。

 沼津駅の東側、蓮光寺れんこういじ)脇にも地下道があったが、駅の入り口より遠かったし、沼津段差があり、線路に沿った道は無かったと思う。
 この地下道の北側には、私立の女学校がポツンとあるだけで、あとは愛鷹山(あしたかまや)麓の村々に到るまで見渡す限り田圃であった。つまり、戦前、東海道線の北側は、駅裏の集落を除いて、愛鷹山麓の村々---金岡村、大岡村まで、一面の田園地帯であったのである。

    ・この地下道が、戦後、旧沼津市街地を新市街地および東名高速道路に結びけるものになった。

・沼津段差とは、私が勝手に名付けたもの。成因やら名称は、その道の専門家の間では、常識となっていただろうが,そこに住んでいる沼津の人々(私を含め)は、知っていない。坂の名前さえ付けなかった。必要ではなかったためだろう。・図では狩野川の右岸、破線でしめしてある。北西が南東より約10米高い。河口付近は台地がもすこし南に伸びたかもしれない。(昭和十年代の沼津)参照

 

 私は、この駅裏地帯で、記憶に残っていることを2、3上げよう。

小学一年生のとき、金岡村まで遠足でいったことがある。 一年生は、初めのころ、携帯用の石版と石筆で絵や字をかいていたが、学年の末になると鉛筆になっていた。 その遠足の小さい鉛筆画が、これも6年間使うようにと学校がくれた紙袋に入れていた。袋も絵も遠い昔になくしてしまったが。

金岡村・大岡村は、戦後沼津市に合併し、ために沼津市は、愛鷹山の頂上まで版図を拡大した。

つぎは小学5、6年生ころの、「田んぼの中のプール」の話だが、長くなるので別項(田んぼの中をクリック)で示す。

つぎは、私は中学1年の学年末、しょう紅熱に罹って、駅裏の、人家を離れたところにある、伝染病の隔離病院に入ったことである。 当時他に伝染病の患者がいなかったためだろうか、患者に行き逢った覚えはない。早春の日差しに、伸び伸びと毎日を送ったという想い出がある。

 沼津の説明で、「東海道線の北側」を先に持ってきたわけは、この地帯が、田園から都市へと、戦後最も変わったと思われるからである。

     1−3 東海道線の南側:戦前の沼津 戦前の市街地は『記憶のなかの沼津』の付図と同じ

 戦前の沼津市街地の範囲:

 駅前の大通り大手町を南へ行く。大手町の終わりの十字路を(東に)左折すれば、沼津台地の縁で下り坂になる。坂の途中には裁判所と東京電力(名前が違うかもしれない)が互いに向き合っている。坂を下りきったあたリから、道路南側の家並みの裏は、狩野川がある。

 暫らく行くと右手に三園橋(みそのばし)がある。これは昭和初年にできたものである。あとは目立だったものがなく、人家つづき.で、日枝神社、県立女学校までで人家は終わる。 

 そこから以東は、東海道の松並木で、右手には黒瀬橋(くろせばし)のかかる狩野川があり、左は田圃地帯、 広重描く東海道五十三次のどこかにありそうな風景である。

 当時は、沼津駅前から三島町広小路まで、同じルートで路面電車が走っていた。
 また、駅前から、この十字路までは、歩道があり、昭和初年には道路全面のアスハルト工事をしていた。と云うことは、当時は繁華街の道でも砂利道であったのだ。

 この十字路の片側4半分は、広い空き地があり、毎年正月にはサーカス団や見世物小屋がやってきた。大正14年の大火の後遺症であり、この辺には至るところに空き地があった。
     

 駅前通り、大手町を直進すれば繁華街上土(あげつち)となり、上土通り末端の十字路を左折すれば、狩野川に掛かる御成橋(おなりばし)があり、左岸の地域には市役所、わが母校、したがって洪作(井上靖の分身)の母校沼津中学があった。
 十字路を直進すれば魚町、港町となる。井上靖『夏草冬涛』の主人公洪作の下宿していた寺の在るところである。

 十字路を右折すると、通横町(とおりよこちょう)。上土通りに平行な通りは本町通り。これも繁華街である。本町(ほんちょう)の中心部に、かっての本陣(江戸時代参勤交代のときに大名が泊まった宿)とよばれた植え込みのある料亭(?)があった。
 脂粉臭い下本町通りを南下して、右折(西行)すれば、すぐに右に浅間神社、左に千本浜(せんぼんはま)。千本公園入り口までは500米ある。
通りを直進すれば、片浜(かたはま)、原(はら)に至る街道筋になり、隣の町村まで家並みがつづいていた。

 駅前大手町の末端十字路を右折(西行)すれば本町通り、さらに西行すれば、私の母校、沼津第一小学校のある通りになる。駅前の通りと合わせて3本の南北に走る通りが、戦前の沼津市街を支える通りである。
 
 第一小学校西裏門の先に、白銀町、錦町、商業学校がある。このあたりから西の、海岸、国道沿い家並みと、愛鷹山の山裾部落間の巾は、狭くなる。

 東海道線の北側は愛鷹山麓の村まで田圃であった。

浮島(うきしま) 戦前の沼津市の範囲を出るのであるが、沼津の西を語る場合、浮島沼(1部富士市)をはずしてはならない。 

 愛鷹山の山裾と、---駿河湾にでたときの富士川の玉石を含む堆積物.が、冬期間に吹く強い西風の影響を受け、富士川以東の浜辺になった堆積物との隙間にできた、愛鷹山系沼川、高橋川、富士山系潤井川関連の沼沢地を含む、沖積地がある。

 これが富士川河口から沼津千本浜に及ぶ。富士川は急流である。駿河湾は急深である。堆積物と言っても海岸線は手のひら大の扁平の玉石であり、ようやく狩野川河口付近で砂浜に変わっていた。

 狩野川も沼津市部分は感潮河川であって、流れが緩やかである。千本浜の端の対岸にある島郷も砂浜である。
愛鷹山の山裾と富士川の堆積物のあいだの、巾1000〜2000米の沖積地帯には、その中に沼沢があった。
戦前には、その沼沢地、浮島沼が地図に載っていたはずだ。浮島沼には実際に葦の生えてる島が浮かんでいたという。
そして海岸沿いの細長い古代の堆積地を、現在も旧東海道も、東海道本線も通っている。

 戦後のことだが、私の西富士開拓事業所時代(昭和21〜24年)、浮島沼の干拓事業を、県の関係者から聞いたことがあった。沼津駅の西隣りの原駅からさらに西へ600〜700米のところから、沼の水を駿河湾に向かって放水する。それが工事中だったのか、完了なのか、私の記憶は定かでないが。

 国土地理院の1:5000の地図(平成7年版)によると、放水路の入り口に浄化センターという施設があり、周辺1000米四方は、荒地の記号が付いている。ということは、残りの隙間(愛鷹山麓と富士川堆積物)は水田と工場用地になったということか。
現在もこの地帯は、海岸寄りの長細いところに、旧東海道があり、今でも東海道本線が走っている。


 さて、浅間神社前の十字路を南下すると暫らくして人家がとぎれ、国技館という芝居小屋があった。芝居小屋と言っても、当時芝居はなく、われわれ小学生時代、学校主催の年に1度の有名語り手の童話を聞く会とか、大集団の借り手にかぎられいていて、通常は閉館していた。ここから、千本浜入り口まで、左右は水田(?)であった。.この水田地帯は、海岸の松林地帯に沿って細長くどこまでもつづいていた。細かく言うと、第1小学校の裏を流れていた川が、海岸松林地帯にじゃまされ、流れを松林地帯にそって狩野川河口付近までくる。そして、直接海にでたか、狩野川でか、私の記憶は、あいまいになる。

 海岸の松林地帯は、沼津付近では巾200〜300米の砂地である。
入り口には帝室林野局の看板が見える。千本浜公園がここである。老松の間に芝を植え、あちらには小高いところに東屋があり、こちらには、石積みの上に日露戦争戦利品(?)の大砲があった。
 若山牧水の
      「幾山川越えさりゆけば寂しさの果てなん国ぞ今日も旅ゆく」
と、歌詞を刻んだ大石が立っている。
 中学5年生の時、学校のプールで行ったクラス対抗の競泳で、相手の4年生の中に、牧水の息子がいると、誰かに言われたことを覚えている。

 松のある砂地が終わり、いよいよ礫(れき)になる直前が、駅から来るバスの終点である。そこには、外からも見える客間のある建物が路を挟んで2軒ほどある。井上靖の小説のモデルになった所であろうと思われる。と言ったが、私の小学生の頃には食堂の気配もなく、店頭に置かれた古めかしいのぞきめがねが、われわれの唯一の興味の対象であった。 食堂の気配もなくと言ったが、座敷へあがって食事をするなど考えてみたこともない年齢であったかもしれない。
 中学時代の夏休みに、公園より離れた、人のこない松林の中で箱船を作った記憶がある。

 

 昭和10年台の沼津を東海道線の南側は、狩野川の右岸と左岸に分けると、右岸は、いま述べたところである。 

 左岸について述べよう。

 東海道沿線で、東京名古屋間、線路をくぐらない河川は狩野川だけである。狩野川は、水源を伊豆半島中心に発し、北へ向かって、山をかけ下り、平地にでるや、左にUターンして駿河湾にそそぐ。沼津はUの字の右半部に当たる。

 沼津おける狩野川の左岸は、Uの内側、まさに最終回転をしようところから始まる。河の上流部には香貫山(かぬきやま)があり、それに連なる低い山々が、南北方向に海岸まである。狩野川は香貫山周辺では西行して、すぐに沼津段差にぶつかり、進路を大きく南方に取り、ややあって駿河湾にでる。この山々と狩野川の間に挟まった細長い地区の南端が、御用邸ある島郷であり、その西隣に狩野川の河口でもある我入道(がにゅうど)がある。

(戦前)沼津中学校グランド゙脇をえんえん南の、島郷に行く一本道がある。左右は、東には500米間隔で香貫山と南につづく徳倉山あり、西にはこれ見えないけれど同様の間隔で狩野川がある小規模の田圃地帯である。柳原(やなぎはら)の第三小学校は、徳倉山の山際である。

 私は中学の夏季講習会には、この道をてくてく徒歩で通ったが、小説.『夏草冬涛』によれば、洪作は三島から沼津の中心まで徒歩で通い、そこからバスで通ったそうだ。
:  この一本道は、現代の造成らしく、河より我入道と山よりの楊原地区の間の水田地帯を一直線に分断して通されたもの。
  戦後地図を買ってきて初めて、柳原は東側山寄りの地区であること知った。それまでは西側、河と海に囲まれた我入道のどこかに柳原はあると思っていた。

 また同小説では、沼津中学では夏期休暇の始めの10日間、静浦海岸の学校主催の水泳講習会があったという。三年生の洪作は、水泳部五年生のいじめに合い、四年生の木部・藤尾らにたすけられた.。小説の後半では、洪作は、こういう連中の仲間に入り、活躍することになっている。

 私(筆者)の記憶では、水泳講習は一年生のみがを受けた。洪作すなわち井上の時と条件が変わったとすれば、私の一年生の時、学校にプールができたことぐらいであろうか。
また、御用邸のあるのは、静浦海岸ではなくって、西どなりの島郷海岸である。洪作らの海岸も、小説ではともあれ、ここでなけれならない。その奥の静浦は山が迫っていて、山からすぐ海面になり、名前と通り波しずかだが、海水浴に適した砂地がない。
   


 
   2 現在の沼津市

 北は、愛鷹山(位牌岳:いはいだけ)を、裾野(すその)市、駿東郡、沼津市、富士市、に分けあった沼津市分(愛鷹山麓旧村々の持ち分)、
 
南は、伊豆半島の西の付け根、内浦湾沿岸部から、とっさきの大瀬崎(おせざき)まで、沼津市の範囲はひろがっている。
  *沿岸関係村を含む

 西は、中の町村を、富士市と沼津市で分けあった分。東は旧大岡村までか。


2−1 東海道線の北側   

 現在といっても、平成8年発行の国土地理院1:50,000の地図だが、沼津駅を北へ2キロ行くと(新)国道があり、ここから愛鷹山麓が始まる。
 愛鷹山は地図で見ると愛鷹山、位牌岳、鋸岳、越前岳と、南北方向に標高1000米から1500米級が、接近して峰をならべているが、南方沼津からながめると、総称愛鷹山のうち愛鷹山のみが頂上を見せ、その上に富士山が顔を見せている。、山裾全部は愛鷹山のものである。

 愛鷹山は富士山型緩勾配をしている。 富士山の噴火により愛鷹山北半分は、標高800米まで埋まっていて、愛鷹山北半分は、富士山の裾野に取り込まれたかたちであるが、沼津のように愛鷹山に近い南面からは、愛鷹山の影で、富士山の山裾は見えないのである。

 愛鷹山各市郡の分割方法は、愛鷹山の関係旧村の持ち分によったものと思う。この場合位牌岳を中心に360度地続きの旧村々に填める、富士山地方で行われた方法で、それを市町村区域に取り入れたのだろう。沼津市区域は南面した絶好の地域であり、2キロは平坦都市型区画整理地で、半分以上は建物密集地、500米四方以上もある工場が左右合わせて 四つもある。

 いま5万分1の地図を使って、沼津駅を基準(図面では、鉄道線上の最下部:地図の中央)として、北へ行くとしよう。2キロめの直角方向に新国道が通り過ぎる。これが愛鷹山の山裾の始まりである。この国道は、戦後できたもので、東へ1キロほど行くと、左右に分かれ、右は三島市を迂回して箱根山に行くルート、左は御殿場線にそって行くルートにわかれる。
新国道は新市街地を囲むように西へは、やや南方(西南西)に行き、東海道線まで500米の地点で、同線と平行に西北西へ行く。
山裾は東西線状に伸び、その上に旧来の村々がある。

 国道ラインを500米を北に上昇れば、新幹線ライン(標高30米未満)である。新幹線で東京から西下するものは、丹那トンネルをでて三島駅に止まる。、この三島駅をでると、沼津の街を見下ろし、駿河湾を遠くに眺めることができるが、沼津には、かすめるだけで、止まらない。
 『東海道本線は、ローカル並みになった』と旧制沼津中学出身のある経済評論家は嘆いた。

 新幹線の北500米(標高40米」)のところに沼津東高校がある(昭和42年新築移転)。これは昭和20年7月、戦災で狩野川左岸を焼け出された旧制沼津中学の移転後の姿である。

 新幹線ラインをさらに北に1500米(標高130米)を押し上げると、東名高速道路ラインに達する。
新幹線ラインと東名高速道路ラインの間は、図面で見みた限り、愛鷹山麓に向かって概ね500米ごとに山溝があるが、平面は5/100程度(図面上の概測)の緩傾斜地である。

 沼津駅の真北方向に、東名高速道路の沼津ICがある。このブロックは、高速道路をさらに北1500米まで、工業関係の団地がある。

 私は戦後東京に移ってきてからは、現役当時、新幹線や東名高速道路は何遍となく通ったことがあるが、沼津に立ち寄ったことは、前にも書いたように2度か3度である。駅の北側は、車の窓からの印象であり、それが事実であるか否か、判らない。-----戦前の記憶よりも、戦後の記憶の方が曖昧である。駅北部の話は次の事実を上げて切り上げよう。

 昭和40年代のことであった。東大が全学の問題として移転を考えたことがあるらしい。農学部のK教授らが、大學移転地として、この山麓を候補に上げたというが、このあたりであったのではなかろうか。
その後の経緯は知らないが、移転地問題は立ち消えになったものとみえる。

別の地図によると、駅裏から新国道のあいだ---戦前には田園地帯---に、6ほど学校の印が見られるが、新幹線より高い沼津東高は、大學移転を先取りしたものか。


    2−2 東海道線の南側

 平成7年の夏、息子の車で伊豆へ、家族旅行をした。河津温泉に1泊、翌日は天城越えして、狩野川の清流とともに下り、途中、内浦湾にでようと、修善寺を過ぎたあたり、適当な箇所で左折した。
大瀬崎(おせざき)にでる途中の道で、内浦湾にでた。湾の内懐(うちぶところ)にある三津(みと)まで、東に向かって何べんのもの小岬を越えなければならなかった。海岸と切り立った山で、わずかに道路を切り開いたというところである。
 これが、現在の沼津市の南端である。

 重寺(しげでら)、江浦、その他密集帯には、海側にも家が建ち並び、海が見えない。君の家はどこにあったかと、中学時代を思いだす。
いま地図を見ると、狩野川の放水路が、背後の山の低いところを切り開いて、江浦湾にでてる。放水路の入口は伊豆長岡町である。
いつか、この水路に沿って長岡町から海岸に抜けたことあった。放水路は戦後できたもの。そうすると、この海岸には、戦後も2回は来たことになる。

 元御用邸のある島郷の海岸で芹沢光治良文学館を見た後、戦後できた港大橋で、狩野川を右岸に渡る。右岸の河口にはこれも戦後できた沼津港がある。港は、沼津駅から真南、大手町・上土・魚町をへた2キロにある。
戦前は、砂浜に突堤があるだけで、千本浜の中心地帯より1キロもはなれいて、釣り人以外には関心の無かった地帯であったが 今、食堂や土産物売り店が軒をならべている。エレベーターのある店の二階でで昼食をとる。   
 注 芹沢光治良も沼津中学の先輩で我入道出身である。「記憶の中の沼津」参照

 午後、千本浜公園に行く林道を。車で走らせる。途中井上靖文学館がある。井上の洪作もこの浜で活躍したのだ。急ぐ旅でないけれど、今晩は箱根だからと、井上文学館を横目で道を急ぐ。林間に洋風の施設めいた建物はあったが、期待した千本浜公園にでないまま、もときた道を帰ることになった。

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 わが家族の車は、今夜の宿、箱根目指して行く。(1997年の旅)

       (2003,1)                    

 念のため日記を調べてみたら、上土通りで山葵漬けを買ったのは平成7年ではなく、平成3年10月のことであった。7年の夏は日記にブランクが多く、旅行の記事は見あたらない。たまたま3年の日記を引き出したので、その箇所を書きぬいてみる。

平成3年10月24日、小田急特急にて湯本経由、ロープウェイ,湖尻、さらに箱根園、ロープウイで駒ヶ岳、霧のため視界悪し。再び湖尻xホテル、夜半雨。

10月25日、夜半の豪雨やまず、したがってタクシーも手配できず、雨中をバス乗り継ぎで沼津へでる。昼過ぎなり。
 上土(あげつち)通りで、山葵漬けを買う。いつかの中学の同窓会であったN氏が婿養子にいった先の店である。
 内儀らしい婦人が、彼は医者に行ってきて、いま睡眠中だという。私は訊ねた訳を語らず、辞す。

 かっての繁華街が寂れ、上土通りよりも、その裏通りが活気があるように見えた.。
 駅前の食堂で昼食。魚はなかなかうまい店なり。沼津より「朝霧号」グーリン車で帰る。-----
 「妻との箱根旅行は4回目となった。

     (修正2003、3)

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