田圃の中のプール

     これは戦前の話であるが、洪作の話ではなく、筆者自身の思い出話である。

 私は、小学5年生か、6年生(昭和5〜6年)のころ、蓮光寺の裏の、東海道線の北側を、北へちょといった先の田圃の中に、一ぷう変わったかたちの用水池があることを発見した。 というのは、愛鷹山の村落の村々まで、田圃つづきで、小学生の私らにとっては、魅力がなく、このあたりには来たことがなかかったのだ。

 誰が企んだものか、50米を取れる長方形造で、コンクリートの打っぱなしの用水池で、池の真中に水神さんを祭った島があり、沼津中学と沼津商業の水泳選手が、島を挟んで仲良く練習しているプールであった。

 プールの長辺の壁面には、片隅にプールに出入りする鉄の金具があったが、水を調節する溝がない。コンクリートの地肌が、のっぺりしている。たぶん水位は田圃の水位で、田圃の水は流れ込み、流れ出る仕掛けになっていただろう。

 バックストロークの選手は、プールの外にいる者から、手ぬぐいをおろしてもらって、その先を掴んでスタートの構えをしなければならない。

 用水池の周りには、柵も結ってないから、誰も自由にはいれる。中学、商業の選手がいない時には、ご飯つぶで釣り糸を下げたり、自由に泳ぐことができた。水を吸い込むと、麦わらの匂いが、ぷーんとしたものだ。

 選手が泳ぐときは、コースを引くための綱と浮きが必要であるが、綱を受けるプール側はどうなっていたか、無関心であったせいか覚えていない。

 ブールは、何時、誰が、何の目的で造り、その後はどうなったか、私は、プールとは、一夏きりの付き合いで終わってしまい、知るよしもない

 昭和7年(1932)は、米国ロサンジェルスでオリンピックが行はれ、水泳は日本が大勝した年である。
 そのとき、沼津商業の小池礼三選手は、200米平泳ぎで、予選で世界新記録、決勝ではベテランの大学生鶴田選手に勝ちをゆずって2位であった。

小池選手もこの用水池プールに泳いだはづだ。彼は静浦村(現沼津市)出身であった。ロス・オリンピックの数年後のことであったが、私は友人に招かれて、この村に行った際に、村には海上にブール紛いの施設があったことを覚えている。

 沼津商業学校に、学校の中のプールができたが、その前年のことか。

 私が中学に入った年(昭7)には、中校にも25米プールができていた。
   このプールもスタート台というものがなく、両サイドも、高さは一緒。

 「田圃の中のプール」のことは、長年月、私の意識の中から外れたものになっていた。

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