わが母校
   沼津中学時代の作家井上靖





1 作家井上靖の中学時代から太平洋戦争末までの年譜
    


 作家井上靖は明治40年(1907)旭川で、軍医井上隼雄の長男として生まれる。明治43年妹の出産のため里帰りした母とともに伊豆湯が島に移り、亡曾祖父潔の妾で、祖母として入籍され土蔵に一人で暮らしていたかのに育てられる。大正9年(1920)かの死去。浜松の両親のもとに移る。

  井上靖の中学時代(1921年)より太平洋戦争終結(1945年)までの年譜

大正10年(1921)14歳  浜松中学入学
大正11年〈1922〉15歳  父台湾衛戍病院長の内示を受けたため沼津中学に転校、三島の叔母の婚家に寄宿。
大正13年〈1924〉17歳  図画と国語の教師 前田千寸、学友の藤井楠雄、岐部豪治らの影響で詩歌や小説に興味を持ちはじめる。
大正14年〈1925)18歳  .4月、沼津の妙覚寺に下宿。秋に学校の寄宿舎に入る。
大正15年〈1926)19歳  沼津中学を卒業。静岡高校の受験に失敗。

昭和 2年(1927)20歳  金沢の第四高校(理)に入学。柔道部に入る。この年、徴兵検査甲種合格。
昭和 3年(1928)21歳  静岡三十四連隊に入るが、柔道で肋骨を折っていたので即日帰郷。インターハイに出場。
昭和 4年(1929)22歳  この年より詩の発表盛ん.。4月、柔道部の主将となるが、部の伝統と左翼学生運動のあをりを受けた急進派の間で苦労し、間もなく退部。東京の福田正夫氏の詩誌「ほのほ」にも加わり、詩を掲載。「高岡新報」「宣言」「北冠」などでも活躍。
   (以下文学関係の記載多数あるも、略す)

昭和 5年(1930)23歳  四高卒業。九大医学部の受験に失敗。同大英文科に入学。大学に興味を失って上京、文学に傾倒。
昭和 6年(1931)24歳  満州事変勃発。
昭和 7年(1932)25歳  静岡第三十四連隊に応召、半月で解除。京大哲学科に入学。講義に出ず、雑誌の小説懸賞に応募。

昭和11年(1939)29歳  京大哲学科卒業。大阪毎日新聞社入社。
昭和12年(1937)30歳  日中戦争に充員として応召、名古屋第三師団野砲兵第三連隊の一員として北支に渡る。 11月、脚気にかかり、野戦病院に送られる。
昭和13年(1938)31歳   1月、内地に送還、3月召集解除。

昭和20年(1945)38歳   毎日新聞社参事になる。終戦記事を書く。
  (以下略)

 (平成10年(1991)84歳   死去)
                      注 世田谷文学館開館5周年記念『井上靖展』(平成12)年譜より抜粋

 世田谷文学館『井上靖展』(七、世田谷の日々)によれば、(井上靖は42歳で遅い作家生活を出発させたが、平成3年、83歳で生涯閉じるまでに2千以上の膨大な数の作品を残した)。

 しかし私は市販の新潮文庫本しか知らない。現在、他に市販のものがないところを見ると、おそらく私が利用できるものは、この新潮文庫だけだろう。これによると井上靖の作品中、沼津関係の作品は、と言っても彼の中学時代の足跡に限られるが、22冊中2、5冊、およそ一割である。2、5冊とは、下記の作品を読んでみた上の私の概数である。

   上記の表を補足すると、昭和4、5年より文学活動活発、各種雑誌に応募、入選。
  昭和25年(43歳)小説『闘牛』により芥川賞。昭和26年(44歳)毎日新聞社を退社、作家活動に専念。

  沼津関連作品名、執筆年次
  『あすなろ物語』昭29、『私の自己形成史』昭35、『青春放浪』昭37、『夏草冬涛』昭39、『北の海』昭43
     
 
 (参考)筆者の略歴
  
(自由平の同年次の略歴

大正9年(1920)      静岡市に生まれる。
昭和2年〈1927) 7歳   沼津第一小学校入学。
昭和8年(1933)13歳   沼津中学入学。
昭和13年(1938)18歳  沼津中学卒業、新潟高校入学。
昭和16年(1941)21歳  東大(農)入学。
昭和18年(1943)23歳  東大卒業、海軍予備学生。
昭和19年(1944)24歳  海軍少尉、トラック島へ赴任。
昭和20年(1945)25歳  敗戦、海軍大尉、内地へ帰還。
昭和21年(1946)26歳  農地開発営団西富士出張所勤務。
   (以下略)



  井上靖、中学時代を語る

 2−1 沼津中学     

 沼津の生活で、井上靖の得たものと、彼自らを語っている。

 「私は中学時代は静岡県の二つの都会地で送った。一年の、ときだけ、両親のもとから浜松中学へ通ったが、二年のときから台湾へ転じた家族とはなれて、郷里の伊豆半島の基部にある沼津の中学へ移り、そこで寺へ下宿したり、寄宿へはいったりして通学した.。

 沼津の生活は、いま考えると、この場合も責任ある監督者がいなかったので、ひどく野放図なものであった。勉強というものはほとんどしないで、四年間毎日のように友達と遊び暮らした。

 郷里の山村と違って、ここは小さいながら都会であり、海もあった。私は友達と日課のように海浜の松林をうろつき回った----」
「怠惰というか、自由というか、何ものにも拘束されない少年時代を送ったのであった----」.     
    井上靖(『私の自己形成史』(昭35)より

 井上靖のエッセイ的作品青春放浪(昭37年)では、沼津中学時代の仲間で、彼に最も大きい影響与えた3,4人の文学好きの友人があったを述べているくだりがある。(井上は沼津中学、大正15年卒業)

 「------こうした友達のなかで、私に最も大きい影響を与えた3,4の文学好きの友だちがあった。いずれも上から落第してきた連中で、四年のとき、私は彼らの仲間に加わり、彼らとに付き合うことによって、なんとなく文学と中学生らしい放埓の、両方の洗礼を受けることになった。

        カチリ
        石英の音
        秋

 こんな詩を見せてくれた友だちがあった。沼津では一番大きい紙問屋の一人むすこで、私たち仲間の餓鬼大将であった。
 
 「岐部は短歌にかけては天才といってもいい少年だったが中学卒業後まもなく物故し、松本は中学卒業後すぐ『改造』の懸賞に応募して、戯曲「天理教本部」を発表し、そのまま左翼運動へとはいっていった。
金井も中学卒業ころから詩を中央の雑誌に発表したりして、詩人として名を成すのかと思っていたが、医者になり、やはり左傾して今日一本の道をあるいる。
私の詩の開眼者である藤井寿雄も仲間のおつき合いでいった形で一時左傾したが、今日は家業の後を継いですっかり収まっている。

 中学時代の私(井上)の仲間はこのに上級学校へすすむと、次々に左傾していったが、中学在学中はいずれも学業には怠惰で、そのくせ読書好きな、早熟で、反抗的な少年たちだった--」
 
     井上 靖『青春放浪』より (昭37)

 井上靖の中学時代の仲間は上級学校へすすむと、次々に左傾化していったが、彼は第四高等学校に入り、柔道部で、それまで自由放任していた自分を縛りつけたという。つまり、学生(運動)のための左右両極が明けられいた時代であった。井上の中学卒業年次は、大正15年(昭和元年:1926)。
(井上氏の頃、高校で大いに流行り、威勢もよかったのは「左翼学生」の方で、運動部とくに柔道部となるとお互い「犬猿の仲」ともいう程だったらしい。----佐伯彰一 世田谷文学館館長)

 私(筆者)の沼津中学時代(中学卒業年次昭和13年)には、左傾化の道はと閉ざされ、軍国主義一編当の時代であった。  例 マルクス関係の図書発売禁止
 

2-2 前田千寸先生

 「(井上は)中学時代の教師にはおおむね反抗的であったが、一人だけ何となく気になる教師があり、この教師にだけは頭があがらなっかた.。私(井上)ばかりでなく仲間の全部がそうだった。前田千寸という図画と国語の教師で、------何となく魅力を感じ、彼だけを一人だけさんづけで呼んだ」
 「この教師に、私は終戦後に、中学卒業いらい始めて会って、彼が『日本色彩文化史の研究』という大著に取り組んでることを始めて知った.----------全部の仕事が岩波書店から出た『日本色彩文化史の研究』
と言う大著書として完成した-----」.
   
                 井上 靖(『青春放浪』より (昭37)

前田千寸先生は、私(筆者)の中学時代は嘱託として図画、工作担当。著書のことは戦後も最近井上氏の書物で知った。
 
拙稿『記憶の中の沼津』(沼津の作家と前田先生)参照

3 柔道

 「(私:井上靖の)父が台北から金沢へ転じたのて、私は一緒に金沢へおもむき四高を受験して、そこに入学した。一年の間だけ家から通学したが、また父が弘前へ転ずることになったので、私は下宿へ移ることになった。

 この四高時代の生活において、私は初めて北国の陰鬱な天候も、降雪もまたその天候のもとで物を考えるということも知ったのであった。高校時代には柔道部にはいっていて激しい部生活を送っていたがこれによって私はそれまで自由に放任していた自分を初めて外部のもので縛りつけたのであった。---- 
(井上靖『私の自己形成史』昭35)


 洪作(井上の変身)の故郷湯が島で、彼とくめさんと云う老人との会話,

 「今夢中になれるのは柔道ぐらいしかない」
 「柔道とは、また変なものを捜し出したもんだな。---もうちっと増しなものはないもんかな。---が、まあ、それもよかんべ。とうせ親の脛をかじってやるこっちゃ。柔道でもよかんべ----------」
      

蓮実という青年が洪作に吹き込んだ四高柔道部のモットーは

 「学問をやりに来たと思うなよ、柔道をやりに来たと思え」
 「この世に女はないものと思え」
 「いっさいものは考えるな」「練習量がすべてを決定する柔道を、僕たちは造ろうとしている。それは寝技」------目標はただ高専大会で優勝することである。
小説:『北の海』井上靖 昭43

これら随筆も小説も、事態は大正15年(1926)頃の話である。


 私(筆者)は新潟高校で、大学の先輩のから(剣道の)目標はインターハイにあることを叩き込まれた。しかし、インターハイは、私が大学に入った年に廃止となった。そして、この年(昭16・1941)の12月8日に太平洋戦争が始まった。 
      インターハイ=高等学校・専門学校の大会:東大主催):京大でもあったのか?


4   左傾化、軍国主義、敗戦

 大正末期より昭和期20年までの日本の社会は:前半は左傾化と軍国主義化がせめぎ合い、後半は軍国主義が勝ったかに見えたが、底をつき、日本は敗戦をまねいた。

 私(筆者)は不用意に、左傾化と軍国主義を対立するものとしたが、実際は『持てる国』と『持たざる国』の対立として、第2次世界戦争(米英仏米対日独伊)が始まった。「持つ」「持たない」と云うのは、殖民地・領土・(資源)とうのことである。日本の相手国はアメリカであり(太平洋戦争)、終戦間際にはソ連も相手側陣にあった。


昭和元年から太平洋戦争終結までの20年間をみる。 

 井上靖は、前半、気候温暖の沼津から、気候厳しい金沢の第四高等学校へ入り、部活動は柔道部であった。私は10数年後、沼津から、同じ日本海沿岸の新潟高等学校へ入り、剣道部だった。両者の環境は似ている。学業には関心がなかったことも似ている。

 しかし、前半は、大不況、失業、農村の疲弊の社会問題があり、井上の友人達は、中学卒業後左傾しているが、彼は学生の左傾化に対抗して、柔道の道を選んだのか。

 彼の戦前の軍歴を見ると、徴兵検査は甲種合格、肋骨を折った経験があるゆえ即日帰郷となっている。当時の徴兵検査は、たぶん甘(辛?)かったのだろう。
 そこが「ごくらくトンボ」と言われる所以か。
 
 後半は、日本の遅れた帝国主義、大陸侵略、日米開戦と敗戦であった。
 私(筆者)ら若者は、有無を言わさず、戦争に駆り出され、名誉あるモノと信じ込み、あるいは、込まされ、死か、敗戦を体験させられることになった。

 戦後、彼は昭和24年度の芥川賞を受けた。井上の作品には、戦前の多くの友人の左翼化にも拘わらず、また戦後昭和20年代物書きの左翼的風潮にも拘わらず、私の読んだ限り、彼がこの問題に触れたのは『青春放浪』(昭37)の一節のみで、それも、われ関せずの態度であった。
 アンチ左翼派のためか、起きた事象と書く時が、離れすきたためなのか。


   沼津関連の作品『夏草冬涛』等から、この沼津中学大先輩である井上氏の力を借りて、私の「沼津の想い出」に、色取りを加えることにしよう。

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