沼津駅裏と小説『北の海』

 この辺で、ちょっと作家井上靖の作品『北の海』の洪作(井上自身のモデル)に移そう。彼はまだ中学浪人で沼津の港町の寺に下宿した頃の話。
 中学の化学教師宇田に誘われて、宇田の家へに行った。

「---宇田の家は駅の裏手にあった。駅の木柵に沿った道を暫く行き、踏切を越えると、あたりは急に寂れた、いかにも町の裏側といった感じになる。農家と社宅らしい長屋とが入り混じっている区域である。洪作たちもメッタにこの地帯には足を踏み込まない。踏切を越えたとき、化学教師はいま洪作が感じていることと丁度正反対のことを言った。

「同じ沼津と言っても、この辺はいいだろう」
「はあ」
洪作は曖昧に返事をした。冗談じゃないといった気持ちだった。

「富士が美しい」
宇田はちょっと足を停めた。なるほど富士は美しく見えている。富士山まで遮るものがなく、ゆるい傾斜で平原が拡がっているので、いかにも富士の裾野に立って、まなかいに富士の山容を仰いでいる感じである。
「やはり富士という山は美しいね」
「はあ」
ーーーーー」
     井上靖『北の海』より

  この場面は牧歌的である。主人公洪作の時代には、駅西の地下道はできていなかったのか。
 それはともかくとして、小説とはいえ、斜体の箇所はおかしい。

 ゆるい傾斜は、愛鷹山(あしたかやま)のものであり、愛鷹山の山裾の前に広がったものは沖積平野である。富士山の山裾は、愛鷹山が左右にブロックしていて、沼津からは見えない。富士山は、頂上から3分の1ぐらいしか見えない。愛鷹山も、山裾は、かなり緩やかである。

 富士山は、同方向でも、伊豆湯が島あたりでは、富士山と愛鷹山が沼津より遠距離にあるため、山裾付近まで見えるのであろう。
 それで作者は、沼津も富士山が麓まで見えると錯覚したのだろう。

 田圃を平原に見立てのも、戦前の沼津を知ってるものにとっては変だ。

 『北の海』は昭和43年作品が、洪作(井上)が沼津中学を卒業したのが、大正15年(昭和元年)の出来事である。執筆時と40数年の隔たりがある。、その間御本人は沼津には不在の人、頂きが富士山であれば山裾は愛鷹山でも気にならないと、沼津の風景を誤ったか。自伝的作品とはいえ、小説である。人畜無害説をとるべきか。

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