K先生からの手紙 一九九七、七、二三
         


 

 本年は近来になく高温猛暑の夏ですネ。夏ずきの小生も少々めんくらって居ります。先だっての晩は、急に朝方になって冷気が襲来して(冷房のせいもありありますが)ついにホカロンのお世話になる等イヤハヤお話しにもなりません。さて先日は

  自由平自分史断片   『記憶のなかの沼津』

御送付いただき座右はなさずー拝読して、たびたび読みかえさしていただき大いに楽しい思いをさせていただきました。と申しますのは、私のなつかしい時代の思い出と重なるところ処が多々あるからであります。つまらぬこですが少々書かせていただきます。

(沼津の思い出)
 私が初めて沼津を知りましたのは大正十二年でした。この年の一年後に貴兄が沼津にうつられたのでせう。
あの時の沼津は私は一生わすれない思ひでヨイ思ひ出があるのです。
ヨイと云ひましたが、所がサビシイ思ひも一緒です。

 大正十二年秋、高等学校(一高)の一年生で学校の発火演習に全校そろって出かけたのです。
貴兄のご文章にも、出て居るのですが、あの時、三島方面で演習をして、三島から沼津に歩いて出ました。線路があったのが記憶にありますから、多分貴兄のお宅(その三年後のこと)の前を通ったのかも知れません。

 沼津駅前の通りから、千本松原(沼津の海岸)の方に歩いて右にまがった処あたり鳥居があったと思います。そのまがった通りの右側に一寸大きな宿屋(注1)があり、そこへ一泊したのでした。
そこの二階から通りを見下ろしたときの、サビシイと云うか悲しいというか重々しい気持ちを今も忘れません。

終戦後二、三回沼津に行きましたが、そこは鳥居と宿屋はまだあった様に思います。あの時から一年後に貴兄が静岡から沼津に、うつられたのですネ。

 ついでに申しますと貴兄の昭和の年数から一を引いて大正になおすと、それが小生の小学、中学、高校の年代になるようです。注(2)

 

(大瀬崎:オオセザキ
 その後昭和二年に、掛川の早大等の仲間と兄も一緒でしたが、大瀬崎の小さな宿屋に合宿して、研究会をやりました。あの海でのんびり数日をすごし、晩に京大の人から、社会科学の講義を聞きました。
兄の友人の早大文学部の一人が海をじっと見つめながら「自由とは認識された必然である」と何どもうなずきながら一人ごと云っているのを今も思い出します。

 海のキレイなことをその時始めて知ったように思います。(浜名湖の水はあまりきれいではありません。前浜の遠州なだは、波が高くて、キレイ処ではありません。

 それから五年後、大学に残ったばかりの頃、T君と東大の水泳部(戸田)に行きました。その帰りに桃中軒のカキフライかなんかを味わったものです。
毎年水泳に行きました。昭和十年が最後でしたが、実によい思い出であります。

 昭和十四年頃冬、大瀬(戸田)の宿に、H君と一緒に「分村の前後」をまとめるために数日泊まりで行きました。
皆なつかしい思い出であります。

(千本浜)
 その他、別の友人と、沼津千本浜に行きましたし、又O君が(農大在職中)胸を病んで沼津千本松付近に、休養していたことがあり(O君は原村と云ったか沼津付近の出身でした)海岸で、クロダイ釣りを楽しんでいたようでした。 
あの辺のことはO君からよく聞かせてもらいました。富士山麓の近くの村人を海岸よりの村人は「根方
(ねが)もん」と云ってバカにしているとか、子供時代の遊びについてはO君の方が私よりも一枚も二枚も上のようで、遊び方をよく知っているようでした。

 あなたのどこかに(「記憶のなかの沼津」追加中の)ありましたが、中学に入ると村八分と云うのか、私の処では、ソレホドでありませんが、中学に入るとマチの集団の行事(殊にお祭りの役づけ)等は完全に解放されたものです。その代わり一寸の外出でも制服かはかまを付けないと出られないと云う風でした。だから子供の遊びについての教養は小生はきわめて、少ないのです。  

 

(文学)
 文学については小生はあまり読んでいませんが、それでも、貴兄の上げられている三氏
(注5)については、少々読んでいるようです。
 井上氏のものは歴史ものはムツカシク、又「孔子」どうも読みにクイ。ニガテにしていますが、沼津のことを書いたものは、親しんで読んでいます。伊豆の山々や沼津海岸のこと眼にみえる様に書いてあったと記憶しています。又ヒッパリ出して読んでみませう。

 その他、「士族と平民」について貴兄は静岡市出身であられるから、私よりハゲシク感じて居られるのでせうが、小生の身のまわりでも、貴文を読みました??を思ひ出しますと、その通りに感じる様に思ひます。サホドひどくみませんがトニカク、小生の一年生の時の先生は老人の武家でしたが、大山(?)か、少々コバカにしているので、私としてはあまり、ヨイ気持ちがしませんでした。

 (略)

 猛暑の時節くれぐれも御身ご大切に願ひ上げます。とりあえず、右御礼まで。 匆々

    七月二十三日                 Kーーー

    自由平様机下 


自由平から K先生への手紙  一九九七、七、二八 

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拝啓、お恵送下さいました暑中お見舞いの御品、有り難く頂戴いたしました。

 また、沼津についての思い出の数々をお聞かせ下くださいまして、まことに有り難く存じます。
先生の方が私より、沼津を訪れたのが先とは、考えて見れば当然のことかも知れませんが、今までついぞ先生と沼津を結びつけて考えたことがありませんので、大変嬉しく(?)、新発見のように感じられます。『ねかた』ということばも半世紀ぶりに思い出しました。

 私が戦後、沼津を訪れたのは、西富士にいたとき一、二度、種子協会を退職してから二、三度で、親しくしくしてきた人はおらず、こちらが異邦人みたいです(沼津には親戚はなし、中学時代の友人が二、三人おりますが、市内にはおらず、訪ねるほどの仲でなく、小学時代の仲間はたいてい商業学校にゆき、以来思い出のみの仲間です)。

 数年前、まだ脚もしっかりしていた頃、わが家の跡を探してみましたが、何処もほこりっぽい薄汚れた町(中に住んでる人には失礼)になってしまい、このあたりにわが家があったはずと思うところには、いかにも場末風のラーメン屋がありました。
子供の頃、わが町は成長発展するものだと思っていましたが、すでに老年期に入ったようです。 

 繁華街も、上土(あげつち)や本町もなんとなくさびれ、代わってもとの裏通りが活気があるようです。

 千本浜も防波堤がぐるっと海を取り囲み、海中にはテトラポットあり、松林も密植され、むかしの情緒はありません。すくなくとも、私の住んでいた頃には、海に関する災害は聞いたこともありませんでした。公共事業のし過ぎでなければと思います。

 秋にでもなったら、息子の車で、もう一度沼津に行ってみようと思っております。今度は狩野川の河口近くにできている橋を渡って、芹沢氏の我入道までいってみようと思います。

 

 右お礼のつもりが、ついキーが滑りました。

 盛夏の候、どうぞお身体お大事に、ますますお元気になられんことをお祈りたします。  敬具
      七月二十八日                        自由平

  K先生机下


 (ほんらい「芹沢光冶良と宗教」に収めるべきもの)

・自由平から K先生への手紙    一九九七、七、一二、七 

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拝啓 相変わらず、ご無沙汰いたしておりますが、先生にはお変わりございませんか、お伺い致します。私の方は相変わらずとは行きませんが、何とかもっています。

 沼津の作文で、興味が移り、今年の老人の日に、我入道の芹沢文学館を訪れました。以来、芹沢氏の宗教が、気に掛かり、関係の本を読みあさっている内に、十二月になってしまいました。

 実は、私の七十七歳の祝にと、新しいパソコンを買う気でおりましたが、芹沢氏のことが気に掛かり(新しいものどころではない、芹沢さんの方を片づけてしまえという神様のご命令でーーー芹沢氏のまね)、十二月に入ってから、ようやく片づけて(?)、新しいパソコンを買いました。

 ところが、驚きました。かねてから聞き及んでおりましたが、来て見てビックリ。(先生、御承知でしょうが)画面は、コマンド(文字)の代わりに、メクラ暦のような絵ばかり、マウスも、素早く二回クリックするなど、老人向きには出来ていないのです。コンピュータの世界は二、三年でオールド・タイマーになるものと、つくづく思い知らされました。

 山と積んであるマニュアル類を眺めては、どれから読んだら良いのか、まずそこから悩むありさまです。せかれる身でもないですから、これからゆっくり行こうとおもっています(この手紙も、古いパソコンによるものです)。

  先生には、風邪など召されぬよう、よいお年を迎えられんことをお祈り致します。    敬具

    一九九七年一二日七日

                        自由平生

  K先生机下


・K先生からの手紙  一九九七、一二、一七 

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「芹沢光治良の宗教」ご送付いただき、深い興味をもって拝読致しました。芹沢氏のものは、一、二冊読んだ記憶がありますが、いつか、私の眼前から消え去って居りました。従って、カスカな記憶さえ今はのこっていませんが、大変コクのある書物だった程度の思い出があります。

しかし御説の様な内容のものがあるとは、想像さえしませんでしたので御論説すっかり感心して読ませていただきました。ことに九十才をこしての、著作については、我がことに照らしても深い感銘をおぼえました。最後の漱石の宗教論、まことに、感心して読みました。

 しかし漱石も最晩年には仏教に深い思いをいだいたらしいことは、或先輩(仏教の方)から聞いて居ります。

 「Kさん、心に思ったことを、その場で行動に移すことが大切ですネ」といわれて、自分の宗教関する論文をたづさえて漱石に是非会うように、その先輩の先輩からアドバイスされ、そのつもりで、卒論を書きつつ、これが、完成したときおたずねするつもりで居った時、漱石はあの世に行ってしまった。

 「思ったとき、実行すべきですね」と教わりました。

 終戦直後のことでしたが。

 (後略)