S氏の私宛の手紙 七、三 

  

(「記憶のなかの沼津」を読んで)・S氏は旧制新潟高校の先輩、在新潟

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              一

(古町)

 「おがげさまで、久しく忘れていた大正末から昭和初期へかけての(新潟市の)街の姿など思いおこしました。今思うとバカバカしい程の変わりようで、中途半端な特色のない田舎町だけに、残るところなく破砕、あまり外へは出ませんが、たまに出るとあっという間に変わっている。進歩なのか、没落なのか、上っ面だけは妙に小ぎれいに飾っていますがね。何となくマの抜けた、ゆとりというものがなくなっていると感じます。

 貴兄達とは縁がなかった、隅っこの下町などにうらぶれた昔の姿を残しているだけ。あそこはどうなったなど説明の仕様もありません。

 下町といっても貴兄達が多少ウロツイた古町繁華街が急転落、人よせに夢中になって何とかイベントなどやっている。それでも土地ブームのせいか、新しいものは建つ。芸者屋などみんなビルに模様替え、店を貸し、内職に料理屋、今や彼女等資本家ですよ。昔なら私の家などカラカウ余地もありましたが、殆ど全部が引退、顔みしりもいないし、向こう方が上級ですね。 
             
(注 貴兄達:私は旧制新潟高校に通っていた)

 古い町の名をかえるなど嘆いている者もいますが、他門・新町・片原など御存知でしたか。中心地の一劃ですよ。古町は御存じでせうが、今は新潟者さえしらない。古い店屋で家をきいたりすると、よく御存知でと驚かれます。生まれながらの新潟者ですが、他人と話すときは新潟臭く見えないそうです。物心ともに変わりましたね。

 街は薄汚く、雑然と道路は狭い。第一新築の家など珍しく、みんな古屋に住んでいるし、店や仕事場なども通りに面し、職住一所という姿でしたね。

 商売が小さいのか、貴兄の書かれている大道商人が沢山いましたね。そこへまつわりついて遊んでいる。荷馬車くらいは通るが、格別邪魔にもならぬし、交通事故などまづなかったようです。家も混んでもいないから、路地やら遊び場などいくらでもあるが、道路も適当な遊び場でしたね。中心街は金持ちや大店が占拠していて遊び場ではないが、少しはずれれば細民街ですね。それでキュウクツだの情けないなど思いもしない。大した活気もないが気楽であったかどうか。

 そこをブラブラのぞき見しながら、学校へ行き来する。荷馬車の後ろにこっそり乗っておこられるスリル。蹄鉄屋はさすが覚えはありませんが、鍛冶屋はあり、あきずに眺めて、まっすぐには帰りませんでしたね。

 大道商人の中に子供相手の商売があり、それについて廻る。今思い出すのはドンドン焼き(この頃の鉄板焼きはお料理らしいですが)。ケチな材料で一銭二銭、あのソースの匂いが、何とも羨ましかったですよ。あめ細工屋シンコ細工、アメ細工など息を吹きこんで色々な形をつくり色をぬる。羨ましいが不潔だとアウトでした。アメ細工をうまくはずしてタダになる仕掛け、まずうまくゆかない。みんなおなじようなものでしたね。

 

              二 


(楽な暮らしできた時代)
 貴兄とは高校で四年ちがい、大差ないが不況の時代だったのですね。子供のことだから不況などわからない。貴兄のところは商売をしていられたから景気などに敏感であったかどうか。
私の親父は銀行員で課長などしていましたが、月給は百円にまでいっていなかったでせう。それで女中を置けたし、何かあると出入り者みたいなのが手伝いに来る。つまり失業時代、人手が余ってブラついていたのが多かったのでせうね。
月給百円などは高給取り、刮目すべき人物でした。だから安定した職業についていさえすれば、物価は安いし、楽な暮らしができた時代ですね。

 但し、当時のことを書いた経済書は悲惨そのもの、いつ職を失うか失業やドン底生活が強調されていますが、子供の頃からで実感はない。オヤジは無事にオトナシクしていれば特殊な人脈でまずクビの心配はないのですが、山っ気が強く、オトナシクない。いろいろと治まらず、やめて事業に手を出し失敗。当時を見れば当然でせう。その兆候は早い頃からあったのですが、私が知らぬだけ。

 中学三年の時、破産死亡、やれ俺もこの辺で退校給仕にでもなるのかと思いましたが、幸い面倒を見てくれる人があり、喰いつめて腹をすかせボロをさげていた訳でもなく、学校もでました。上流とはゆかない中流の中か下ですか、明日の心配はしないでいました。それが中ぶらりんの元でしたか。

 少しさかのぼりますが、小学生くらいまで近くでブラブラ、大分落ち目になり、超一等地から場末に近い所に移り、何だこんな家かと云って叱られましたが、それでも畳の数にして五十以上はありました(明治天皇巡幸の際お付きの人間がとまったという)。
 上等でもないから近所で勝手にあそび廻る。私は幼稚園に入れられ、皆自由にあそぶのに何でこんな所に入れられるのかと面白くない。ずい分遅刻しましたよ。

(買い食いは禁止)
 閉口なのは、大したこともないのに、そこいらの洟垂れとは違うみたいな感覚か。家にはオヤツくらいはあるが銭は一銭も持たされない。買い食いは絶対禁止。普通の奴は一銭二銭ともらって買い食いする。それが羨ましくてね。銭のないくせに買い食いする奴と一緒に荷台のわきをウロウロしたものです。時折一銭玉をどこかで拾うことがある。その嬉しさよ。ナンカ屋と称する一銭店へ行って飴など買うスリル。今思うと懐かしいが卑しいものでしたね。
 大道の香具師なども楽しみの一つ、研ぎ屋は覚えがありますね。今はないが金物の産地から団地へ内職にやって来ます。包丁など使わぬ時代にね。全くなくなったのがキセルのラウ屋、カジ屋もそうですが、見ていて楽しかったですね。

 

              三

 

(家運の挽回を)
 貴兄の描写さすがに画家、何か生き生きとして面白く、ついつられくだらぬことを長々と述べました。お笑い下さい。

 残念ながら知らずにいたとはいえ、没落の世代に暮らしていたのですよ。落ちぶれていたとはいえボロも出さず割合上等の暮らしをしているように思われていたところもあるようです。
 たとえば狭い町ですから名をいえばわかる店が多い。買い物などなど金を持たず名乗ればいつでも売ってくれましたよ。私は本など北光社で名前だけで買っていましたよ。今など思いもよらない。

 そのせいか奮起一番家運挽回など思ったことがない。本家が回船問屋、分家して私が三代目、だからお前がしっかりしろなどずい分いわれましたが、世の中はなんとなく動くようにできているのか、大成功しようなど思いませんでしたね。

 自ら稼いだことがないせいか経済学部で経済学が大嫌いで不得手、世俗的な仕事が嫌いになり中ぶらりん。何もしらぬものだから、農業にはあまり毒気がない、牧歌的なものもあろうと思ったのが世間知らずでしたかね。それも協同組合主義にとらわれてオウエンなどになづみ、空想社会主義に久しく夢中になり、気がついてみたら協同組合に勤めていて、協同組合の空しさが嫌になり、もう遅いですよ。まあ何になっても成功はしなかったでせうね。

(無事なに暮らし)
 政治家は始めから嫌いました。次第に評論家みたいになり(実はこれが一番嫌いなのですが)、上の人間の機嫌はとらず反論はする。何も知らずノホホンと暮らして来たせいでせうが。

 今は借金も財産もなく、まったくの年金暮らしですが、女房と二人、幸い欲がなく何も望まず、情けないとか羨ましいとも思わず、呑気だとも思っていない。
 ボロも下げないが、何か必死に欲しいなどというものもない。毎日同じようなものを喰っています。だから無事に暮らしていますが、こういうのはヴァイタリテイはなくなりますね。金のかかる大病などできっこない。幸い無事で羨ましいと云われていますが、いつどうなるやら賭みたいなものです。

 私はなにもしない。たまに何かするとあと始末に三倍手がかかるというから一所にじっといます。だからお前の手足が無事に動くのだというとさすがに評判が悪いです。

 貴兄も大学戦争と沼津を離れてずい分になることと思います。故郷との往来は如何ですか。
私は新潟という地が大嫌い。やむをえず逼塞していますが、本当に不毛の地ですな。百万都市というのがあるが何か特権でもありますかね。仙台に追いつけ追いぬけと夢中ですが、お前ら格というものを知っているのかのいうので嫌われています。同級の男が人口が五十万に足りぬときいて、それはムリだよ、全県で一市にした方がよかろうと笑いましたが、貴兄など広い世界を見た目ではどう見えますかね。

 専門家に対して失礼ですが、コシヒカリの人気で農業計画では廃業の候補地によい米ができ金が入る。急に大切にされると農業計画などどうゆれますかね。ふるさとおこしなどと小金かせぎに金をつぎ込み、それも行政でせうが侘びしいですね。農業視察に行くが、どうして英仏に行ってみませんかね。
私などフランスは面白いのでないかと思いますが、カゲでどのくらいの手を入れているか知りたいと思います。

 

              四

 

(剣道は補欠)
 余計なことを書きましたが実は貴文から中学時代の生活をもっとききたいと思っています。剣道にはげみ、よく文学書を読んだものと感嘆しています。私などは中学で青春があったかなと思うことがあります。本などまるで読まない。漱石全集しか持っていない。音楽だけはよく聴きましたが。

 剣道は県下一に強かったので「剣道部ありき」などで私が選手みたいなことを書いてくれていますが、実は六番目補欠ですよ。高校では人員不足で選手にされたが、一年の時は何とか補欠になるように工作して選手になりませんでした。大体補欠的人間ですね。何となく束縛を喰うのが嫌いで、不忠実ではないが従順ではなかったですね。

 箕輪先生からは大切に扱われましたが インターハイがすべてであるみたいのが嫌いでした。然しやはりなつかしい。インターハイがなかったら、高志会などの思い出や友情は残るところ少なかったでせうね。同じ夢中でも今のようなバカな虚飾は少なかったと思います。スポーツ類は割合早く器用にこなしましたが熱中しない。二刀を初めて見て道具もないのに真似てマジメにやらんかと怒られたことがあります。   注 箕輪先生: 新潟高校剣道師範

 それでも何か夢中になったこともあります。
 その一つが水泳。ロスのオリンピックの時は夢中で騒ぎましたね。当時静岡と高知が隔絶してトップ、なんといっても静岡が群を抜いていましたね。貴文で銀メダルのことが出ている。

 すっかり忘れていましたが、小池礼三でしたね。静岡の抜群の第一は見附の牧野、日本で初めて壱千五百米で二十分をきったときの騒ぎと、それからの進展存在価値は大したものでしたね。百米の宮崎康二も静岡ではなかったですか。牧野は八百米でも世界記録を破り、パイオニヤとしての功績は絶大であったと思っています。高知に北村が出たために、晴の舞台ではヒーローにはなりそこねましたし、時の運ですか、小池も遂に優勝を逸しましたが先駆者として立派なものと思っています。

 それにスポーツの扱いも今のようにきちがいじみていない。タレント化しショウ化したスキャンダルもなく、純真に夢中になれましたね。静岡はトップ、それが逐次競争相手に迫られる。どんな感じでしたか。

 然しまだスポーツにはフェアということを重んじましたね。その点インターハイの高校剣道には少し問題がありそうです。柔道では高校が寝技専門、立ち技では叶わない。それで赤門柔道といって講道館から嫌われましたが、理論闘争では講道館は勝てない。講道館ではネワザになるとすぐにストップという時代がありました。

 今や世界の指導者(これも全く怪しい存在でしかないが)、この点ではあやしいものです。有名になるとダメになるものですね。少しあと島田商業が野球で強くなり、頗る生意気になり、私の親戚で中京商業(当時全盛)の水泳部長をしていた男が始末が悪いのだと嘆いていました。野球などだらくの皮切りでしたが、下手にヒーローが出ると問題ですね。

 

              五

 

(自分史は)
 自分史も真似て書いてみたいと思わぬでもありませんが、クセが強く乱雑でマトマリがない。昔から書きためた雑録はかなりありますが、皆同じようで面白くないですね。親しい友人に批評してもらったら、別に頭が狂っているとは思わぬが、底に何か頑固な固定的意識みたいなもがあり、結局同じことばかり云っている気味があるとやられました。残念ながら同感、よく見ていやがるなと思いまして、まだ手をつけるきになりません。

 書きたいことは山ほどありますが、段々ブレーキがきかなくなるのでこの辺でやめます。長々と御迷惑のことでした。

 沼津は魚の大市場であったと思います。新潟は実は何もないのですよ。昔は北洋漁業の一根拠地として多少活気もあり、海産物の加工で大成功したので大生産地みたいな顔をしていますが、御存知の通り魚の住む海ではありませんね。輸入魚の加工地にすぎませんが、本当のことを云うと問題になりませう。今「ふるさと起こし」など云ってなんでも一番みたいなことを宣伝していますが、どこまで続きますか。

 B・タウトが日本美の再発見で、新潟は最悪劣等の町と書いていますが、昔のことだから誰も知らない。昔も今も本など読みはせぬから誰も腹をたてません。平和なものです。この魚のことについては面白くないこともあり、いずれ機会を見て書いてみたいと思います。とにかく他に何かあるということを知ろうとしないのでのですね。不毛の地である所以と思います。

 どうかくれぐれもお大切に、決してむりをなさらぬように。

   七月十一日            S 

  自由平大兄

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