第3章  サイパン沖海戦

 
 私がサイパンを後にして、トラック島に向かったのは、昭和19年5月20日だった。私のサイパン島滞在の幾日めかに、高々度で飛ぶ米軍機を見た。わが方の飛行機は飛んだ様子もなかったが、後で考えると、米軍のサイパン上陸のための偵察であったであろう。多分、それまでサイパンでは、米軍の飛行機は見たこともなかったと思われた。

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 この年の3月31日、館山海軍砲術学校の予備学生教科を終え、4月12日、私を含め6人の新米少尉が、横浜港よりトラック島へ向かった。10隻あまりの輸送船団の1隻、第2長安丸の便乗組である。4月23日サイパン島着、29日同発、30日グアム島着。

 同出港5月9日、ところが、翌10日の早朝、われわれの乗っていたフネのほか、2隻が敵潜水艦の魚雷をうけ沈没した。砲術学校の教官の『赴任する際は飛行機か戦艦に乗れ、輸送船には乗るな』という忠告を思い出した。がもう遅い------船団護衛の駆潜艇により救助されたが、その時の犠牲者が多く、われわれ士官室の便乗仲間も、6人のうち、3人が、帰らぬ人となった。

 

 駆潜艇はその日のうちにグアム島へ着き、遭難者はグアム海軍第54警備隊に収容され、めいめいの行き先便を待つことになった。われわれ3人のトラック組は、船旅はもうこりごりだと思った。幸いグアムとサイパン、サイパンとトラックの間に飛行機便があることを知り、飛行機でサイパン島にまいもどり、そこからトラック島に行くことにした。サイパン島にはこの3月開設したばかりの第4艦隊司令部があったからである。

 5月17日グアム島発、同日サイパン島着。飛行機は双発のダグラス旅客機。われわれ3人のほかは佐官1人り。ゆったりとした乗り心地に、生まれて初めて乗った飛行機に、旅はこれに限ると思った。
2度目のサイパンである。

 5月20日早朝サイパン出発、トラック島へ向かう。
 3人が乗ったのは2式大艇と呼ばれる4発の飛行艇だったが、搭乗員達は、サイパン出発前に上官から「トラックは危ないから、用事が済みしだいすぐに帰ること」と注意を受けていた。

 乗った機内は運転席とは隔離されていて、窓がなく、空の貨物列車の中のよう、固いベンチが置かれていて3人のほかには誰も乗っていない。沈没した船内に上着を置いてきた私は、第54警備隊でくれた蚊帳のよう生地の軍服で、南洋でも高度3000メートル、気密でない機内は寒い上に耳が痛い。2、3時間かかって、やっと任地トラック島に着いた。

 1ケ月後、米軍は、トラックを置き去りにして、サイパンに上陸したのである。

 6月15日米軍サイパンに上陸開始は、トラックの第4艦隊司令部発行の、ガリ版刷り艦内新聞で知ることができた。
 しかし、日本海軍再生をかけた夢を、無惨にもわずか2日間の戦闘で打ち砕かれた、「サイパン沖海戦」のあったことは、私はうかつにも、戦後も、『わがトラック島戦記』を書くまでは知らなかった.。
(『わがトラック島戦記』参照)
     

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    サイパン沖海戦

        児島襄著 『太平洋戦争(下)
      
同     『戦艦大和(上)』、
      
阿川弘之著『軍艦長門の生涯(下)

上記の書物から「サイパン(マリアナ)沖海戦」の部分を抜きだし、その概要を示そう。
 

(古賀司令長官殉職)

 日本海軍は昭和17年のミッドウェー海戦以降、初戦で占領した太平洋上の島々をつぎつぎに失った。昭和18年11月にはギルバート諸島のマキン、タラワ、19年2月4日にはマーシャル群島のクェゼリン環礁が陥落した。トラック上空にはB24爆撃機(陸軍機)がかすめ過ぎた。トラックはクゼリン基地敵航空機の傘の下に入った。

 古賀 長官は父島列島、サイパン、西カロリンを結ぶ線を、新たに死守決戦場と定め、戦艦部隊をパラオに移し、そこへ後退する決意を固めた。

 「空母部隊は、ソロモンでの消耗戦を補填すべく、内地で再建整備中であった」
「古賀長官は、2月1日、旗艦「武蔵」を先頭に、戦艦「長門」「扶桑」、重巡「愛宕」「鳥海」その他の主力部隊の出撃を命じた。しかし、その行き先はマーシャルではなく、内地あるいはパラオだった」

 トラックは、2月17、18日、米機動部隊来襲により、撃墜破された航空機は約300機。軽巡「那珂」をはじめ艦艇9、輸送船34を撃沈され、艦艇9大破。倉庫、建物、食糧2000トン、17.000トンの燃料を詰めた燃料タンク3基。 米側の損害は飛行機25機失い、空母1小破、に過ぎなかった。

  パラオも3月30、31日同機動部隊による被害を受けた。この時も日本の主力部隊は、29日にダバオに向けて出港し、難をまぬかれた。
 古賀長官は陸上にいたが、空襲後サイパンから3機の2式大艇を呼び寄せダバオ向かった。しかし、長官の乗った飛行艇は、雷に撃たれたか、ゆくへ不明、殉職となった。
              
(児島襄著『大平洋戦争(下)』pp107〜116より)

 パラオからのくだりは、児島・阿川両氏の記載はちょと異なる。阿川氏の『軍艦長門の生涯』では「長門は、2月1日は5ヶ月ぶりにパラオへ向けて春島沖を出港した」

「パラオに入港したのが2月4日でーーーーパラオに腰を落ち着ける暇もなく、2月16日、追われるようにして、さらに西方にリンガ泊地へ油を求めて出て行く。
1の谷から屋島へ、屋島から壇ノ浦へと落ち延びる平家水軍の姿に似ていた」
             
(阿川弘之『軍艦長門の生涯(下)』P189)

 

(「あ」号作戦)

「軍令部は、昭和19年5月3日、連合艦隊司令長官に豊田大将が親補されると、大海指第373号で『連合艦隊の準拠すべき当面の作戦方針』を指示した。『あ』号作戦計画である。

「この計画は、『我が決戦兵力の大部を集中して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を殲滅して敵に企図を挫折』させようとする、決戦方針だった。

その方法はまず『第1機動艦隊を比島中南部に待機せしめ、第1航空艦隊を中部太平洋方面、比島並びに豪北方面に展開』し、ついで『為し得る限り我が機動部隊待機近く』、具体的にはパラオ近海で決戦を行うというのである。

 その理由は給油に連行する輸送船がたりず、当時の連合艦隊の行動半径は約1000マイルに制限されていた。第1機動艦隊の待機地点は、フィリピン西南部タウイタウイ島である。そこから1000マイルとなると、決戦海面はせいぜいパラオ近海にならざるをえないからである」

 しかしこれは「戦略というよりは、みずからの事情のみに寄った期待というべきだった」                                    (児島襄著『太平洋戦()』PP182〜3)

(両軍の勢力)

(この2年前のミッドウェー海戦は、日本戦艦は遙か後方にいて直設戦闘には参加せず、互いの空母と飛行機との戦いであったが、サイパン沖海戦は、戦艦は空母の直衛艦として、入り交じった海戦であった)
 

「主砲を水平にして雷撃機を吹き飛ばし、あっというまに20機を撃墜した」という文言は、戦後、語り手の言だろうが、そのとき目標と距離はいくらであったのか?時限信管の秒数はいくらであったのか?

射撃装置が仮に確かにしても、46センチ砲弾を砲身に詰めたまま、時限信管の秒数を変えることができたのか?

 ここで同じ著者による戦艦大和では、次のように述べている。

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(私見)

 ここで「サイパン沖海戦」を取り上げたのは、もろくも敗れ去った日本海軍の実態ではなく、戦艦「大和」とかの主砲の対飛行機射撃について、私見・愚見を述べようするものである。

 村田中尉の回想にあるように、実際にタマは当たらなかったではなかろうか。児島氏も阿川氏も、この戦闘に立ち会ったものではない。戦後、当事者の回想や、もしあれば当時の艦隊司令部報告とうに寄ったものであろうが、わが方の戦果すなわち敵の被害は過大に見積もりやすい。

 (巨砲について) 砲弾を火薬で押し出す方法には、限度がある。いくら火薬を増し、砲身を拡げても、重力のほか砲身と砲弾の摩擦抵抗、空気抵抗、砲身砲弾自身の持つ弾道ゆがみ等で、目標をはずれる誤差は大きくなる。

. 例えば
 6月2日、タウイタウイ島で、第1戦隊は「大和」「武蔵」の(訓練の)主砲偏弾斉射をおこなった。
「距離35、000メートル、駆逐艦を目標にして主砲1門2発ずつを射った。散布界は「大和」が800メートル「武蔵」が1000メートルと判定された。たしかに、散布界、つまり弾丸の集約度は拡散しすぎている」    (『戦艦大和(上)』P213)

 この場合は、目標は駆逐艦だが、目標が飛行機だったらどんなことになっていただろう。命中の確率 0.00パーセントと言っても村田射手の責任ではなかったであろう。

 

 阿川著『戦艦長門の生涯』は、同じ20日午後の戦闘の場面で

「敵艦上機の大群が、打ち洩らした乙軍を襲ってきた来た。旗艦隼鷹の右後部に飛鷹がおり、右斜め前方約5000メートルのところに長門がいた。(引用者注 乙軍:空母を中心に甲乙に分かれた日本側の体制区分)

 主目標を空母に定めて突進してくる敵に対し、長門全艦の砲と機銃とは、休む間なしに撃ちつづけたーーーー隼鷹めがけて突っ込んできた雷撃機の1群は、長門の放った3式弾で、あっという間に全機空中に4散したと見え、戦闘中の艦内が1瞬歓声にみたされたーーー」                                    (阿川弘之著『戦艦長門の生涯(下)』P214)

 飛行機の場合、艦船目標が水面のような2次元と異なり、空中(3次元)で、かつ高速に動く目標であるから、如何なる「射撃装置」であっても誤差が大きい。
 仮に、それらを「射撃装置」が計測し、砲側に伝えたとしよう。砲測の射手、旋回手、信管手はハンドル(?)で計測値に合わせればよい。

 問題は、「射撃装置」---この場合は薔楼の最上部の(村田氏のいる)方位盤室(?)と砲弾(時限信管)との連絡方法である。こくこくと変わる大砲と飛行機間の距離----したがって砲弾が飛行機に達するまでの時間を、砲弾の中にある時限信管に伝える方法についてである。

 時限信管を付けた砲弾は、砲身の中に入ってしまえば、いじれない。だから、12、7センチ高角砲の砲弾は砲身に入れる直前に、砲身に入れる直前に、時限信管を「射撃装置」の指示している時間に合わせ、砲身にいれ、引き金を引く。この操作を半機械自動的に、一挙動でおこなうのである。

 大和の主砲---1.46トンの砲弾を抱えた大砲に、高角砲の真似をさせようとするのは無理ではないか?

一方、米軍に現れたのが、「射撃装置」が完全の上に、砲弾自身の中に入って目標に接近すると破裂するVT信管である。

 日本軍の「蛸足爆弾」のかわりに、彼等は「原子爆弾」を使って日本軍の息の根を止めた。                           (蛸足爆弾:『わがトラック島戦記』3の10)

さらに、砲弾自身が推力を持つミサイル時代に入っていくのである。

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            (2001,7,30)(8,30)(12,15)修正