第4章 トラック島戦記雑感

トラック島旅行記(1993)
春島より夏島を望む

   

1::傘(笠)型照準器

 傘型照準器(蜘蛛の巣型照準器)、というのは、映画の飛行機銃撃によくでてくる、照星が蜘蛛の巣状になっている、肉眼で見る照準器であり、わが海軍の、25ミリ2連装機銃がつけていたものである。

しかし高角砲は、館山砲術学校(昭19)で各種のものを見たが、みな眼鏡(がんきょう)を使う照準器で、肉眼で見るようなものはなかった。

 ところが、トラック島春島に赴任したとき、6門の高射砲台を見て驚いたのは、照準器が傘型で、おまけに測距儀がなかったことだ。傘型照準器は、蜘蛛の巣状の照星と照門があり、それを通して直接肉眼で目標をねらう。(この高角砲のものは、若干機能が複雑で、距離に応じて照星と照門の間がスライドしたり、照門が上下に伸び縮みするものであったと思う。)(『わがトラック島戦記』サイパン陥落頃まで、8 高角砲の射撃参照)

 当時(昭和19.6)トラック島では、敵機は昼間は4発のB24爆撃機(陸軍)の編隊(夜は単機)に限られ、戦闘機とうの他の機種は、航続距離の関係で、こなかった。B24は水平飛行のみで、低空を飛ぶとか、急降下はやらない。そこで『わがトラック島戦記』執筆当時、水平飛行を前提に、射撃理論(?)を展開するはめになった。

 館山砲術学校でも、高角砲は目標敵機の水平飛行のみ射撃するものと教えられてきた。

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 トラック島は昭和19年当初までは、米軍の空襲など受けていなかった。ところが同年2月17日、米機動部隊によって、徹底的な被害を受けた。

 その頃、春島中央の山の頂上に、電探と高角砲台が作られた。

そこで《この高角砲台は、電探の機動部隊対策として、非水平(急降下)爆撃機用の傘型照準器を使ってみた》という仮説を立ててみた。

突っ込んでくる飛行機なら、近距離で、高角砲の照準器に眼鏡はいらない。むしろ邪魔になる。測距儀もこの場合役に立たない。そこで傘型照準器を採用したと。

 しかし現実は、私の赴任した昭和19年5月20日以降、水平爆撃機B24が連日連夜くるだけであった。

そのうちに、サイパン、グアムは陥落するし、弾丸の補給見通しがつかなくなった。敵機の襲来も少なくなり、配置に着く高角砲は一門だけで、それもメッタに撃たなくなった。

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 私は、当時、砲台のあるべき位置は、与えられたものとして、考えてもみなかった。

が、今思うに、春島の飛行場は島の西側にあり、わが隊から見れば、一山越えた山の裏手にあり、わが隊は遠すぎる。飛行場裏山には別の防空隊の機銃陣地がる。

 わが隊は、島の中央部にある山の頂にあり、同じ箇所に並ぶようにして電探がある。つまり、電探の防御用として防空隊が配置されたと云ってもおかしくない位置にある。

 電探は夏島の艦隊司令部直轄の組織である。防空隊は一個の独立隊組織である。
 しかし、電探と防空隊はセットになっているのだ。
 電探所長はわが隊の士官室で食事し、所員はわが隊の烹炊所から分けて貰っていたのだ。

電探と我が隊との関係は、隊の幹部のみならず、隊員も知っているはず。だが遅れて入った私には、島の配置等は与えられたものとして考慮外であった。

 

 話はわき道にそれた。もう一度傘型照準器に、話を戻そう。
館山砲術学校では、12センチ高角砲と傘型照準器の話は聞いたこともない。

 第46防空隊は、館山で編成され、私より少し速くトラック島につき、2月の米軍空襲の際は皆上陸していたが、乗ってきた船は、6門の高射砲とともに沈められたらしい。そこで12センチ高角砲の話になるのだが、何処で調達したのか、私はそんな呑気(?)なことを聞くひまもなかった。

 トラック島に来たら、傘型照準器つき12センチの高角砲があるが、隊長K中尉も、同僚の兵曹長諸君(ただ1人を除いて)も、照準器について話題にしたことがなっかた。ただの1人、W兵曹長も、配置換えになり、夏島の司令部に行ってしまった。
 高角砲のマニアル---たしかあった筈---にも照準器のことはのっていない。

 たぶん、隊長らは、敵編隊の高度、速度信管の秒数を何かの基礎から測って固定し、砲員たちは、連日それで押し通したであろう。

 私は、サイパン陥落後の、6門のうち1門きりに配置に着かせる段階で、(測距儀なしの)高角砲の指揮を取った。

 平面上の艦船の目標でも、何百発で命中は何発しかないという。
 目標は立体面を高速で飛ぶ飛行機である。しかも、測距儀なしで、事前にきめられた信管秒数で破裂するわが高角砲の弾丸は、当たらないに決まっている、と隊員たちはおろか、トラック島の海軍の連中は皆そう思っていたにそういない。


 私は、50年後の現在、傘型照準器の狙いは、敵機動部隊にあったと、ふと思いつくにいたった(?)。
    『わが トラック島戦記』三8、四8参照

 わが砲台は機動部隊対策として、目標が近距離の、例えば500メートルとか1000メートルで、水平飛行以外に使えるものとした。誰の発案かしらないが、現物の傘型照準器がここにある。目標が突っ込んでくる敵機なら、距離計など役に立たない。

 待ち伏せ射撃で、あらかじめ時限信管を2、3秒のところに設定してタマを込めておく。自分の砲台や電探に突っ込んでくる時は、敵機を傘型照準器の中央付近に合わせて狙えばいい。敵機の距離は5〜600メートルのところで発射する。溜散弾が半径00メートルの投網となって敵機を包み込むさまを想像してみた。

 傘型照準器付き高角砲のことは、私の知る限り、戦後現れた「諸戦記」には、見あたらない。あのユニークな大砲は、もしかすると、12センチではなかったかもしれない。 (『わがトラック島戦記』三の9参照)

 

 

2 聴音機とVT信管

 私が第46防空隊に赴任した頃(昭19.5)、隊の門の峰続きの、それほど遠くないところに、10人ほどの陸軍の兵士がいた。

本隊は何処にいたか知らないが、聴音機を扱う班と聞いた。聴音機は、巨大なラッパ数本(たぶん4本)で飛行機の爆音を聞く、対空用の器具で、第1次世界大戦時代の遺物である。

彼等も、わが隊の烹炊所の客人で、毎日食事時には、当番の兵士が、ニュームの容器をぶらさげて、士官室の前で敬礼しながら通っていった。小人数の部隊について、トラック島の陸海軍の申し合わせでもあったかもしれない。

しかし、彼等は聴音機らしいのもを組み立てた気配もないうちに、山をくだった。聴音機を何に使おうとしたのか、とにかく聴音機のでる時代ではないと思ったからであろう。

だが、わが第46防空隊の高角砲も50歩100歩である。わが高角砲も、米軍の飛行機は落とせない。

わが第46防空隊の高角砲のみならず、館山砲術学校で演習に使ったものもーーーーー
吊り下げた模型飛行機の下で行った模擬射撃。
第1次世界戦にドイツ使ったもののコピーであると聞かされた陸軍の野戦に使った8センチ高角砲。
”これは古いと神武天皇がいった”と云う、下士官教員のジョウクつきの10センチ(?)高角砲。
ーーーーー米軍にとっては戦争博物館行きのものであったにちがいない。

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(VT信管)

 昭和19年6月19,20日、サイパン沖迎撃海戦では、ミッドウエー敗戦この方の再建と思われたが、「1年がかりで養成した日本母艦部隊は、わずか2日で壊滅してしまった。
 攻撃(搭乗員)、防御(VT信管)の劣勢が示すように、それは量よりも質の敗北だった。」
                                (児島襄『太平洋戦争(下)』P208)

 6月19日「午前10時、レーダーが西方150マイルに日本機を探知。ミッチャー中将は直ちに450機に戦闘機を舞い上がらせた。、”マリアナの七面鳥撃ち”の開幕である」

日本の「第1次攻撃隊のうち、機動部隊に向かった1航戦、3航戦は、待ち受けたヘルキャット戦闘機群に襲われ、辛うじて機動部隊上空に達した機も、対空砲火に阻まれた」

「米艦隊は40ミリ以上の銃砲弾に目標の至近で作動するVT信管をつけていた。その威力は目覚ましく、戦闘機の攻撃と合わせて、来襲する日本機197機のうち138機が撃墜され」
                     (児島襄『大平洋戦争(下)』p205)

「VT信管」のことは、日本は戦後になって始めて知った。当たる高角砲があることも。

3 シャベルとブルドーザ

(シャベル)

 米機の来襲の頻度が少なくなり、弁当持ちの捕虜(隊員達の自虐的言)にもいささか沈滞ムードが出たとき、春島に活気が出る事態が起きた。それは、本土とトラックとの間の海域(ウルシーであったか)にある米艦隊を偵察するために、本土から春島に新鋭偵察機「彩雲(さいうん)」が來ることになったのである。

 偵察の名人がいて、敵艦隊の高高度上空を一気に駆け抜ける、その一瞬の間の目撃で、艦隊の全容を見とどけ、そのまま本土へ帰るというような話である。 

 滑走路は、現状では、穴だらけになったままであるから、在春島海軍の各隊から飛行場補修の要員が駆り出された。偵察者は軍神になる、司令部には軍神用の酒が用意されている、というような話も伝わってきた。

 ところが、補修作業が始まったとたん、翌朝の未明、米機が来襲して飛行場に爆弾を落としていく。夜が明けるとこちらは出来た穴を埋める。翌朝未明また米機が爆弾を落としていく。この鼬ごっこが連日繰り返された。わが砲台からは、滑走路は山陰で見えないけれど、山越しに爆弾が破裂する明かりがよく見える。彼らの傍受電報の解読能力と夜間爆撃能力には驚かざるを得なかった。                              『わがトラック島戦記(4章10)』より

 私は山にいて現場に立ち会っていないが、飛行場の補修は、鍬やシャベル、天秤、モッコでやったに相違ない。この時代には、日本はブルドーザのような土木機械は軍、民間を問わず使わ(え)なかった。

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(ブルドーザ)

 敗戦直後の昭和21年、私は農地開発営団に就職、富士山麓の西富士事業所に勤務することになった。
 事業所の仕事は、元少年戦車兵学校の西富士演習場に、都会から来た被災者、海外からの引揚者、軍人等を開墾入植さるためのものであった。といっても、富士山麓は無水地帯であるから、水源の確保が問題となる。可耕地の営農形態はといった基本的課題も、まだ調査に入ったばかりにの段階であった。 

 事務所の車両班には、大勢の少年戦車学校教員の残留組がいた。その1人が、相模原の何やらの施設で講習を受け、帰ってから事務所の庭でブルドーザの開墾テストをやることになった。

 テストは戦車学校の庭に築いた5、6坪の小山を崩すもので、運転者のほかに誘導するもの4、5人がいた。ところが開始早々山に乗り上げてしまい、にっちもさっちもいかなくなった。
 戦車学校の元教官の腕のせいか、ブルドーザのせいか。

 またある時、あるメーカーが農業用トラクターの試作品を持ち込んできて、試験をしることになった。私は、近くの、といっても2、3キロある未墾地に案内した。未墾地と云っても2、3年までは地区を貫く県道の脇で、かって畑地であった処だ。

 このトラクターは足どりも重く、ごつごつした道ではあっちこっちふらふら、われわれ歩行者よりも遅かった。目的地に辿りたどり着いたが、道路脇の浅い溝に踏み込んでしまった、という記憶はあるが、プラウ付けたという記憶はない。当日の試験は終わり。もと来た道を帰り、ようやく旧戦車兵学校の正門にたどりついたとき、前輪の車軸がへし折り、不様なかたちでエンコした。

 トラクターは、そのまま正門に盤踞して居座った。旧戦車兵学校には、農林省の外郭団体、中央開拓講習所と農地開発営団が同居していた。2、3日したとき、東京から、その講習所の講師に来た、有名な教授に見咎められ、「あれをかたづけなさい」とわれわれは叱られるはめになった。

 当時、車両班は数台のトラックを持っており、営団本部から半ば独立したようなーーーというよりも、職を失った旧軍人の中に、営団が割り込んだーーーー組織であった。
 
 ブルドーザが借り物かどうか、トラクターのその後の始末はどうしたか、私は、まだ新米の人夫賃の身分であったから、知るよしもなかった。

 GHQ(占領軍の総司令部)は、その後しばらくして全国の機械開墾を禁止した。

 農地開発営団は昭和23年、戦時中の勅令によった機関として、GHQによって閉鎖され、開墾事業ならび職員は農林省に引き継がれた。

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  (2001,5,31稿)