第2章  戦艦大和の「パゴダ・マスト」

 
    2001.12 NHK テレビより

              

 (パゴダ・マスト )

 日本海軍の後期の戦艦、陸奥、長門は 主砲と煙突の間に、前マストの代わりに日本独特の盛り上がった櫓(やぐら)状のものがあり、われわれの少年時代の眼には、神秘を秘めた頼もしいものとして、映ったものだ。この櫓を檣楼しょうろうと呼んだ。

 それに引き替え、米軍戦艦はマスト上には時計のようなものが付いている、何となく間延びのしたものだとも。    (私は大正9年(1920)生まれ。陸奥、長門も同年に生まれた。)
 

 私は大学1年のとき、九州の友人から、呉の造船所で、とてつもない大きい軍艦を造っていて、汽車の窓から簾(すだれ)ごしに見られると云う話を聞いた覚えがある。その年の暮れ、昭和16(1944)年12月8日に、太平洋戦争が始まった。

 その巨艦は12月16日竣工した。戦艦「大和(やまと」の誕生である。しかし、「大和」は、極秘として開戦直後に現われ、戦争末期の20年4月7日、特攻艦として徳之島北方200カイリに沈んだ。就役してから3年5月の短い生涯であるから、われわれ1般には、戦後写真で、幻の姿を見るだけなのだ。

だから戦前を知るものにとっては、「陸奥(むつ)」「長門(ながと)」の方が、実物にお目にかからなくても、馴染みがあった。

(私は少年時代駿河湾に面した沼津市で育ったが、軍艦というものは、海軍の宣伝のために沼津の浜に来た戦艦「山城」以外に見たことがなかった。そして2回目は青年時代戦時中のことで、昭和18年海軍少尉になってトラック島に赴任途中、乗っていた徴用(商)船が敵の潜水艦にやられ、船団の護衛に当たっていた駆潜艇に救助されたときの,その駆潜艇。3回目は敗戦でトラックより帰るとき乗った復員船としての駆逐艦「柿」であった)


 だが、「大和」は超大型戦艦で、「陸奥」「長門」よりも、けた外れに大きい。写真で見るだけだが、全長は東京駅の幅くらいあり、46センチ9門積み、中央に聳える13階建ての檣楼(しょうろう)も、あたりを睥睨する堂々たるものであった。
 しかし、米海軍の眼には、日本海軍戦艦のそれは、異様なパゴダ・マストとして映ったようだ。パゴタとは東洋諸国の塔という意味である。      

 

(戦艦大和)

 その檣楼が戦後に現れた児島襄著『戦艦大和』に、やや詳しく載っている。

 その前に同書により「大和」の概要に触れておこう。

「大和」は、起工昭和12年11月、全長263メートル。排水量69,100トン。最大速度27ノット。46センチ主砲9門。15.5センチ副砲12門。12.7センチ高角砲12門。25ミリ機銃24挺。13ミリ機銃8挺。カタパルト2基。水上偵察機7機。

 主砲46センチ(18インチ)は、世界最大のもので、米戦艦がパナマ運河の制約上16インチ砲以上にはならないことを想定した結果であった。

 大正11年2月26日に結ばれたワシントン海軍軍縮条約の、米英日の主力艦保有率5・5・3は、昭和11年12月31日に失効し、無条約時代に入った。

 建艦競争となれば、富裕国の米国が有利になるが(当時海軍の優劣は戦艦の主砲の大きさと速力により決まるといわれた)、米海軍は太平洋大西洋両洋を守る必要上、パナマ運河を通らなけれならず、運河幅の110フィート(33.5メートル)以下、せいぜい108フィート幅の戦艦しか造れない。
仮に米海軍も18インチ主砲の戦艦をつくったとしても、幅108フィートに限定しては、速力は24ノット以下になる。

「ワシントン条約では、主力艦は、16インチ主砲、3万5000トン以下に制限されたが、この条約はそういった米海軍の”内部事情”を反映していた。米海軍に日本海軍が対抗するためには、米海軍が持っていない強力な大艦を用意すればよいはずである。

それゆえ、戦艦「大和」、「武蔵」は、「18インチ主砲9門、公試排水量、6万9100トン、最大速力27ノット、長さを短くして敵弾の命中確率を少なくするため最大幅38・9メートルになった」
日本側の優位はくずれない、と日本海軍は考えた。  (児島襄著『戦艦大和』
上 P13より)

(「長門」「陸奥」の主砲は40センチ砲、8門である)

檣楼(しょうろう)について

「大和」の「中央にそびえる楼は、中甲板を基盤とする直径10メートル、13階建ての鉄塔である。同心円2重筒型で、内筒は電線および通報管、通風管その他のパイプ類がおさめられ、内筒と外筒の間に艦橋、作戦室、各種指揮所が配置されている。

 最上甲板から第2艦橋までで10階、24.5メートル、登頂に近い15メートル測距儀までが28メートルあった」さらにその上に直径3メートルの円筒形の方位盤室がある。

 部屋は直径3メートルの円筒型で、床は切格子鉄板が敷かれ、中央に約60センチ高の台がおかれ、その上に天井までいっぱいに正方形の鉄柱がたっている。1辺は約60センチ、角は切り取られた形、「98式方位照準装置改1」型である。

「4辺の装置はそれぞれ砲術長、射手、旋回手、動揺手のもので」 これらで観測、測定されたデータは、「檣楼の下にある艦内『発令所』の射撃盤で計算され、その結果は砲塔内の指針の動きに表現される。 砲手はハンドルを操作してその示針である本針に追針を合わせれば、砲身はそのハンドル操作どうりに70トンの水圧で上下左右に動く」 (児島 襄著『戦艦大和(上)』P48〜51より)                              

 これは、『戦艦大和』の記述であるが、著者(児島襄氏)が、戦後当時の射手(村田元輝氏)らから聞き取ったものや資料等によったものを、射手の物語り風にアレンジしたもの(の要約)である。 

 煙突の前、盛り上がったもの、檣楼の最上部は、測距儀や方位盤室、つまり46センチの主砲の、敵を狙う施設部分である。( 注 児島 襄氏は、昭和2年生まれ、戦争の実体験はないと思う)

                       

                   

(海軍の射撃方法)

 開戦当時の わが海軍の水上射撃法は、測距儀を使い、目標の速度と方向及び弾丸の飛ぶ時間の関係からと目標の将来位置を射撃装置により計測し、弾丸を発射する。初弾で着水点を観測、修正点を計測、修正弾発射、暫次修正点を求めながら、目標に到達といったものであった。

(開戦直前の日本海軍は世界1の砲術を誇り、距離3万メートルで(命中率)3パーセントと----自信をもっていたのだが---レイテ沖海戦で、期待されていた「大和」の46センチ主砲は、約百発打って命中弾はほんの数発しかなかった)   (池田清著『海軍と日本』)

 射撃の基本は、目標の方向と距離である。開戦時、日本海軍は距離を測るものとして測距儀を使った。

 光学(視覚)的測距儀は、基底が長いほど距離の誤差が少ないが、同じ基底では、ある距離から誤差は急増する。

 大和の檣楼の上部に張り出した測距儀は、基底15メートルである。基底15メートル、距離3万メートルは、カメラについた基底15センチの距離計で300メートルの距離を測るようなものである。
 (測距儀:左右に角のように張り出した基底の両端が左右の眼の働きをしており、目標が遠くなるほど距離の誤差が大きくなり、基底幅が大きくなればなるほど距離の誤差が少なくなる)

 大和の測距儀は、光学的(視覚的)に精緻を極め、各部分が自動化されたと云われているが、「大和のパゴダ」も、距離の計測については、原理的には、日露戦争時代(または第1次世界戦争)の延長上にあったものといえよう。 

 私の引用図書では、大和や長門の主砲目標について、洋上の目標物(艦船用)についてはやや詳しく述られているが、航空機用の3式弾については、こういった説明が抜けている。目標が艦船であれば、彼我同一平面上の戦い、砲弾が何秒掛かろうとも相手に当たれよい、(目標に当たれば破裂する)着発信管である。

 航空機の場合は立体面で高速で飛び、かつ目標面積は艦船に較べて過小で軽量である。このため高角砲の弾丸は発射後何秒間で(目標の周辺で)破裂して、無数の散弾を四方に撒き散らす、時限信管(タイマー付き)溜散弾である。

 私は、館山砲術学校で数ヶ月訓練を受けただけであり、大和や長門の実物を見たこともなければ、その主砲について説明を聞いたことない。しかし市販の書には、「大和」の主砲が000メートルの距離で敵機編隊00機を撃落としたというようなことが書かれているのを見ると、疑問がわかざるをえない。

 これら主砲の用いた「射撃装置」が、こくこくと変わる三次元の飛行機の将来位置を捉えることが困難であるが、かりに捉えられたとしよう。時限信管を付けた砲弾は、一たん砲身の中に入ってしまえば、信管の時間を変えること出来ない。せいぜい---我が砲台がやった---待ち伏せ射撃流のことか。

 一方、英米(独)では、電波系のレーダーの時代になっていた。

昭和12年、「ジョージ6世の戴冠記念観艦式に参列した巡洋艦「足柄」に乗っていた牧野茂造船少佐は、7月7日廬溝橋事件の突発を知り、佐世保で降りた。

たまたま夜の英仏海峡を通過しているとき、英軍の防空演習がおこなわれていた。
飛行機が夜空を飛んでいる。探照灯の捉えるのが異常に速い----

これらを報告書に書き、『充分研究してみる必要がある』と、艦政本部や呉工廠を説き廻った。
しかし「事変が始まって、『工廠はフネの修理や予備艦の艦隊復帰作業で、それどころじゃないんだよ』と無視されてしまった」
その後何度かレーダー関連の写真等を、みられる機会があったが、海軍の技術屋たちは、レーダーだとは気づかなかった。
在米武官やロンドン在勤の造兵監督官の報告で、「日本海軍が愕然となるのは、対米英開戦のとし(昭16)である」

「昭和16年の初頭、野村直邦中将を団長とする遣独軍事視察団の1員ーーー伊藤庸二造兵中佐が、これ(雑誌”Nature”のある論文)を読んで異様な感じを持った。同時にドイツ側からも、初めてレーダーに関する詳細なデーターが入手できた。

視察団より長文の電報を受け取った海軍は、技研の電機研究部が中心になって、「最優先、最高機密」の扱いでレーダーの研究に取りかっかたのだが、牧野造船少佐の注意を促したときから数えて、英国との間に満4年の差をつけられていた」 (阿川弘之著『戦艦長門の生涯(中)』PP229〜233) 

 視覚的測距儀は夜間とか雲間には使えない。レーダーは、夜間とか雲間には関係なく規定距離範囲内では、距離の如何にかかわらず、誤差は1定である。

                                     

(電探化の努力)

 私は海軍予備学生時代、昭和19年の2月か3月頃、演習で、館山から東京湾を船で横切り、三浦半島の、どこかの浜で電探、つまり見張り用レーダーを見学したことがあった。といっても、レーダーについて誰も説明もれず(?)、大きい金網の枠が立てかけてあるぐらいの印象しか残っていない。ダイハツの訓練のときかもしれない。
 館山の砲術学校には、裏山の12.7センチ広角砲台を含めて、レーダーがなく、「射撃装置」の上に付いてるレーダー用部分が未開発という時期であった。

  館山海軍砲術学校は、陸上の対空火器の唯一の専門校であったが、高角砲は次のような段階であった。

  12、7センチ2連装高角砲は、砲測の砲員は直接目的をねらわず、射手と旋回手は少し離れたところにある「射撃装置」という1種の大型計算機の付いた照準器で目標を追い、それに連動して射撃データーが追尾的に計算され、データーはリアルタイムで連続的に砲測に電送される。砲測では、それにしたがって大砲を動かし、弾を撃つ仕掛けになっていた。

しかし目標までの距離を測るには、従来からある測距儀を使い、射撃用レーダーには連動していなかった。 

 

 『大和』は、遅ればせながら、呉で2度ほど電探施設関係の改修工事をやっている。
第1回、トラック環礁に在った「大和」は、昭和18年5月10日、対空火器の増強の改装工事を受けるため、呉に入港、ようやく対空用見張りレーダーをとりつけることになった。

「15メートル測距儀の両袖の上に『21号電波探信儀(レーダー)』対空用、測定距離55〜85キロをとりつけ、2,3番副砲塔をはずして代わりに12.7センチ50口径連装高角砲3基づつを装置する」                             (児島襄著『戦艦大和(上)』P 174) 

第2回、(サイパン沖海戦の後ーーー、サイパン島を放棄後)19年6月23日、呉に入港。「22号電探」改良型の装備がおこなわれた。

「22号電探」は、波長10センチ,先頭出力2キロワット、戦艦にたいする最大有効距離35キロ、最小有効距離1.5キロ、測距精度0.5キロの性能を持つ対水上見張兼射撃のレーダーである。

 「これまで積んでいた「21号電探」は対空見張用であったが、水上部隊としては、対空火器の増強とともに、こんどは飛行機の援護が少ない状態で、敵艦隊と交戦せざるをえない事態を考えてその整備を熱望していたもの」                         (児島襄著『戦艦大和(上)』P266)

 阿川弘之は『軍艦長門の生涯』で次のように書いている。
長門は7月8日呉を出港大分県臼杵湾に入港、陸兵500人を乗せ中城湾で揚陸、7月12日中城湾発。

12日マニラに入港、7月20日リンガ泊地で、次の---多分最後の海戦に備えて、それより3ヶ月にわたる訓練が再開されることになった。

「(長門)兄部艦長は、射撃用電探にもっとも力を入れた。本式のレーダー撃は、完成していなかったので、これは22号電探を使って距離を測定するだけのことだが、演練の結果、目標に対して左右誤差1度以内、遠近誤差0.01キロというところまで、精度が向上した」           (阿川弘之著『軍艦長門の生涯(下)』P240) 

 ひとくちに、レーダー(電探)といっても、各種類段階がある。私が見たのは見張り用レーダーだけだが、射撃用とか、飛行機の上から下を見る、爆弾用のものがある。
 そして日本海軍は、レーダー射撃の段階に入っていなかったようだ。

 

                

 (高角砲と超重量級水上砲)

 私は、館山砲術学校では、つぎのように教えられた。

 水上砲は打ち出す装薬と、弾丸(従ってその中に入れてある目的物を破壊する炸薬)とが別々になっていて、砲身に込める際は、まず弾丸を詰め、次に装薬を詰める。これに対し高角砲は、装薬の入っている砲筒の先に弾丸がついているーーー薬筒と弾丸が1体となっているカートリッチである。

また弾丸の先端部には、内部に時計仕掛けがあり、外面にはリンク状に秒時を刻む歯車がついている時限信管である。高角砲の12.7センチ砲弾(カートリッチ)は、1人で持ち運びができる。

 かたや大和の46センチの砲弾は重量1.46トンである。

また12.7センチ高角砲には、砲弾を砲身に入れる直前に、時間を刻む装置がついている。
「大和」「長門」の主砲には、対飛行機用の、これらに類する装置があったのか?
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また、阿川弘之著『軍艦長門の生涯(下)には、

米軍のVT信管は「5インチ砲弾の中に超小型の電波発信機と受信機を内蔵させる方式であった。これを組みこんだ対空砲弾は、自分で発信した電波を目標に反射させて自分で受信し、その強さがある値に達すと自動的にスイッチが入る。つまり、目標から1定の範囲内を通過しさえすれば、砲弾は必ず有効に爆発することになる。」(P137) 

 信管は弾丸の1部分を構成している。

 普通、水上砲の弾丸に付いてる信管は、目標に命中すると弾丸を破裂させる着発信管である。しかし弾丸の破裂幅の範囲は小である。また、目標や固いものに触れなければ、弾丸は素通りする。

 これに対し、高角砲の弾丸は、あらかじめ決められた時間で弾丸を破裂させるのが時限信管である。飛行機が目標の場合、艦船に較べ小型でスピードが速いから、例えば20秒かかって着地点を観測し、次の修正点を決めて次の発射するというような悠長ことはできない。

 かくして高角砲の「射撃装置」の登場である。射手、旋回手、測距手が目標の広角、旋回角、高度を計りつづけれは、目標の将来位置(方向・目標物に砲弾が到達する時間)を、セルシンモーターで、連続的に砲側に伝えることができる。砲側員は連続的に砲身を将来方向に合わせることができるが、時間に関しては問題が残る。

 砲弾についている時限信管は、タマを込めた以降はいじることができないから、タマを込める前の段階(砲身の外)で時間を決めなくてはならない。したがって、タマ込めと発射の間を出来るだけ少なくしなければならない。そのため12.7センチ高角砲には、タマ込め直前に時限信管の時間を決める構造になっている。 

 しかし時限信管決定時と発射時の誤差、測距儀の誤差、「射撃装置」の誤差、砲身自身のゆがみ等---が加わると目標が何十メートルに広っても、飛行機は落ちてくれない---。

アメリカ側が開発したVT信管にたいし「日本が開発したのは、大口径砲用溜散弾と云うべき3式弾で、長門陸奥の40センチ主砲がこの3式弾を発射すると、2万メートルも先の上空で、時限信管が作動し、内包した1200個の焼夷弾を広い範囲に撒き散らす」(P136)とある。

 しかし日本が開発したものは、従来からある、12.7センチ高角砲弾の溜散弾が何10メートルの範囲に播き散らすのを、40センチ、46センチ砲用に膨らましていたものではないか?

 しかも、高角砲との重量差のほか、目標が空中という3次元と水面と云う2次元違い、速度の違いがある。

 昭和16年12月7日、「大和」の主砲公試がおこなわれた。標的は、3万2500メートル離れた2隻の筏にたれられた高さ50メートル、幅80メートル大キャンパス、であった。

公試の結果は予想通りの成果をあげたとあるが、児島襄著『戦艦大和』には、数値については、何も触れていない。

 まして、3式弾は対航空機専用の新登場の砲弾である。予想通りの成果をあげたかどうか?

日本側の発表した性能、効果よりも、米側の評価を聞くといいが、米側で大艦巨砲に際立った評価を与えたものについては、私は寡聞にして知らす、或いは無視されたのか---

 大口径水平砲の3式弾と、活発な高角砲のVT信管とは、くらべようもない。
3式弾は、日本戦艦の主砲の、おぼつかない、窮余の策であったと考えられる。

 飛行機を落とすには、適当するタイミング適当な位置で、時限信管が作動し、砲弾を破裂させることが条件であるタマを込めた状態のまま、その先端に付いている時限信管の時間を変えることが可能であったのか?

「大和」「長門」が、主砲を3式弾に使ったのか、実際を知らない私は、『わがトラック島戦記』に書いたような、時限信管を固定した「待ち伏せ射撃」流のものとか、「蛸足爆弾」流ものと思っている。  

 

(主砲の威力)

 若い日、サイパン沖戦、レイテ沖戦に参加したこともある『海軍と日本』の著者は、こう述べている。

「「大和」「武蔵」の主砲の威力は、その後のサイパン沖海戦、レイテ沖海戦でも、呆れるほど低調であった」「唯一の艦隊戦闘であったレイテ沖海戦で,期待された「大和」の46センチ主砲は、約百発討って命中弾はほんの数発しかなかったというのが実情である」

「この主因は、レーダーと連結された射撃指揮体系が立ち遅れていたこと、また砲術関係者の一般的術力の低下にあった」 (池田清著『海軍と日本』P28):池田氏は、1944年海軍兵学校卒業、「摩耶」に乗り組む、海軍中尉、戦後、東大卒業、青山学院大学教授1992年現在) 

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 「武蔵」は、レイテ沖海戦で沈んだ。
 「大和」は、冒頭に書いたように、沖縄戦に特攻艦として出掛けるべくして徳之島沖で沈んだ。
 「大和」のパゴダ・マストは、46センチ砲とともに、時代遅れの産物であったのだ。

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                (2001,7,30稿)(2002,3,15)修正